星の降る夜に

2006年10月1日

星の降る夜に

――暑い。
何でこんなに暑いんだ。
額にじっとりと浮かぶ汗を手で拭いながら、オレは何とはなしにため息一つ。
季節は移ろい、夏が来た。
涼やかな風が吹き抜けていた穏やかな日和を思い出すと、今の暑苦しさがさらに恨めしく思える。
――はぁ。
全く、週の始めからこんな天気とは……。これから毎日が辛いぜ。
昼下がりの午後。食後の何とも気怠い雰囲気が漂う教室で、だらだらと続く授業を受けながら、オレはぼんやりと窓の外を眺めている。
いつもなら眠気に襲われてそのままぐっすりと行きたい所なんだが、さすがにこんなに蒸し暑いと、眠くなるどころかイライラしてくる。
もちろん窓は全開にしてあるが、吹き込む風はほとんどないが、それでも時折、流れ込み火照った肌を通り過ぎる、かすかな風があるだけ少しはマシと言えた。
ったく、どうせこんな暑いんだったらいっそ体育とかで水泳でもやりたいぜ。
こうも暑くちゃ勉強に身が入らないのもしょうがないからな……。
――まぁ、暑くなければ身が入るといったらそうでもないけどな……。
あぁ、ホント早く終わって欲しいぜ。
もはやそんなことしか考えられなくなりながらも、オレは何とか視線を黒板に戻す。
教壇に立つ先生は、時折ハンカチで汗を拭いながらも変わらぬテンポで授業を進めている。
期末テストも終わって、夏休みが目の前に迫っているこの状況で、何が悲しくて真面目に授業受けなくちゃならないのか……。
ちらりと時計に目をやる。
この退屈な授業ももう少しの辛抱だ。
いつもと全く同じペースで時を刻む時計の針を見ながら、オレはこの苦痛な時間が一刻も早く終わることを願った。
***
「――それでは、今日はこれまで……」
その一言で一気に活気を取り戻す教室。
かくいうオレもその中の一人だが。
とにかくこれで今日の授業は終わりだしな。さっさと帰ってのんびりするか。
とりあえず荷物を鞄に放り込み、帰り支度を終えるとオレは席を立った。
「――あ、浩之ちゃん」
背中越しに聞きなれた声。あかりだ。
「おう。お前も帰りか?」
振り返りあかりの姿を確認し、そう言った。
「うん。一緒に帰ろ?」
言ってあかりはにっこりと笑う。
「そうだな。でもその前にちょっといいか?」
「うん、何?」
「あんまり暑くて汗かいちまったからな。顔でも洗ってさっぱりしようと思って」
「そうだね。今日はいつもよりずっと暑かったからね」
「ああ。じゃ、行ってくるわ」
そう言い残して教室を出ようとすると、
「あ、浩之ちゃん」
あかりがオレを呼び止める。
「ハンカチ、持ってる?」
と訊いてきた。
「いや。でも、顔洗うだけだし、別にいいぜ」
オレの言葉に、あかりは『しょうがないなぁ』という表情を浮かべ、
「はい」
言って自分の制服のポケットからハンカチを取り出した。
「いくら暑くても、顔濡らしたまんまじゃみっともないよ。ちゃんと拭いてね」
――お節介なヤツだ。
以前のオレならそう思ってあかりの申し出を断っていただろう。
――でも、今は……。
「ああ、サンキュな」
オレはそう言ってあかりからハンカチを受け取った。
しわ一つない真新しいきれいなハンカチ。
それがオレのために用意していたものだというのに気付くのに時間はかからなかった。
こうやってあかりの好意を素直に受けることができる。
少し前までは照れ臭くてとてもできなかったことだが、今のオレにはそれがごく自然なことに思える。
――あかりと付き合い始めて2ヶ月が過ぎようとしていた。
知らない間にオレも変わっていたのかと思うとおかしくなり、不意に笑みがこぼれる。
「ふふふ、どうしたの浩之ちゃん?」
「ん? なんでもねーよ」
オレはそう言ってあかりの頭をくしゃっとした。
「あ! も、もう」
あかりはそんなオレを見て困ったような、少し恥ずかしそうな顔をした。
