“「大丈夫だよ」と彼女は言った”

2007年2月17日

“「大丈夫だよ」と彼女は言った”

「でさ、あたしは別にそういうこと期待してたわけじゃなかったんだけどさ」
「……」
「うそ、ホントはちょっとだけ期待してたかも。あたしだってあの人に子ども扱いされたくなかったから、慣れ
ない化粧だってしたよ。ま、結局ぜーんぶムダだったんだけどね」
自嘲を含んだ言葉を一気に吐きだして、少しだけ沈黙する。
こんなときどういう言葉をかけてやればいいか、わたしには思いつくことができなかった。

“「大丈夫だよ」と彼女は言った”

「ホラ、愛しいあの人に振られちゃった可哀想な美琴さんを慰めてよ」
空元気とも取れるような台詞で彼女はわたしを強引に家へと誘った。
普段はあまり通ることのない道を抜け、目的地へ向かう道すがら、休む間もなく喋る彼女は、やっぱりどこか
違って見えた。
夕闇が下りた路地、皓々とした月明かり。気持ちの良い夜道のハズなのに、彼女の言葉に相づちを打つだけの
わたしには、どうにも居心地の悪い空間に思えた。
彼女の話は今のことから過去の思い出話までとりとめもなく続き、ウソかホントか分からないような昔話にと
きおり苦笑したりした。
だって、あのバカ真面目な委員長が昔はいじめられっ子だったなんて想像できると思う? 彼女も神妙な顔で
その辺は思い出そうとしていたけど、ことの詳細までは語ってくれなかった。
「ミコちゃんて可愛いのに、わたしもそう呼んであげようか?」
「バカ、今さらそんな恥ずかしい呼び方しないでよ」
「そう? 高野さんとかがそう呼ぶ所を想像すると結構……」
「やめてよ、ホントにそう呼ばれそうだから」
何かあるのか心底イヤそうな表情できっぱり否定。そんな彼女の素の表情がおかしくて、わたしは思わず笑っ
てしまった。彼女も表情が和らいで苦笑を浮かべる。
少しだけ。ほんの短い時間だけど。
普段のわたし達に戻れたような気がした。

