空を見上げて

空を見上げて

「ほらほら、浩之ちゃん~。綺麗だね~」
「ああ」
「もうちょっとで頂上だよ」
「おう」
「えへへ~」
「しっかし、元気だな、あかり」
「うんっ」
「ま、あとひと頑張りしますか」
「うん、頑張ろうね、浩之ちゃん」

§

それは何気ないあかりの一言から始まった。
『ねぇねぇ、浩之ちゃん』
『ん? 妙に機嫌がいいな、なんかいいことでもあったのか?』
『えへへ……』
『で、どうしたんだ?』
『今週末って、三連休だよね』
『そう言えばそうだったな』
『それでね、一日空けられないかなぁ?』
『まぁ、別に構わないけど。どうせ暇だしな』
『暇って……。私たち一応受験勉強もしないとなんだよ~』
『イヤ、だからさ……。たまの息抜きってことだろ?』
『あ……。うん、そうだね』
『で、どっか行こうってことか?』
『うん。ダメかなぁ……?』
『ば~か』
『え?』
『せっかくの息抜きなんど、お前と一緒だったらどこだってついて行ってやるよ』
『えへへ~』
『な、何だよ』
『ありがとう、浩之ちゃん』
『だから、礼なんていいって言ってるだろ』
『あ、うん。そうだね』
そう言って微笑んだあかりの頭をオレは優しく撫でた。
恥ずかしそうな、それでいて幸せな微笑みを見れることが、オレにはこの上ない幸せだった。
春、夏とオレたちは猛勉強を重ねていた。
今まで怠けていた分を取り戻すのは並み大抵の努力では足りないことが十分に分かっていたから。
あかりも、オレも、高校を卒業してからの進路については、それまであまり話もしなかったこともあって、かなり悩んだことも事実だった。
ただ、オレたちのこれからのことを考えると……。
高校卒業したてで、あかりを幸せにしてやる確信が持てなかった。
もちろん、仕事に就くことも考えたりもした。
この就職難の時代とは言え、選り好みをしなければ少なくとも生活費を稼ぐことくらいはなんとか出来るだろうし。
未だ出張がちで滅多に家に帰ってこない両親のことを考えれば、オレの家でふたりで暮らすのも悪くないと思っていた。
オレには将来の予想図というものが、漠然としか浮かんでいなかったのかも知れない。
『なぁ、あかり』
『何、浩之ちゃん?』
『お前さ、高校卒業したらどうする?』
『どうするって……?』
『進学するとか、就職するとか、いろいろあるだろ?』
そう、あかりに訊いたのは、桜の季節ももう峠を越えた頃だった。
『私は多分、進学すると思うよ』
『そっか……』
『浩之ちゃん?』
『何だ?』
『進路、迷ってるの?』
『まぁ、そういう事だな……。オレってこれといって何かに打ち込んだこともないし、勉強だって大してできないからな。進学って言ってもいまいちピンと来ないんだよ』
『浩之ちゃん、勉強したいことってないの』
『よせよ……。オレには縁のない事だよ』
『でも、何かないの……?』
舞い散る桜と青く澄んだ空。
喧騒が遠のく放課後の教室。
あかりと机を向かい合わせて頬杖をつきながら見たあかりの表情は、いつになく真剣なものだった。
『浩之ちゃん、今までだっていろいろと頑張ってきてたと私は思うよ』
『ただ、何がしたいか見付けられないだけなんだよね?』
『三年生になっちゃって、時間も少ないかも知れないけど、一緒に考えようよ』
『私は、浩之ちゃんが選んだことならそれを応援したいから』
『だから……』
『浩之ちゃん』
『あとで後悔しないように、一生懸命考えようよ……』
『ね? 浩之ちゃん』
あかりはオレのことを真剣に応援してくれていた。
そのことに気付いたのはその時だったのか、あるいはずっと昔からだったのか、それはオレにも良く分からない。