「ははは、じゃ少し待っててくれ」
「うん」
今度こそそう言ってオレは教室を後にした。
少し小走りにトイレに向かう。
――あかりを待たせちゃ悪いからな。
頬をゆるやかに撫でる風が妙に心地好かった。
***
トイレの洗面所で蛇口をひねる。
勢いよく流れ出す水道に手を浸すと、ひんやりとした感覚が何とも気持ちいい。
手で水をすくい、顔を洗う。
火照り、汗ばんだ肌を冷たい水が冷やす。
ふ~、生き返るようだぜ。
しばらくその冷たさを楽しんだ後、蛇口をひねり水道を止める。
あかりに借りたハンカチで顔を拭く。
ほとんど新品のようなきれいなハンカチからは、あかりの優しい匂いがしたような気がした。
――あかりのヤツ待ってるかな? 急いで戻るか……。
鏡を見て髪の乱れがないかチェックして、オレはトイレを後にした。
「――あ」
廊下に出た途端オレの目に飛び込むあかりの姿。
「な、なんだ。教室で待ってたんじゃないのか?」
少し意表を突かれたオレ。
「うん、浩之ちゃん、わざわざ教室まで戻るの面倒じゃないかと思って、来ちゃった」
さすがに場所が場所だけに、あかりはトイレの入り口から少し離れた所に立っていたが、オレはあかりのそんな心遣いを嬉しく思った。
「はい。ちゃんと浩之ちゃんの鞄も持ってきたよ」
そう言ってオレの鞄を差し出す。
「ああ、悪ぃな」
言いながらオレは鞄を受け取った。
「そんなに離れてる訳じゃないんだし別に教室で待ってても良かったのに。鞄、重かったろ?」
最近は家で復習する訳でもないのに、オレは毎日教科書などをマメに持ち帰っている。この辺りもあかりの影響かもしれないけど。
「そんなことないよ。私のと同じくらいの重さだったし」
「そっか」
「うん」
オレの返事にこくりと頷くあかり。
「それと、ハンカチありがとな。後で洗って返すぜ」
「あ、別にそのままでもいいのに」
言うあかりを無視して、オレはハンカチを制服のポケットに押し込んだ。
「いいって。借りたのはオレなんだし」
「うん、ありがとう」
「それじゃ、そろそろ帰るか?」
オレの言葉にあかりは、
「うん」
元気よく頷いた。
***
玄関で靴を履き替える。
少し遅れて靴を履き替えるあかりを待って、ふたりで外に出た。
外に出ると、刺すような陽射し。
蒸し暑いと思っていた校舎の中が、いくらかマシに思える。
「うわぁ~、まだ暑いね」
額に手をかざしながらあかりが言う。
「ああ。この分じゃ夜になっても暑いままかもな。熱帯夜ってヤツか」
「うん、最近毎日暑いからね。浩之ちゃん、ちゃんと眠れてる?」
「まぁ、夜になれば自然に眠くなるからな、眠れないってことはないけど」
「食事とかちゃんと取ってる? またインスタントばかり食べてるんじゃないの? ダメだよ、ちゃんと栄養のあるの食べなきゃ。夏バテしちゃうよ」
まるでオレの母さんみたいな口調で諭すあかり。
時々お姉さん風を吹かす。
「でもなぁ、やっぱりオレ一人だと面倒くさくて」
「やっぱり心配だなぁ」
心底心配そうに言うあかり。
「あのなぁ、それじゃお前が毎日オレの飯作ってくれるって言うのか?」
ちょっと意地悪な口調でオレが訊く。
毎日って訳じゃないが、あかりにはちょくちょく夕飯を作ってもらってる。食費も浮くし、上手いもの食べれるしと一石二鳥だ。
「え? え?」
オレの言葉にさすがに戸惑うあかり。
やがて、
「う、うん。浩之ちゃんがそうして欲しいんだったら、私は別に……。お母さんに色んなお料理教えてもらって頑張って作るけど」
頬を朱に染め、俯きながら消え入りそうな声でぽそりと答える。
――何か勘違いしてないか?
「ま、まぁ、毎日は無理だろうけど、これからもたまには頼むぜ」
「あ、そうなんだ……」
肩を落としてがっかりしてるように見えるのはオレの気のせいか……?