「ま、アンタの所に比べれば狭くて汚いところかもしれないけど、上がっちゃって」
彼女の言葉が謙遜ということくらいは見てすぐに分かった。入り口から見えた内装は、言うほど汚れてもいな
いし、しっかりと掃除も行き届いているように見える。
「……おじゃまします」
時間が時間なだけに少しだけ逡巡したわたしの心を見透かしたように彼女が言う。
「あ~、気にしないでいいよ、親父もお袋もその辺テキトーだから」
年ごろの娘を持つ両親とは思えない放任ぶりにわたしは軽い目眩を覚える。わたしの知る親娘像とは著しくか
け離れた現実がここにある。
でも、中身と外見の果てしない断絶を感じさせるような彼女の言葉遣いの、原因の一端を見たような気がした。
見てくれはいいのに、そういう部分で損をしてるとわたしは思うのに。それとも、そういうのが好きな人って結
構いるのかしら?
「ささ、こんなとこで突っ立ってないで上がった上がった!」
強引に押し切られるようにわたしは彼女の家に上がり込んでしまった。普段では絶対しないような行動。やっ
ぱり今日のわたしはどうかしてる。
「ただいまーっ! と」
「ちょ……っ」
「おう、美琴、遅いお帰りだな。てっきり朝帰りかと思ったぜ」
「ば、何言ってんだよ、バカ親父。誤解されるようなこと言うな」
「あ? ったく、ちったぁそういう甲斐性でも見せてみろよ……」
「ああ、もう! 友達来てるんだから変なこと言うな。部屋に行くけど覗くなよ!」
「へいへい」
突然の出来事に、わたしはなすがまま。強引に会話を打ち切った彼女は、わたしの手を引いて部屋へ連れ込ん
でしまった。
バツの悪そうな表情で、
「悪ぃね。親父酒飲むといつもああでさ。あたしも嫌いじゃないけど今日はちょっと、ね……」
「あ……」
「ゴメンゴメン、適当に座っちゃって」
クッションを投げてよこし、彼女は部屋を出て行く。
まったく、せわしないのは外でも中でも、ということなのね。
考えてみれば彼女の部屋は初めて。しげしげと見回すのも失礼な気もするが、やはり好奇心が勝ってしまう。
彼女らしい比較的シンプルな、でも清潔感のあるインテリア。女の子らしさはあまり感じないのはやっぱり彼
女の性格なんだろうと思う。わたしだったらこうするのに、とか勝手な模様替えを想像して楽しむ。
でも、まぁ、わたしの部屋に彼女がいたらたぶん今のわたしと同じような気分になるんだろうな。そんな空想
が可笑しくて、少しだけ笑う。
「お待たせっ……と」
おもむろに開けられたドアの音に驚きつつ声の主を見る。
「それは?」
「やっぱこういうときは景気づけが必要でしょ? 親父から拝借してきたさ」
「もう」
「へへへ、でもアンタだって結構イける口だろ? それともビールよりやっぱワインとか洋酒の方が好みだった
? あいにくだけどウチにはそんなシャレたもんないから、我慢してよね」
「しょうがないわね。それで我慢してあげるわよ」
売り言葉に買い言葉よね。彼女と話してると言葉遣いまでうつされてしまいそうになる。荒い感じの言葉遣い。
決して嫌いじゃないけど、あんな言葉遣いはわたしにはできそうもないなぁ。それは彼女に似合う、彼女らしさ
のひとつだと思うし。
つま先で自分のクッションをずらして、向かい合いで腰を下ろした彼女からコップを受け取る。
「ちょっと、そういうのは女としてどうかと思うわよ?」
「あ? いいだろ、家ん中だし、今さらアンタ相手に気を遣うのも面倒だし」
「ま、いいけどね、アナタの好きにしなさいな」
「へいへい。っと、ホラ、注いであげるからコップくらいちゃんと出しなさいよ。全く気が利かないったらあり
ゃしないんだから、アンタは」
「余計なお世話よ。それにどうでもいいけど女二人で酒盛りってやっぱり不健康よね。これっきりにしたいもの
だわ」
「あ~、そうですか。アンタはそうでしょうけど、でもどうせなんだから盛り上がってよ。せっかくいろいろ話
聞いてもらおうと思ってんだから、そんなんじゃその気にならないって」
「誘ったのはアナタでしょう」
「ぐだぐだ言わずに飲め!」
「はい」
ぴしゃり。続けようとした言葉を遮る彼女の勢いに押され、即答してしまう。
「うむ、いい返事です。あたしは嬉しいよー」
「わざとらしい芝居はいいってば。じゃ、乾杯でもする?」
「うんうん、やっぱそれがないとねー」
「ったく、なんでわたし、ついて来ちゃったんだろ……」
「はい、黙れ。……それじゃ」
こほん、とわざとらしい咳払い。
「私(わたくし)、周防美琴の失恋を悼んで」
「……」
「かんぱーい!」
カン、とグラスが高く冷たい音を響かす。
久しぶりに味わったビールは、思っていたより苦かった。

「……ちょっと、さすがに飲み過ぎなんじゃないの? いい加減にしておいた方が」
「うるさい! ……今日くらいはヤケ酒ぐらい飲んでもいいでしょ?」
「美琴」
「いいの、今日はいいんだってば」
「あ、……ごめんなさい」
「なんでアンタが謝るのよ! 久しぶりにあの人に会えるって、あたしが勝手に舞い上がってただけなんだから、
笑ってくれたっていいのよ? そりゃアンタみたいに器用に恋愛できればって思うよ。でもさ、あたしにゃこれ
で精一杯だったんだからしょうがないでしょ」
「起用なんかじゃ……」
「ウソ言わないでよ、デートに誘われたって断ることしかできないあたしから見ればずっと器用じゃない。あた
しなんて、どうせ一緒に遊びに行ったってつまらないんだろうけどさ」
美琴は止まらない。
あたしには止められない。
「今日久しぶりにあってよく分かったんだ。結局あの人にとってあたしなんて単なる生徒だったんだって。家庭
教師と生徒の間柄でしかなかったんだよ」
知らなかった彼女の想い人のことを。
しらふなら決して話すことはなかっただろう彼女の心の内を。
わたしは聞こうとしている。
「キレイな人だったよ、先輩の彼女。考えてみたら、あたしなんて先輩の好みのタイプとか全然知らなかったん
だよね。多分先輩だって、そうなんだと思う。先輩にあたしのこと知ってもらおうって何かしたかなんて思い出
せないんだからさ」
「もう、いいわよ……」
「よくなんてないってば! 結局あたしの好きって気持ちって何だったんだろ? 好きってどういうコトなんだ
ろ? 憧れだけじゃダメなの? 会いたいって気持ちだけじゃダメなの? 同じ学校に通いたいってだけじゃダ
メなの? 先輩のこともっと知ってれば違う未来もあったのかな? あたしのこと、もっと知ってくれてたら、
先輩はあたしを選んでくれたのかな? ねぇ、教えてよ!」
「わたしには分からないわよ、そんなこと」
「教えてってば!」
「美琴、落ち着いて。やっぱり飲み過ぎよ。いつものアナタらしくないわよ?」
「それって、どんなあたしよ!? そんなことではぐらかさないで教えてよ。あたしが先輩を好きになるコトっ
てそんなに無茶なことだったの?」
「……分からないわよ」
「何よ! 人のことさんざんからかっておいて……。結局アンタだって何も知らないんじゃない。何が場数を踏
めばだよ……。何が本命だよ……っ。沢近の方こそホントのあたしも知らないで好き勝手なこと言ってたってコ
トだろ!? 教えてよ、アンタ、経験豊富なんでしょ!? それともこんな子どもの恋愛ごっこには興味ないっ
てコト!?」
「違うっ」
「違わないっ!」
「お願い、もう、止めてよ……。わたしには美琴の気持ちなんて分からないんだから」
「いいから答えてよっ。あたしはあの人を好きになっちゃいけなかったの!?」
「そんなのわたしが知るわけないでしょ!!」
「……!」
知らなかった。
こんな美琴をわたしは今まで知らなかったんだ。
こんな激情をわたしにぶつけるくらい、好きな人がいたのに、その想いさえ伝えることができなかったんだ。
わたしなんかに分かるわけない。
美琴の心の痛みを。
わたしなんかが答えちゃいけない。
美琴の問いに。

