moonlight surrender

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『愛してるの』

ONE-for Bright Season- Short Story

-moonlight surrender-

「――なぁ、澪」

夜の帳が生む静寂。

星の瞬きだけが空を輝かせる夜明までまだ遠い時間。

ひとり呟いた言葉に返事を期待していたわけじゃない。

聞こえるのは小さな、規則正しい寝息だけ。

柔らかな、心安らぐようなゆったりとしたリズム。

俺たちだけの時間を刻む、儚げなメトロノームのような寝息だけだったから。

「何やってんだろうな……」

俺の腕を枕代わりに眠る澪の寝顔を見つめながらひとり言葉を漏らす。

こんな月の奇麗な夜は。

いつからか俺の中で生まれた暗い感情が、何故か浮かんでは消えていく。

小さな自己嫌悪。

それは川の水面に漂う木の葉のようにゆっくりと心の中を揺れて流れ。

浮かんではまた心の深い部分へと沈んでいく。

手を伸ばそうとしても届かない。

透き通った心の波の中、手を伸ばしても届かない。

そんなもどかしい場所へ。

月の明かりが暗いはずの部屋を染める。

蒼く光るような幻想的な天井を、視点を定めることなく彷徨わせ、俺は自分の心と向かい合う。

そう。

永遠を望んだあの瞬間のように。

幸せに慣れること。

それはある意味不幸なことなのかもしれない。

何気ない出来事さえも全てが大切に思えていたあの頃の気持ちに、今、少しだけ翳りが生まれているのは何故なのか。

毎日が同じ毎日。

同じ日常を繰り返して、俺は変わらぬ時間を過ごしている。

時たま寝過ごした俺が、相変わらずの腐れ縁状態の幼なじみの声に起こされることも。

高校からの親友と時には馬鹿をやったり。

所々思い出は生まれていたけれど。

周りの景色は確かに移ろっているのに比べて、俺が過ごす時間のその歩みは遅々として進もうとしていないように思えた。

『えいえんが欲しい?』

黄昏色の影が心の内で呟く。

下らない問い掛けに小さく唇を歪め嘲笑う。

その意味を理解できなかった俺はもういないのだから。

もう、この世界から逃げないと決めたのだから。

影は夕陽の光に溶ける切れ切れとした茜雲のように心の海に溶けていく。

飽きもせず繰り返す自問自答。

空は変わらぬ光の海。

いつまでも変わらぬ永遠の光景の象徴のように在り続ける満天の星空。

多分。

俺は幸せなんだろう。

こんな他愛無い想像に心揺らして。

悩みにもならないようなありふれた疑問に真剣に向き合って。

まるでかつての自分が犯した罪への贖罪のように飽きもせず。

こうして夜空を眺めることができるのだから。

「ふぅ……」

深く息を吐く。

何故か月を眺めたくなった。

それは余りに寂しそうな月の光のせいなのか。

それとも尾を引いて流れた星の煌めきを視界の端に捕らえたせいなのか。

俺は起こさないようにゆっくりと澪の頭から腕を引き抜く。

「……」

鼻に掛かった吐息を漏らし寝返りを打った澪の姿に少しだけ微笑んでから、俺は静かに部屋の扉を開けて階下に向かった。

足音をできるだけ殺して階段を降り玄関を目指す。

夜遅く帰って来ているかもしれない叔母の迷惑にならないように。

とっとっ、と小さな足音が闇の降りた廊下の空気を揺らせ耳に届く。

乱暴に脱ぎ捨てたままの靴に足を入れ、掛かった鍵を音を立てないように静かに上げる。

ひんやりとした感触が足の裏から伝わる。

次第に暑くなって行く初夏の空気が開いた扉の隙間から流れ込む。

空は暗いようで、でも街は静かな光に満たされていた。

空気の流れも、足元に落ちる朧な影も、微かに聞こえる葉擦れの優しい音も、世界が動いていることを、時間が流れていることを伝えていた。

道に出てしばらく歩く。

寝汗で肌に張り付いた寝間着越しに夜風が肌を撫でて行く。

急速に熱を奪われ行く生地の冷たさが心地好い。

道端の電柱にもたれ、街灯の灯の下、佇む。

「ふう」

またため息が漏れる。

悩みの本質は決して変わることはないもの。

生きているならきっと誰もがぶつかる壁のようなもの。

何度悩んでも解決しないなら、いっそ忘れてしまえればいいのに、そう思ってもこびりついて離れない思考の輪。