「ほら、そろそろ行こうぜ」
オレはあかりの手から鞄を取ると、校門の方へ向かって歩き出した。
「あ、浩之ちゃん?」
きょとんとした顔でオレを見るあかり。
振り返りながら、
「さっきはわざわざオレの鞄まで持って来てもらったからな。今日だけはオレがお前の鞄を持って帰ってやるよ」
と言う。
「別にいいよぉ」
慌てて駆け出しオレの横に付く。
恥ずかしそうに言うあかりを横目に、
「人の好意は素直に受けるもんだぜ? あかり」
少しからかうようにオレは言った。
「オレがこんなことするの滅多にないんだからな」
「うん。ありがとう、浩之ちゃん」
「ばーか、礼なんていらねーよ。オレがしたいからやってるんだし」
「……うん」
ふたり揃って校門を出る。
いつもの坂道をゆっくりと下りながらオレたちは家路に就いた。
穏やかに吹く風が木々の梢を静かに揺らす。
少しだけ涼しい木陰を歩きながらオレはあかりととりとめもない会話を交わす。
「もうすぐ夏休みだね」
流れゆく白い雲を目を細め見上げながら、あかりが言った。
「ああ」
「浩之ちゃん、この前のテストどうだったの?」
先日の期末テストの結果を訊いてくる。
「ん? ああ、まあ、ぼちぼちって所かな」
「そっか、良かったぁ」
まるで自分のことのように胸を撫で下ろすあかり。
「これも、あかりのお陰だけどな」
「え、そうかな?」
「ああ、お前がオレの分もノートまでコピーとか取ってくれたからな。
一緒にテスト勉強しなかったらヤバかったぜ。これからもよろしく頼むぜ」
照れ臭そうな微笑みを浮かべながら、
「うん。でも、上手くいったのは浩之ちゃん自身の実力だよ。だって浩之ちゃんは……」
何回も聞いたあかりの言葉。
「『やればできる』――だろ?」
あかりの言葉を遮って続けたオレの言葉に、
「うん!」
あかりは力強く頷いた。
蒼く澄んだ空の下、オレたちはのんびりと家路を辿った。
***
「じゃ、ここで」
オレの家の前であかりが言った。
「ああ、ほら鞄」
オレは脇に抱えていたあかりの鞄を手渡した。
「あ、ありがとう」
「いいって気にすんな。それじゃな」
「うん、ばいばい」
オレはあかりの姿が見えなくなるまで見送ると、玄関の鍵を開けて家に入った。
「ただいま~」
返事がないのは分かっているが、習慣からそう言って家に上がる。
「うわっ、暑いな……」
戸締まりをきちんとしているからしょうがないが、リビングにはむわっとした空気が充満していた。
その場で立っているだけでも汗が滲んでくるようだ。
オレは閉め切った窓を開け、外の空気を入れる。
外もまだ陽が高くあまり変わりがないように思えたが、それでもいくぶん新鮮な空気が流れ込んでくるのを感じた。
オレは2階への自分の部屋へ行き、鞄をベッドの上にほうり投げる。
制服を脱ぎ、簡単な着替えを済ませ、再び1階に下りて行った。
キッチンにある冷蔵庫の扉を開け、冷えた麦茶を取り出しコップに注ぎ喉を潤す。
「ふ~」
ようやく落ち着き、一息付く。
時刻は5時を少し回った頃。
日の長くなった最近では夕暮れまでも結構な時間がある。
特にすることもなく、手持ちぶさたになったオレはしょうがなくリビングのソファに寝転がりテレビのリモコンのスイッチを押す。
少し前に流行ったドラマの再放送。別に見たい訳でもなかったが、他にすることもなしぼんやりと画面を眺めていた。
しばらくそうして時間を潰す。
見ていたドラマも終了し、いよいよすることがなくなる。
暗くなるには少し早い、しかし外出するには少し遅い、何とも中途半端な時間。
太陽はゆっくりと西の空に傾き始めているが、暮れるまでもう1時間くらいある。
部屋に入り込んでくる外の空気も、わずかではあるが涼しさが感じられる。快適と言うには程遠いが……。
「飯でも作るか……」
とりあえず、空腹を満たそうと再びキッチンに立つ。
――しばらくまともな食事なんてしてないからな……。いっそのことあかりに頼めば良かったぜ。
ふと帰りに交わした会話を思い出しつつぼやく。
材料になりそうなものを探し、辺りを見回す。
――何もない……。
こうまで見事に何もないとかえってすっきりするな。
――しょうがない、今日もインスタントで済ませるか。
やかんに火を掛けお湯を沸かす。
買い置きしてあるインスタントラーメンの中から適当なのを見繕ってパックを開ける。
沸いたお湯をカップに注ぎ蓋をしてきっちり3分待つ。
出来たての熱いラーメンをすすりながら冷たい麦茶を飲む。
暑いのに熱い食事をするのは矛盾しているようだが、これはこれで上手いと感じるから不思議だ。
……オレだけかも知れないけど。
額に汗など浮かべながらスープまで飲み干し、後片付けをする。
ごく簡単な食事だったが腹はふくれたしな……。足りなかったらあとで夜食でも食べればいいか。
もう1度ソファに寝転び、そんな事を思った。
少し紅味を帯び始めた夕日が差し込むリビングで、オレはゆっくりと目を閉じ眠りに就いた。
***
トゥルルル……
オレの目を覚ましたのは廊下で鳴り響く電話の音だった。
トゥルルル……
オレに電話掛けてくるなんて……。母さんたちかな?