ただ、そんなあかりの想いも考えずにオレはただふたりでいられればいい、としか思っていなかった自分が余りに情けなく思えた。
いつもはオレを頼って、オレに甘えて、オレのそばで笑ってくれていたあかり。
そんなあかりの優しさに、寄り掛かって、あかりのことを思いやるつもりで、それでいて何もできずにいたのはオレの方だった。
沈黙と遠く聞こえる部活動の活気に満ちた掛け声。
『オレは……』
『あかりといれればいいとしか思っていなかった』
『進学も就職のことも今の今まで真剣に考えていなかったかも知れない』
『今のオレにはしたいこともないし、自分が何になりたいかなんて事も全然思いつかないんだよ』
『こんな中途半端なままでいちゃいけないっての事も分かってるけど』
『オレには何が出来るんだろう……』
初めて真剣に考えた。
オレの事、あかりの事、将来の事。
考えはまとまりもしなかった。
堂々巡りの思考のループ。
結局、オレには自分のことすら満足に分かっていなかった。
『浩之ちゃん……』
『あかり……?』
『私も浩之ちゃんの側にいられれば幸せだよ。でも、浩之ちゃん、私のことばかり考えてて、浩之ちゃん自身の事をあんまり考えられなかったんじゃないかな?』
『……』
『浩之ちゃんのそういう優しい所、私もすごく大好きだけど、でもこれからの事を考えると浩之ちゃん自身のことも真剣に考えなきゃいけないと思うんだ』
『そうだな……』
『浩之ちゃん……』
『ああ』
『勉強、頑張ってみない?』
『今からか……?』
『うん。私も一緒に頑張るよ。先のことなんてまだ決めなくてもきっと大丈夫だから。でもね、何をしたいか分からない、って理由だけで自分の中で勝 手に区切りを付けちゃダメなんだよ。最後まで考えて、悩んで、間違ったっていいよ。私だって今こんな偉そうなこと言ってるけど、浩之ちゃんとおんなじ。進 学して何が出来るか、何になれるかなんて、全然見えてないんだよ』
『……』
『だから、これからも一緒に考えようよ。一緒に頑張ろうよ。私はね、浩之ちゃんと一緒だったらきっと大丈夫だから。今までだってずっと浩之ちゃんに助けられて来たんだから。こらからだってきっと大丈夫だよ』
『そんなことない……』
『え……?』
『オレもお前に頼りっぱなしだったんだよ。いつだって、当たり前にいるお前に知らないうちに甘えてたんだ』
『そんなこと……』
『実際、今お前の話を聞いてはっきりと分かったよ。このままじゃオレだけじゃなくて、お前にもきっと迷惑を掛けちまう』
『浩之ちゃん……』
『だからさ……』
『うん』
『オレも頑張るわ』
『え?』
『先の事なんて分からない、だから今を頑張る、だろ? ありがとな、あかり。お前のおかげだよ……』
『ううん……』
『やっぱ、お前がいないとダメみたいだな、オレ』
『えっ?』
『だからさ』
『う、うん……』
『これからも、オレの側にいてくれって事だよ』
『浩之ちゃん……』
『まぁ、オレが単にお前の側にいたいってだけかも知れないけどな』
『ううん……。浩之……ちゃ……。嬉し……よ』
『ば、バカ……、こんなとこで泣くなよ』
『え……う、うん……。えへへ……』
『と、とりあえず、オレも頑張るから、勉強よろしくな、神岸あかり大先生』
『――イヤだよ』
『何ぃっ!?』
『えへへ……、ウソ』
『はぁ……、脅かすなよ~』
『あっ……! ヤだ~』
『ば~か、オレをからかうからだ』
『うぅ、ゴメン……。でも、浩之ちゃんも私のこと先生なんて呼ばないでよ……。一緒に頑張るんだからね』
『――あ。悪ぃ……』
『ううん。私も浩之ちゃんにきっといろいろ教えて貰うことになると思うからおあいこだよ』
