『春を見付けて』

ようやく慣れたと思ったこの寒さも、少しずつ和らぎ始めていた。

広がる青空と優しい陽光を放つ温かな太陽。

七年ぶりに迎えたこの街のこの冬は俺の心に悲しい記憶を刻んだだけだった。

けれど、それは終わりの来る季節。

とどまらず移ろい、時は静かに流れて行く。

そんな記憶も俺の中でいつかは想い出に変わるのだろうか?

「どうかしましたか?」

「ん、いや」

丁寧な口調で俺に訊く天野をあいまいな言葉で返す。

――なんとなく。

そんな言葉が今の俺たちには相応しく思えてしまう。

雪解けで出来た水溜まりに、春の匂いをはらみ始めたそよ風が小さな波を生んだ。

写り込んだ空の色は、どこまでも澄んで、吸い込まれそうな青だった。

時間が流れた事は確かだった。

ほんの短い時間だけれど。

あいつが俺を待ち続けた時間に比べれば、きっと瞬きのような時間。

天野は相変わらず掴めない所が多かった。

会って、話して、こうして当てもなく歩く。

誰かが俺たちの事を噂していたようだったが、そんな関係でない事を俺たち自身が分かっているのだから、別に気にも留めていなかった。

話をするとする。

それはいつも決まった話題。

お互いの想い出。

悲しい記憶と儚い希望。

そんな事ばかり。

それでもひとりでいるよりは幾らか気をまぎらわす事ができた。

そしてその度に思う。

天野は今の俺のように、隣にいてくれる誰かがいなかったのではないだろうか、と。

明らかにひととの接点を持つ事を避けた生き方をしてきた彼女の話を聞く限りでは、そう思えてならなかった。

だからこそ、俺は天野に感謝しなければならないだろう。

たとえ、天野が俺の事を気遣っているのが俺のためではなく自分のためだったとしても。

それがただの馴れ合いだとしても。

あの悲しみを忘れる訳にはいかないから。

あいつを忘れる事は、絶対にできないから。

あいつは確かにいたんだから。

――ちりん

いつも持ち歩いているあいつへの贈り物だった物。

あいつが大好きだった音色は、俺にはまだ好きになれそうにない。

抱き締めていたあいつの身体から力が抜け、軽くなったと思ったら、溶けるように掻き消えて。

地面に落ちた時に一度だけ鳴ったあの音色が、今も耳から離れないから。

いつかあいつに返してやらないとな、そう思い、常に持ち歩いていた。

「何か考え事ですか?」

「天野はこの鈴の音、どう思う?」

「鈴、ですか?」

少し怪訝な表情。

「あの子がいた証、でしょうか?」

感情の起伏の少ない天野の瞳に、少しだけ暖かい光が浮かんだ。

悲しいくらい優しく、その優しさゆえに傷付いた彼女。

「そう、だよな」

自分に言い聞かせるように呟く。

俺だけではないから。

あいつを待っているのは。

信じているのは。

俺だけではないから。

「信じていますか?」

「何を?」

「あの子を……、いいえ、相沢さん自身を、でしょうか?」

「俺自身?」

歩みを止めて俺の背中に問い掛けた天野に、俺は振り返って応える。

始めて話しかけられた時。

端正な容姿だと思った。けれど近寄り難いとも思った。

柔らかな拒絶を纏った彼女は、近寄り難いものだった。

言い知れぬ不安を煽ったその雰囲気の意味を俺が理解したのは今からそれほど前の事でもなかった。

「信じてください」

「……」

「あの子はあなたの元に帰れて幸せだったんですから」

「俺は……」

「あの子の事を忘れていたのは罪ではありません。けれど、その事であなたが自分を責めたらきっとあの子は悲しみます」

後悔。

その言葉は彼女の深い記憶の底にある悔恨からだろうか?

「天野は……」

喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

訊いてはいけないと思った。

天野は傷付く事を極端に恐れていた。

ひとの温もりを恐れていた。

けれど、きっと憧れていたのだと思う。

そう、あいつのように。

以前の彼女の事は俺も知らない。

天野も話そうとしない事をあれこれと詮索するのは俺も本意ではなかった。

何より、彼女の悲しみの根底にある別れの辛さを、苦しさを、俺は知ってしまったから。

けれどそんな天野の表情が、少しずつだけれど柔らかくなってきたのは嬉しかった。

少しずつだけれど、天野が前に進もうとしているのが嬉しかった。

「私にはそう言うしかありません。相沢さんはあの子の事を信じているのでしょう?」

「約束だからな」

「相沢さんは私ではありません。私と同じようになって欲しくはありませんから」

「天野……」

「家族、なのでしょう?」

――そう、あいつは俺の家族。

俺にとってはかけがえのない。

「相沢さんの選択は間違っていないと思います」

変わらない口調。

それでもその言葉に含まれた彼女の強い意志ははっきりと分かった。

「確かに待ち続ける事は辛いです」

それは彼女自身へ向けた言葉なのか。

「でも、帰るべき場所があの子にはあるんです」

言葉を探しながら、淡々と続ける。

「最初はあなたの元へでした」

ただ、逢いたかったから。

「その一心であの子はあなたの元に現れました」

全てを忘れても、ただ、ひとの温もりを感じたかったから、あいつは帰ってきたんだ。

「でも、今は……」

「……」

「あなたの周りにいるひともあの子を待っているのでしょう?」

最初で最後の記念写真は、今も大切にしまわれて。

言葉には出さなくても、今も待ち続けているから。

名雪も、秋子さんも、きっと待ち続けているから。

「ああ」

「だからこそ、信じて下さい。あの子の事を。相沢さん自身を」

そして。

「あなた以外にもあの子の事を待っているひとがいると言う事を……」

言った天野の表情は。

変わらないようでいて。

でも。

少しだけ柔らかくて、

「信じてあげて下さい」

少しだけ微笑んでいるように見えた。

「天野は……」

「はい?」

「強いな……」

天野が過ごした時間は、きっと俺の過ごした時間よりずっと重かったのだろう。

誰にも自分の気持ちを話す事もできずに、悲しみや絶望、もしかしたら今でもすがっているのかも知れない僅かな希望をただひとりで抱え込んで。

「私は相沢さんが羨ましいです」

そう言って俺の横に並ぶ。

「俺が?」

「はい」

「どうして?」

普段の表情に戻った天野が視線を上げて空を仰ぐ。

俺の問いに答える代わりに、

「行きましょうか」

そう言ってゆっくりと前に進む。

「……?」

「もうすぐ、春ですから」

ざぁ……

風が、舞った。

ちりん……ちりん……

陽溜まりの匂いを、暖かさを運び始めた初春の風が、静かに吹き始めていた。

「そうだな」

あの丘も、若葉が芽吹き始めている事だろう。

あいつが好きだった季節。

春は、すぐ目の前に来ていた。

「もう、春なんだよな」

いつかきっと。

俺も待っているから。

聞こえるか?

お前の好きな季節がもうすぐ始まるんだから。

な、真琴……。

ずっと、ずっと待ってるからな。

―了―