トゥルルル……
電話はオレを急かすように鳴り続ける。
ふと見回すと陽は既に落ち、辺りには静かに闇が降りていた。
りーりーと鈴虫の鳴く声がどこからか聞こえてくる。
――はいはい、今出ますよ。
心の中で呟きながら身体を起こし、電話に向かう。
――カチャリ
「はい、藤田です」
受話器を取りオレはそう言った。
「――あ」
驚いたような、ほっとしたような声が響く。
「……なんだ、あかりか?」
「うん……。ごめんね突然電話して」
少し不機嫌そうなオレの声を聞いて、あかりは謝る。
「悪ぃ、今までちょっと寝てたんで、頭がまだ完全に起きてないみたいだ」
「そうなんだ? 起こしちゃってごめんね」
「いや、別に謝らなくてもいいぜ。どうせ起きなきゃならないんだしな。――それよりもどうしたんだ? お前が電話掛けて来るなんて珍しいじゃねーか」
「う、うん。あのね、浩之ちゃん……」
少し言葉に詰まりながらあかりが言う。
「何だ?」
「あのね、今、暇かな?」
「ん? ああ、別にこれと言ってする事ないけど。そんなことお前もよく分かってるだろ?」
分かりきったことを訊くあかり。オレのことをよく分かってるくせに、妙な所で気を遣い遠慮してしまう変なヤツだ。
「それじゃ、今出れる?」
「ああ、別に構わないけど」
オレの言葉を聞いて、あかりが喜んだのが電話越しでも分かった。
――ったく、おおげさなヤツだなぁ。
内心苦笑しながらあかりの次の言葉を待つ。
「で?」
「あ、うん。ちょっと散歩したいなぁって思って……。ダメかな?」
「散歩? これからか?」
「うん、ほら、家の中より外の方が涼しいでしょ。それに今夜は星がきれいだよ」
「――分かった。付き合ってやるよ」
「ホント?」
「ああ。これからお前ん家行けばいいのか?」
「ううん、私が浩之ちゃん家に行くから……。ちょっと準備に時間かかるから、30分くらい待ってね」
「準備、って何の?」
訊くオレに、
「ふふふ、ないしょだよ」
あかりはくすくすと笑ってオレの質問をはぐらかす。
――何なんだ一体?
「分かった分かった。それじゃオレもシャワー浴びて着替えとくから。30分後な?」
「うん。
それじゃ、電話切るね」
「ああ」
「ばいばい」
あかりはそう言って受話器を置いた。
――ガチャリ
電話が切れるのを確認してからオレも受話器を元に戻す。
――さて、あかりが来るまでにオレの方も用意しておかないとな。
オレはタオルを手に取りシャワーを浴びに風呂へ向かった。
いつもよりお湯の温度を低めにして頭からシャワーを浴びる。
簡単に汗を流し、頭を洗った後、風呂を出てバスタオルを腰に巻いたまま2階へ上がる。
濡れた頭をタオルで乱暴に拭いてから服を纏い、簡単にブラッシング。
ドライヤーを使っても良かったけれど、この暑いのに温風を浴びる気にはならない。放っておけばそのうち乾くしな。
オレの方は準備はできたけど、あかりが来る気配はまだない。
もうしばらく待つか……。リビングであかりを待つことにしたオレは、サイフを手に取ってから階段を下りた。
時計に目をやり時間を確認する。
――そろそろか?