出口のない思索の迷路に囚われたまま、いつまでこうしていればいいのか。

このままの自分でいていいのか。

迷いは具体的な形を取り、泥濘とした感情と混じり合って俺を飲み込もうとしていた。

澪は変わらない。

進学して、相変わらず演劇の場に身を投じ、さらに広くものを見、そして聞いたあらゆることも、あるいは嫌な経験も増えたはずなのに。

俺が惹かれた澪の純粋さは決して翳りを見せることはなかった。

無垢な少女の心のまま、齢を重ね次第に大人になっている澪を見て、その事実が俺をこんな気分にさせるのかもしれないとも思った。

俺はあの頃のままでいられない。

周りが変われば俺も変わらざるを得ないから。

確固とした自分を貫けるほどの信念も、目標も、まだ見付けてすらいないから。

流され、このままではいけないと自分を責めても結局は現状を悪化させない安全な選択をし、それで本当に良かったのかと自問を重ね。

だから澪がある意味、羨ましくもあり、その危ういバランスに支えられた純粋さが恐くもあるのだろう。

もし。

澪がもし心を痛めた時、俺でいいのか?

澪がしてくれたように、その時、俺は澪の支え足り得るのか。

澪がそこまで考えているのか正直判らない。

考えていなくても、俺がそれに対し目を逸らすわけにはいかない。

その時は訪れないかもしれない、けれどその可能性に賭けるには現実は余りに厳しいことを俺は知っているから。

だから、俺は逸らせない。逸らすわけにはいかない。

先の見えない道を行く俺でも、そのことだけは自分で決めたことだから。

数々の選択をしたのは自分だから。

澪を想う気持ち、偽らざる自分の本心に背きたくないから。

だから。

「悩んでもしょうがないよな……」

ぽつりと。

結局は同じ結論に戻るだけ。

星の光だけがただ静かに降っていた。

§

「澪……?」

どれくらい時間が過ぎたのかは月の傾きでしか伺えなかった。

時計に視線を這わすより先に視界に飛び込んで来たのは、薄白い光に照らされたもぬけの殻のベッドとはだけたケット。

「澪」

脱ぎ捨てられた澪の小さなパジャマ。

着替えが消えている。

俺がプレゼントしたスケッチブックの切れ端一枚が重し代わりの辞典の下で、開け放たれた窓越しに流れ込む風に小さくはためく。

見慣れた澪の字。

『探しにいくの』

大きな字で、あいつの精一杯の言葉で。

「あの、馬鹿……っ」

もぎ取るようにその紙を手に取って、くしゃりと握り潰す。

踵を返して階段を下る。

靴を履く。紐を結び直すのも面倒に、踵を踏んで強引に足を入れる。

「澪っ」

少しだけ声を大に澪を呼ぶ。

家を飛び出し眼前の路地で左右を見渡す。

――帰り道で逢わなかった。

その事実だけを頼りに、俺は迷わず戻ってきた道と逆方向へ駆け出した。

馬鹿が。

それだけが俺の心を埋める。

自分勝手につまらない感傷に浸るだけで、あいつをひとりにするなんて。

あいつがどういう性格かなんて判っていたはずなのに。

俺の後をとことことついて来た高校時代の澪の姿が脳裏をかすめる。

笑顔で、時には涙目で。

いつだって俺の側にいたのに、いさせたのに。

なまっていた四肢が急な運動に間もなく悲鳴を上げる。

「澪っ」

返事は帰ってこない。

夜闇の中に溶け消える俺の声を追いかけるように、それでも駆ける。

――はぁっ、はぁっ

息が切れ、汗で湿った布が肌に張りつく嫌な感触。

「うっ、ごほっ……っ!」

足を止め、咳き込み咽せる。

「はぁ……はぁ……」

鉛のように重くなった足を気力だけで前に進める。

目眩い、吐き気を伴った呼吸を整えながら周囲を見回す。

「どこだよ……澪っ」

頭上で闇色の影を纏った梢が揺れる。

木漏れ日にも似た弱々しい月光が地面に小さな光の点を浮かべていた。

額に浮かんだ汗を袖で拭い、少しだけ落ち着いた鼓動を確認してもう一度走り出す。

頼りない光を頼りに。

不安に塗りつぶされそうになる心を叱咤して。

商店街を抜けて。

ふたりで良く散歩した公園を探して。

心当たりをしらみ潰しに。

過去を遡るように、俺たちの足跡を辿るように。

その静けさを纏った光景は見慣れたはずなのに別の土地のように見えて、ただ俺の心に焦りの色を注ぐだけ。

「おいっ、澪!」

悲鳴にも似た言葉が無意識に漏れる。

道に迷ってるんじゃないか?