『そうなるように頑張るわ……』
『うん、頑張ろうね』
季節が流れていた。
穏やかな春。
静かな雨音に包まれた梅雨。
陽射しが眩しさを増し始める初夏。
刺すような眩しさに目を細める暑い夏。
そして。
穏やかな季節の中。
変わらぬ生活。
少しだけ変わったふたり。
受験の勉強の辛さも、少しだけ和らげる。
あかりと一緒なら。
受験の勉強の辛さも、きっと頑張れる。
あかりがいてくれるなら。
「はぁ……、ようやく到着かよ」
「うん、やっと到着だね」
太陽は南の空高く、オレたちを照らす。
少しだけ暑さを感じさせる陽射し。
流れる雲と、草葉を揺らす優しい微風。
火照った肌に浮かんだ汗をゆっくりと撫でてくれる初秋の風に身を任せ、オレたちは久々に羽を伸ばしていた。
「はい、浩之ちゃん」
「お、さんきゅ」
ほどよく冷えた紅茶を喉に流し込み、一息付く。
「は~」
「ふふふ、オジさんみたいだね」
「ほっとけ」
「お弁当、どうしよう?」
「う~ん、もうちょっとゆっくりしてから」
「うん」
「なんだか落ち着くね」
「そうだな……。たまには息抜きも必要だな、やっぱり……」
「うん」
「最近、調子はどうだ?」
「うん、悪くないと思うよ」
寝転がって空を見上げたオレを楽しそうに見ながら、あかりが言った。
「浩之ちゃんは?」
まぁ、お約束の質問だな。
「オレも、まぁ、悪くはないと思う」
「うん。浩之ちゃん、とっても頑張ってるもんね」
「お前のおかげだけどな」
苦笑がちにあかりを見つめる。
風に揺れる赤い髪と黄色いリボン。
幸せな微笑み。
細めた瞳。
「私も浩之ちゃんのおかげかな」
言って、えへへ……、といつもの照れ笑い。
「いいお天気だね」
「ああ、晴れて良かったよ」
「うん、気持ちがいいよ」
緩やかな風に運ばれてくる季節の匂い。
気持ち良さそうに身体を伸ばしていたあかりが、
「こうやって空見てるとオレたちって小さいよな」
「綺麗な空だね」
果てしない深さと広さの青さ。
こんな風にゆっくりと空を見上げるなんて随分としていなかった。
吸い込まれそうな青。
目に染みるくらいの青。
流れる雲。
溶けゆく白。
「今日はこうやってずっと空見ててもいいかもな」
「うん……」
「今日はあかりに感謝だな」
不思議そうにオレを見る。
「こうやってのんびり過ごすのも、たまには悪くないだろ?」
「うん」
「だから、感謝」
「ありがとう」
――でも、明日は勉強だよ。
そう言ったあかりにオレは苦笑して。
「はいはい」
くすっ、と少しだけあかりが可笑しそうに笑った。
静けさ。
暖かさ。
優しさ。
時間と白い雲だけがゆっくりと流れる。
「私も、横になっちゃおうかな……」
「ん?」
「浩之ちゃん、気持ちよさそうだし……」
少し恥ずかしそうに。
「私も浩之ちゃんと同じ空を見たいよ」
少し照れ臭そうに。
「そうだな」
オレの言葉に頷いて。
「うん」
ころん、とその小さな身体を横たえた。
それにあわせてオレも腕を伸ばし腕枕。
「あ、ありがとう……」
「いつものことだろ?」
「――もうっ」
腕に心地いいあかりの重み。
「わぁ……」
吸い込まれそうな青。
「綺麗……」
目に染みるくらいの青。
「来て、良かったよ……」
溶けゆく白。
「ああ……」
「あとで、お弁当食べようね」
「ああ」
「でも、まだこうやって空を見てていいよね」
「ああ」
「浩之ちゃん」
「ん?」
「ありがとう……」
風がそよいでいた。
雲が流れていた。
暖かな陽射しが降り注いでいた。
穏やかな風に抱かれ。
暖かな陽射しに包まれ。
「――ば~か」
「うん……」
空を見上げて。

──了──