約束の時間まであと少し。あかりのことだからその時間より早く来るに違いない。
さっきの電話の様子だと何か隠していたようだが……?
あれこれ考えを巡らせながら、時計の針を眺める。
しかし、待てどあかりは来ない。
おかしいな?いつもなら時間に遅れることなんてないのに……。
歩いたってほんの数分の場所にあるから、何かあったらすぐに分かるはずだし……。
しょーがねーな。『待ってる』って言っちまったがオレの方から迎えに行ってやるか。
ソファから腰を上げ玄関に向かおうとしたとき、
――ピンポーン
タイミングを見計らったようにチャイムが鳴った。
オレはそのまま玄関に向かい、鍵を外しドアを開ける。
「ったく、おせーぞ、あかり……って。あかり?」
恥ずかしそうにしながら玄関に足を踏み入れたあかりの姿は……、
「こんばんは、浩之ちゃん。ごめんね、ちょっと時間遅れちゃったね。お母さん、『あれがいい、これがいい』ってなかなか決めてくれなくて……。変じゃない? この格好?」
朝顔の花をあしらった浴衣に身を包んだあかりを見て、オレは一瞬言葉に詰まった。
まるで髪型を変えたあかりを初めて見たあの日のような奇妙な感覚だった。
「……浩之ちゃん?」
不安げな顔でオレの名を呟くあかり。
「あ、わ、悪ぃ。浴衣着て来るなんて一言も言わなかったじゃねーか。一瞬誰かと思ったぞ」
「えへへ……。ないしょにして浩之ちゃん驚かせようかと思って」
言っていつもの優しい微笑みを浮かべるあかり。
「まぁ、確かに驚いたけどな」
ぎこちなく苦笑するオレを見て、
「浩之ちゃん、私の格好やっぱり変かな……?」
おずおずと訊くあかり。
「い、いや。すごく似合ってる……」
「ホント?」
「ああ。自分で選んだのか? その柄」
「ううん、お母さんが色々見せてくれて、これがいいんじゃないかって選んでくれたの。良かったぁ、浩之ちゃんに気に入ってもらえて」
嬉しそうに笑うあかりを見て何となく気恥ずかしくなるオレ。
――あかりの浴衣姿なんてずいぶん見てなかったからな……。最後に見たのいつだったかな?
「それじゃ、行こ?」
「ああ、そう言えば散歩行くんだったっけ?」
「もう、忘れちゃダメだよ」
オレの言葉に苦笑するあかり。
「あ、浩之ちゃん、ライターか何か無いかなぁ?」
「ライター? あるけど、んなもん何に使うんだ?」
訊くオレに、
「ホラ、家でこんなの見付けたの」
見ると、あかりの手には少し小さめの堤燈が握られていた。
手首には浴衣とお揃いなのだろうか? 小さな巾着袋を下げている。
「へぇ、堤燈なんてお前ん家にあったのか」
珍しそうに言うオレ。
「うん、ちょっと使う季節にはまだ早いけど、せっかくだから」
「そうだな、じゃライター取ってくるぜ」
「うん」
オレはリビングの棚にしまってあるはずのライターを取りに戻る。
「ほら」
思ったよりあっけなく見つかったそれをあかりに手渡す。
「あ、ありがと」
にっこり笑って受け取るあかり。
「それじゃ、準備も出来たし行くか」
「うんっ」
オレたちはふたり揃って家の前に出る。
オレは玄関に鍵を掛け、あかりに、
「ほら、堤燈に火、着けないのか?」
「あ、そうだね」
あかりはオレが渡したライターを取り出すと、シュッと火を着ける。堤燈の中のロウソクを表に出し、ゆっくりとライターを近付ける。