ひとりで泣いているんじゃないか?

そんなことばかりが俺の中で渦巻く。

月が雲に隠れ、辺りを照らし出していた光が途絶え、夜の闇が一層深さを増す。

街灯の光に導かれるように、俺は道を戻らずに進む。

最後の目的地。

かつての母校。

澪と出逢った――再会を果たした校舎へ。

闇が深い。

鬱蒼とした木々はその無気味さを隠そうともせずに風に揺れていた。

雲は風の流れに乗って月の姿を再び現し、それにつれ校舎を冷たい光の中に浮かび上がらせていた。

『……』

ざぁ……っ。

風の囁きに乗って何かを感じた。

泣き声?

聞こえたのではなく、『感じた』

そんな形容が相応しい感覚としか言いようのない何かに言葉もなく駆け出す。

間違いない。

澪。

ここにいる。

「どこだっ、澪っ!?」

声の限り叫ぶ。

「答えろっ! 聞こえるだろ!」

気付け。

聞こえてるなら俺の前に出てこいよ。

泣いてるなら慰めてやるから。

寂しかったならずっとずっと朝まで抱いててやるから。

ひとりじゃないだろ、何時だって俺がいるんだからっ。

「澪ーーーっ!」

ありったけの声を張り上げる。

肺の中の空気を残らず吐き出すくらい。

「はぁっ……はぁっ」

乱れた呼吸に歩みを止め片膝を着く。

「……澪」

喉から絞り出す声は掠れ、もう響きさえもしない。

ゆらりとなんとか立ち上がって、先に進む。

この先は。

「体育館……」

その前に佇む小さな影。

「澪」

力なく呟いた言葉は。

確かに。

澪に届いた。

そして。

澪が小さく微笑んだ気がした。

「澪っ」

早足程度のスピードで俺が走り出すと同時に、澪の表情は崩れ、涙が零れ出した。

「馬鹿っ」

えぐえぐと嗚咽を漏らす澪に駆け寄り、俺は一言叱責を飛ばす。

安心したのか俺の胸に顔を埋め、スケッチブックが落ちるのもかまわずに俺にしがみつく澪。

震える肩を抱いて、俺は澪の頭をそっと撫でることしかできなかった。

「どうして……。いや、悪いのは俺だな。勝手にいなくなって悪かったな。心配させてゴメンな」

大粒の涙を零す瞳が不安と恐怖と、そして安堵の色を浮かべて俺を見つめる。

堰を切ったように声なく泣く澪の気持ちが痛かった。

ゴメン、そう呟く俺とただただ嗚咽を漏らす澪。

月明かりの下、時間だけが流れ。

けど俺たちの時間だけは止まったかのように。

静かに、強く。

俺は泣き続ける澪を両手で力一杯抱き締めた。

その心の痛みを癒せるように。

俺の不甲斐なさを戒めながら。

少し湿った風が吹き始めていた。

雲が西へ流れ、星空が再び頭上を埋めた。

冷たく優しい月明かりの下で。

俺は澪の温もりを全身で感じていた。

俺の想いが伝わるように両腕の中の小さな身体をしっかりと抱き締めながら。

もう、澪を離さない。

そう、心に決めながら。

§

澪を抱いた。

月影に照らされながら帰路に就き。

握りしめた澪の小さな手を引き、言葉もなく家に戻ってから。

泣き腫らした瞳が俺を見つめていた。

少し脅えたような表情で同じベッドに入って。

いつもの夜と同じように俺の腕を枕代わりにしたその時。

そして俺に全てを委ねるように、自ら肌を重ね合わせて……。

そんな澪に俺は応えた。

狡い奴だと思う。

でも、俺にはそうすることしかできなかったから。

肌を重ねて俺自身の気持ちを伝えることしかできないから。

言葉よりも、もっと深く分かりあうために。

腫れた下瞼に口づけして優しく舌を這わす。

緊張を隠そうともせずに、俺の行為を受け身を震わせる澪。

何度となく繰り返したこの行為も、違う感情に支配された俺には初めてにさえ思えた。

愛しさだけが俺の中に溢れていた。

寂しさを消したい。

悲しみを癒したい。

微笑みを守りたい。

俺だけの大切なひとだから。

愛したい。

俺の心の何分の一かでも、澪に伝わればと、ただそんなことだけを考えながら優しく、壊れ物を扱うように澪の全身を愛撫した。

これまでも幾度も同じ夜を過ごし肌を重ねた。

それでも初な反応を素直に返す澪の表情は堪らなく可愛くて、一心に指で舌で刺激を送り続ける。