胸の奥が痛い。痛い。痛い。痛い。どうして? わたしがどうしてこんな痛みを感じるの?

──本当の、恋なんて、知らないのに──

「そんなの、わたしに答えられるわけないじゃない! 大好きな人がいるだけいいじゃない! わたしの方こそ
アナタが羨ましいわよ。なんでそんなに好きになれるの? そんな素敵な恋なんて、わたし、知らない。全部捧
げたくなるくらい好きになったってコトなんでしょ? 男の子と遊んでたってそんな気持ちになるわけないじゃ
ない!? デートすることと、好きになるコトってイコールじゃないでしょ!?」格好悪い。
なんでこんなコト言ってるんだろ、わたしは。
美琴のこと笑えないわよ。
こんなの、それこそ子どもの恋愛だもの。
でも、許せない。
こんないいコを振ったその人が。
一度失恋したくらいで取り乱す美琴が。
何より。
今の美琴を羨ましく思っているわたし自身が。
ホントの恋すら知らずに恋を語っていたいた、わたし自身が。
「もう、いいでしょ。わたしだって偉そうなこと言えないんだから」
「沢近、だってアンタ」
「そうよ、男の子と遊びに行くなんて普通だもの。別にお付き合いなんてしてなくてもできるでしょ。ただの友
達だもん。勘違いされてもわたしには関係ないコトよ」
ゼッタイ酔ってる。わたしはこんなコト話したいわけじゃない。
美琴の話を聞いてあげなきゃなのに、何を言ってるの?
「一回や二回遊びに行ったくらいで、簡単に言えるのが好きって言葉なの? アナタが好きになった先輩も一目
惚れってヤツなの? そんなの信じられないわ。見てくれだけで好きって言われても全然嬉しくないもの」
「違う……あたしは違うよ」
「だから、わたしには答えなんて分からない。アナタの話を聞くくらいしかわたしにはできないのよ」
ごめんなさい。と何に対してか分からない謝罪が口を突く。ろれつも怪しいのに一気に喋るものじゃない。続
けて大きく息を吸い込んだ。