「あかり……大丈夫か?」
危なっかしげなあかりの動作に少し不安になるオレ。
「大丈夫だよぉ、これくらい……きゃっ!」
ライターの炎が指にでも触れたのだろう、あかりは短く叫ぶと手にしていたライターを地面に落とした。
「言わんこっちゃない……」
「だってぇ~」
少し涙声になりながらあかりが抗議の声を上げる。
「ほら、見せてみな」
オレはあかりの右手を取る。
月明かりに映える、あかりの透き通るような白い肌。
「全く、相変わらずどじなヤツだなぁ」
「う、ごめんね。また迷惑掛けちゃった」
しょんぼりして言うあかり。
ほんの少し赤く腫れたあかりの親指をオレはそっと口に含む。
「あ! ひ、浩之ちゃん?」
突然のことに驚き、声を上げるあかり。
「ホントは冷たい水にすぐ浸けた方がいいんだけどな。一応人間の唾液だって消毒の効果あるんだぜ?」
――ホントは火傷に効果があるかどうか分からないんだけど……。大したことなさそうだから、これで大丈夫だろ。
「どうだ? まだひりひりするんだったら家に戻ってちゃんと手当てした方がいいけど」
訊くオレに、
「う、うん。大丈夫。火が当たってびっくりしただけだから……」
右手をそっと左手で隠し、顔を真っ赤にしたあかりが俯きながら答えた。
「そうか。驚かせるなよな」
「ごめん……」
オレは地面に置きっぱなしになっていた堤燈に火を灯し、
「ほら」
あかりに手渡した。
「ありがとう。浩之ちゃん」
「よし、今度こそ行くぞ」
まだ赤い顔をしているあかりに声を掛け促す。
――満天の星空、蒼く輝く大きな月。
時折月はゆっくりと流れ行く黒い雲の陰に隠れ、辺りに一層の闇を落とす。
儚く揺れる堤燈の光が暗い道を照らし、オレたちはその灯を頼りに歩を進めた。
「――静かだね」
淡い光を振りまくその灯をじっと見詰めながらあかりが囁く。
「ああ。それにいい天気だ」
「うん。そうだね」
言葉少なな会話を交わしながらオレたちはいつもの公園へと向かった。
――どちらが言った訳でもない。オレたちならそこへ行くのが一番自然だと思ったから。
公園には――当然のように――人影は無かった。
「とりあえず、座るか」
「うん」
オレの言葉に素直に頷くあかり。
しんと静まり返った公園。聞こえるのは風と木々のざわめき。
ロウソクの蝋の焦げる音がちりちりとかすかに耳に届く。
「星がとってもきれい……」
オレの横で夜空を見上げながらあかりが言う。
あかりの言葉にオレも顔を上げ、空を眺める。
大空に架かる星の大河。小さな点のような星々が静かに瞬いている。
――天の河か……。
「そうだな」
静かに答える。
「せっかくの七夕だもん。晴れて良かった……」
――そうか、今日は7月7日。七夕だったな……。
「1年に1度しか逢えない織姫と彦星なんて、ロマンチックだよね」
「まぁ、な」
オレの曖昧な答えを不思議に思ったのかあかりはオレの顔を覗き見る。
「でも、オレはちょっと我慢できないだろうな……。1年で1回しか逢えないなんてのは」
「え?」
「今日逢ったらまた1年逢えないってことだろ? オレは明日も明後日も、ずっと一緒にいたいって思ってるからな……」
堪らなく恥ずかしい台詞。さらりと言ってしまった自分に一番驚いた。
――あかりのヤツ、熱くなってるオレの顔に気付かないだろうな?