切なそうに吐き出される吐息が俺を昂ぶらせ、力なく重ねられた澪の手が俺を導いた。

返事を返さずに俺は澪の唇に深く口づけをする。

舌を絡ませ口腔を舐り、澪の弱い部分だけを執拗に責める。

貪るような愛撫の後、桜色の差した滑らかな頬に小さく指を這わせた。

そうしてから、目をぎゅっと閉じて快感に耐える澪の耳元に、俺は小さく息を吹き掛けながら澪の了承を求める。

真っ赤に染まった陶然とした表情の、涙目で俺を覗き込むように見つめた澪が、判るか判らないかの頷きを返してから。

俺は澪に俺自身を重ねた。

深く吐き出される荒い呼吸がどこか別世界のように響く。

軋むベッドのスプリングと俺の口から漏れる押し殺した声だけが薄暗い部屋を満たす。

澪の耳元で想いの丈を何度も何度も、繰り返し囁きながら澪を求める。

背中に回された両手が俺の背中を彷徨う。

溺れそうな感覚から逃れようと肌に爪を立て。

さらなる感覚を求めるように力を込めて俺を抱き寄せながら。

現実味のない朦朧とした意識の中で、澪の表情が、熱くなった肌が、吐息が俺を上りつめさせる。

一際強い力が澪の腕に込められた。

それに応えるように俺も一気に動きを増す。

いやいやをするようにかぶりを振りながら言葉ではなく熱い呼吸だけが小さな口から吐き出される。

そして。

澪が限界を迎えようとする瞬間。

深く澪を突いて。

同時に果てた。

§

「な、どうして学校だったんだ?」

汗ばんだまま、気怠い感覚に包まれながら胸に抱かれたままの澪に問い掛けた。

さっきまで紅潮していた澪の肌の色がゆっくりと薄れ始めていた。

視線が絡まる。

その瞳に浮かぶ校舎で見付けた時の憂いに似た色はまだ薄れていなかった。

「俺が……いなくなったからか? またあの時みたいに……」

俺はそこで口ごもってしまう。

もう遠い過去の出来事のはず。

けれど、忘れることのできない時間。

澪にとってあの一年がどれだけ辛いものだったか、普段の笑顔からは伺うことはできない。

だからなおさら今のような表情が痛ましくもあり、自分の愚かさを悔やむ瞬間だった。

「言ったろ? 俺だってもうあの頃みたいなガキじゃないんだ。お前だけ残して何処か行くなんて出来るわけないだろ?」

ぐっとさらに澪を抱き寄せて柔らかな髪を指で梳かす。

「俺も、もうあんな思いは……。沢山だからな」

自嘲気味に笑って澪を安心させようとする。

小さく、澪が表情を歪めた気がした。

「……ん」

澪の唇が俺に重なる。

触れるだけの、ささやかな、優しいキス。

それと頬を伝うひやりとした感覚。

「――澪」

笑顔で微笑む澪。

細めた瞳の端に浮かぶ涙は。

「はは、ゴメンな。俺がこんなこと言っちゃダメだよな。澪のほうがずっとずっと辛かったんだもんな」

頬に手を添えて親指で涙を拭う。

そしてゆっくりと首を横に振って。

笑顔。

澪が一番澪らしい表情を作った。

曇り無い、満面の笑顔。

「――ああ、判ってるって。もう、俺も迷わないからな。絶対お前のことひとりにしない」

うんっ!

大きく頷く澪に、俺は精一杯の気持ちをこめて口づけを返す。

「澪、愛してる……」

長い口づけを終えて、何度伝えたか分からない言葉をもう一度贈る。

そして、笑顔の澪が。

「……」

それは決して聞こえないけれど。

けれど。

俺には聞こえる。

俺だけに伝わる澪の大切な言葉。

「ああ」

静かに俺も微笑み返す。

腕の中の少女が愛おしい。

下らない悩みも何もかも、今はもう……。

少しは吹っ切れたのかもしれない。

微睡み始めた澪の表情を眺めながらそう思った。

「もう朝だけど、少し眠るか……」

言ってもう一度澪の頭を撫でた。

夜の色が霞み始めて行く。

月の光が、暖かな光に変わり始めて行く。

窓から射し込む陽光。

白み始めた東の空の眩しさが。

暖かく感じられた久し振りの朝。

静かに目を閉じた澪が小さな寝息を立て始めたのを確認して。

そして俺も目を閉じた。

-了-

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