「ふ……」
「?」
「あ、ははははは……」
「な、何よ?」
「あははははははは」
「美琴、壊れちゃったの?」
「あははは。なんだよ、もしかして、アンタの方がよっぽど子どもなんじゃねーか? 何? あたし、すげー人
選ミス? これだったら塚本の方がよっぽどマシだったかも」
さすがにあのコと比べられてあたしが選ばれないのはシャクに障る。
「な、誘ったのはアナタでしょ?」
「あー、もう、いい。いーって、別にアンタが悪いわけじゃねーよな?」
夜中だというのに声を上げて笑い転げるような美琴に、さすがにむっとなる。
「い、いいじゃないっ。別に。恋なんてこれからいくらでもできるでしょ!?」
「アンタが言っても説得力ないよ、さ・わ・ち・かさん?」
こうも鮮やかな形勢逆転なんてない。
「う、うるさいわねっ。わたしのことなんてほっといてよ! それよりアナタよ! その人の彼女のこと教えな
さいよっ」
「……ど、どうでもいいだろ、もうあたしには関係ないんだから」
「そんなことないでしょ? アナタの方が魅力的だったらまだチャンスはあるはずよ? 同じ学校で会う機会も
増えれば可能性はゼロじゃないでしょ?」
「別にそんなつもりじゃ」
「いいから、さっさと話しなさい」
「別に。きれーなひとだったよ」
「それだけ?」
「うるせーな。あのときは頭ン中真っ白でそれどころじゃなかったんだから」
「そうなの?」
「あぁ、あんなにショック受けるもんなんだなー。知らなかった。……でも、さ。やっぱ自然な感じだったかな。
先輩もずいぶんと雰囲気変わってたけど、あの人と上手くいってるんだって分かっちゃった。そんなんばっかり
分かってもしょうがないのにね」
笑顔で、笑い飛ばすように言う美琴。
なんで、こんな笑顔ができるんだろう。
「ホント、アナタを振る方がバカなのよ」
「もういいって」
「良くないわよ。アナタを振ったことを後悔させてやるくらいの気持ちじゃなくてどうするのよ」
「アンタが言うな」
「あら、言うだけならいいでしょ?」
「お子様の意見なんて参考にならねーよ」
「い、いいのっ。わたしだってそのうち……」
「ふーん、アテはあるんだ?」
にやり、と不適な笑みで迫る美琴。
「え?」
唐突に、ヤなヤツの顔が浮かぶ。
え? なんで?
「図星って顔してまぁ……」
「な、何よ!?」
え?
頭に血が上る。
別にアイツなんて関係ないじゃない? なんであたしがうろたえなきゃいけないのよ?
「そ、そんなのないわよっ」
わたしは認めない。あんなヤツ全然好みじゃないんだから。
わたしに似合う男性なんだから、もっと紳士で誠実で優しくて……。
あー、もう、わたしってばいったい誰と比べてるのよ!?
「ふーん、ま、そういうことにしておいてやるよ」
ぽんぽんと両肩に手を置いて首を振る彼女。
「なんだかすごくバカにしてない?」
「そんなことねーよ。ま、そのときが来たら応援するから、教えろよ、な?」
「ゼッタイ、イヤ」
そう、アイツとなんてゼッタイ、イヤ。

イヤなんだから……。

「なー、別に泊まってったっていいんだぜ?」
何が照れくさいのか、彼女らしくない遠回しな言い方。「今日は泊まってけよ、めんどくせーだろ」くらいは
言いそうなのに。
「ありがとう。でも今日は帰るわ」
これ以上追求されると、多分いろいろ困ることになりそうだし。
「じゃ、途中まで送ってくわ」
「あら、それも結構よ? それにエスコートしていただくなら素敵な男性と相場は決まっていなくて?」
「そんなヤツいねーくせに?」
「何ですって?」
「いえいえ、なんでもありませんよ?」
くすりと、笑う。
「ね、美琴?」
「ん?」
「大丈夫?」
何が、とは訊かない。
陰のない笑顔が見れた。それだけできっと、
「ん、大丈夫大丈夫。悪いね、夜遅くまで付き合わせちゃってさ」
その言葉も信じられると思うから。
「そう、それなら、そろそろ行くわね。お休みなさい」
「あー、お休み。二日酔いにならねーようにな」
「その言葉そっくりお返しするわ」
「はいはいっと」
家に戻ろうとする彼女は、最後に振り返って一言。
「あー、沢近」
「何?」
「お前の方こそ、大丈夫か?」
そんなことは分からない。
わたしはまだスタートラインにすら立っていないかもしれないんだから。
それでも、先を行く彼女の背中は見失いたくないから。
今日みたいなことは、これからもきっとあると思うから。
覚悟を決めよう。
そう、きっと。
「大丈夫よ」
笑顔で、言えたと思う。

「じゃ、次に飲むのはアンタの失恋慰め会ってことで」
「それはお断り」

月が傾き始めるような時間に。
わたしは一人で道を行く。
お酒のせいか頬が熱い。そう、きっとこんな高揚した気持ちはお酒のせい。
素敵な恋ができればいいと思う。
辛い失恋は味わいたくないけど、それはそれでいいかもしれないと思った。
そう、まずは恋を始めよう。
素敵なヒトと素敵な恋を。
「でもね……」
さっきから脳裏を離れないアイツの仏頂面に言ってやる。
「アンタとなんかじゃないんだからね!」
宣戦布告を叩き付ける。
わたしのスタートラインは、もう少し先にあるようだ。

──了──