「浩之ちゃん、それって……」
かすかに揺れる声であかりが言葉を紡ぐ。
オレはその言葉が終わるのを待たず、あかりの唇にオレの唇を重ねた。
「……ん」
あかりは最初、びっくりしたような表情を浮かべ身体をこわばらせたが、やがてゆっくりと目を閉じ、オレに身体を預ける。
風に揺れるあかりのさらさらの髪。そこから香る優しい匂いがオレの鼻孔に届く。
どれくらいの時間、唇を重ねていたのか……。
オレがゆっくりと顔を離すと、
「……はぁ」
あかりが大きく息を吐いた。
「あかり……?」
酔ったようにぽーっとしているあかりにオレは声を掛ける。
うっとりとした瞳がオレの顔を覗き込む。
「……浩之ちゃん」
「ん?」
「私も……」
あかりが言葉を続ける。
「私もおんなじ。――ずっと浩之ちゃんと一緒にいたいな……」
顔を真っ赤に染めながら小さな声で囁くあかりの姿が、堪らなく可愛く思えた。
「ああ、そうだな」
再び、空を見上げる。
宝石をちりばめたように瞬く星々。
これからも決して変わらないその輝きを静かに眺める。
堤燈から漏れる淡い光が、オレたちの影を地面に落としていた。
***
「そろそろ帰ろうか?」
あかりが言った。
「そうだな……」
時計に目をやりながら答えるオレ。
「少し遅くなっちまったな。悪ぃな、あかり」
「ううん。私も楽しかったし……」
既にロウソクが燃えつき、光を失ってしまった堤燈を手に取り、あかりが腰を上げる。
少し遅れて立ち上がるオレ。
「それじゃ、行くか」
「うん」
オレたちはゆっくりとした足取りで公園を後にした。
「――浩之ちゃん」
「何だ?」
「夏休み、もうすぐだね」
「ああ、そうだな」
「いろんな所に遊びに行こうね」
オレの顔を見上げ、変わらぬ微笑みを湛えたあかりが言う。
「ああ。どこへ行きたいかちゃんと考えとけよ。『どこでもいい』ってのが一番面倒なんだから」
「うん。実はもう考えてあるんだ」
言ってあかりは『えへへ』と笑った。
「そっか。どこへ行きたいんだ?」
訊くオレ。
「ないしょ」
いたずらっぽい微笑みを浮かべあかりが言う。
「ないしょって何だよ? オレに言えないようなとこなのか?」
「違うよ。でも今はまだないしょなの」
少し困ったような顔であかりが言う。
「まぁ、別にいいけどな……」
何か釈然としないものを感じながら言うオレ。
「楽しみだなぁ、夏休み」
眩しい季節に想いを馳せ、声を弾ませながら言うあかり。
「そうだな」
そんなあかりを見ていると自然に笑みがこぼれる。
「どうしたの? 浩之ちゃん」
「いや……。今年の夏は楽しくなりそうだなって思っただけさ」
「うん。いっぱい楽しい思い出作ろうね」
溢れんばかりのあかりの笑顔。
「ああ」
そんなあかりを見詰めながら、オレは力強く頷いた。
月明かりに照らされゆっくりと歩くふたり。
少しだけ涼しさを乗せた風が、オレたちの髪を揺らし頬を撫でる。
「……あ!」
小さく声を上げるあかり。
「流れ星……」
「え?」
「見た? 浩之ちゃん。ほら、また!」
つられてあかりの視線を追うオレ。
その視線の先に、夜空を滑る流星を見付けた。
「ホントだ。珍しいな」
誰にともなく呟くオレ。
「浩之ちゃん、お願いした?」
嬉しそうに言うあかり。
「お願い?」
「私はしたよ。『いつまでも浩之ちゃんと一緒にいられますように』って」
屈託の無い笑顔でオレを見詰め、あかりが言う。
――ったく恥ずかしいヤツだな。
「バカらしい……。迷信だよ迷信」
聞いてるこっちの方が恥ずかしい。オレは目を逸らしながら言った。
「そうかなぁ……」
「そうなの」
「願い事だったら短冊にでも書けばいいだろ? 今日は七夕なんだし」
「うん、それはもう家で書いてきたから……」
「おいおい……」
あかりのその言葉にさすがに苦笑するオレ。
あかりはまだ夜空を見上げている。
そんなあかりを置いて、オレは歩き出す。
「あ、待ってよぉ、浩之ちゃん」
オレが歩き出したこのに気付いて、慌てて駆け出すあかり。
オレは歩みを止め、あかりが追い付くのを待つ。
「もう、置いて行くなんてひどいよ、浩之ちゃん」
息を弾ませ言うあかり。
「ははは、悪い悪い」
笑いながら謝るオレ。
「あかり」
オレはあかりの大きな瞳を見詰めながら言う。
「何?」
「お前の願い事、必ず叶えてやるよ」
輝く星空を見上げながら言う。
「……うん。きっとだよ」
オレの言葉に頷き、そっとオレに寄り添うあかり。
そんなあかりを、オレはそっと抱き締めた。

――あかりには言えないな……。
あかりの温もりを全身で感じながら思う。
さっき見た流れ星にしたオレの願い事。
星降る夜に誓った想い。
あの星空のように、これからも変わることのないオレたちふたりの想い。

『いつまでもふたりが一緒にいられますように』

――了――