春を待つ桜のように

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春を待つ桜のように

 少しだけ早起きして、少しだけ早く家を出る。
河野貴明の今朝は、その一点を除いてはまったく代わり映えのしない一日の始まりのはずだった。
「おはよう、タカくん」
お隣りの柚原さんちの長女・このみが、自宅前で貴明を待っているのに気付くまでは。
「おはよう、タカくん」
「おはようさん……って、お前が起きてることに俺は驚いても良いものだろうか」
寝坊の常習犯である自らの前科を、とりあえず棚に上げて問うてみる。
「も、もう。わたしだってその気になればちゃんと起きれるんだから」
「なら、俺と春夏さんの平穏な朝を乱さないためにも、明日以降もその調子で頼む」
思わずおばさん、と言いかけたその言葉を飲み込んで、言い直したのは玄関ドアに隠れてこちらを伺う、このみの母親である春夏の姿を視界に捉えたから。
さすがに会話まで聞かれはしないかと思うが、自ら禁句を口にすることもないという賢明な判断を下し、会話を続ける。貴明の言葉に、春夏がこくこくと頷いているという事実を目撃し、内心胸をなで下ろしたりもしたのだが。
「う……ん、頑張るよ~」
「期待はしてないけど、頑張ってくれ」
「そういう投げやりな応援は、嬉しくないよ、タカくん」
「いや、いくらなんでも、そう簡単に信用もできないしな」
貴明がこのみを叩き起こすという習慣が、どれだけ続いてるかなど考えるまでもないし、それが毎日の始まりを告げる最初の会話であるということは、互いに暗黙のうちに了解しているのだから。
ただ、起こす側と起こされる側、二人の立場が入れ替わることなど、これからもないだろうと貴明はそう思っていた。
「さて、たまには早く行くのも良いだろう。文句は途中で聞くから」
「別に文句なんてないよ。ただ、わたしだって少しは頑張ってるんだからね?」
「はいはい」
「タカくん、返事が適当……」
貴明は不満げにつぶやくこのみの額を軽く小突いて、これ以上の反論を打ち切る。
「それじゃ、行ってきます、春夏さん」
いまだに様子を伺い続けていた春夏に挨拶をして。
「え? お母さん? わ、わわっ! い、行ってきます」
慌てて振り返るこのみに応えるように閉まる玄関扉。
そして二人は代わり映えのないであろう今日という一日に足を踏み出す。
§
2月も半ばにさしかかり、少しだけ朝の寒さも和らぎ始めた通学路を歩く。
公園の脇を通り過ぎ、堤防の階段を上る。桜並木は閑散としたまま、芽吹きの時を待ち続けている。
川沿いの道を抜け、町並みの風景が変わる。住宅街を抜け、うんざりするような坂道を上れば、貴明の通う学園がある。
このみの通う中学校へと分岐する比較的大きめの交差点まではあと少し。
聞き慣れた声が背後から届く。貴明の鬱陶しそうな表情に、このみは苦笑で応え、二人は立ち止まり振り返る。
全力疾走で駆けつけ合流した、これも長い付き合いになる向坂雄二は、白い息を盛大に吐き出しながら両膝に手をついて息も絶え絶えな体。これもまた、貴明にとっては見慣れた朝の風景でもあった。
雄二の呼吸が整うのを見計らって、貴明は声を掛ける。
「そんな急がなくても今日は余裕だろ?」
あり得ないものを見るような目つきの貴明に、少しだけ不満げに雄二が答える。
「なんだよ、俺が遅刻ばかりする男だと思ったら大間違いだぜ。今日の俺はひと味違うからな!」
どこが違うんだとツッコミを入れるくらいには、テンションが上がっていない貴明は、そんな雄二の言葉を右から左へ受け流す。
「ま、いいや、今日はあの坂を駆け上らなくて良いだけラッキーだと思わないとな」
「ああ、まったくだ」
「おはよう、ユウくん」
「よ、このみ。今日はまたどういう風の吹き回しだ?」
「えへへー」
意味ありげな視線を交わす雄二とこのみを、貴明はつまらなそうに見つめる。内心の疑問は表情に出さないように努めつつ。
しかし、敏くその様子にこのみは気付く。
「どうしたの? タカくん」
「雄二となんかあったのか?」
不自然にならないように、語調を整えるが、その努力が奏功したかは貴明には分からない。
「えへへー、別になんでもないよ」
「ふーん」
雄二を一瞥すると、にやにやと意地悪い笑みを浮かべ貴明とこのみを眺めている。
「ま、いいけどな」
貴明は会話をそこで打ち切り歩き出そうとする。必死に長距離走を行う毎日と、今日は違うのだから。
背を向けた貴明を見るこのみの表情が、小さな焦りに変わったことに貴明は気付かない。
数瞬の逡巡。貴明にどういう風に切り出そうか、何度も考え練習もしたはずなのに、いざとなると足が前に進まない。
そんなこのみの背を、文字通り押したのは雄二の手。
「わ、わわ……」
思わず振り返ると、変わらぬ笑みを浮かべたまま、器用に片目をつぶってみせる雄二。 かなわない。このみは心の中でつぶやく。ありがとう。
たたらを踏むこのみの様子を背後に感じ、振り返る貴明。
「あ?」
「あ、あのね、タカくん」
がんばれ、がんばれ、がんばれ。
去年までも毎年のように行っている行事。特に他意もないと貴明は思っているはず。ここで緊張するほうが、かえって変なんだから。
内心の緊張を、必死に押さえ込むが、震えそうになる言葉がどのように貴明に届くかまでは分からない。
「ん?」
「は、はい、これ……」
鞄からおずおずと差し出される、赤の包装紙に包まれ、ピンク色のリボンが結ばれた何か。
当然のように受け取る貴明の返事を待たずに、くるりと振り返り雄二に言う。
「あ、ちゃんとユウくんにもあるからね」
「お、さすが、このみは気が利いてるな。お兄さんは嬉しいぞ」
「じゃ、じゃあ、わたし、先行くねっ」
駆け出す。
ほんの少しだけ紅潮する頬に冷えた空気が少しだけ心地よく感じられた。
そして、結局、このみは貴明からの言葉を聞くことができなかった。
§
このみの様子がおかしかった。
それは貴明にも分かるし、余計なお世話なことに雄二にも要らぬ言葉をもらってしまった。
「いいのかよ?」
「何が?」
「何がって……。かぁ、この朴念仁は、礼の一つも言うことできないのかよ」
やれやれと肩をすくめ、小馬鹿にした仕草で雄二が言った。
「いや、言おうと思っても、とっとと走って行かれちゃ」
「ぼけっとしてるからだろーが」
「俺が悪いのかよ?」
「あぁ、悪いね」
何でだよと訊いても、明確な答えは返ってこなかった。
肝心なときに肝心なことも言わずに誤魔化すのは、雄二の悪い癖だと思う。いつもなら歯に衣着せぬ物言いで、呆れるのは自分の方だというのに。
「だいたい女に縁のないお前に、チョコくれるのなんてこのみくらいしかいないだろーが」
「いや、春夏さんも去年はくれた気がするが」
多分。
「……言ってて空しくならねーか?」
「すまん、俺が悪かった」
こんな時に誤魔化してもしょうがないのは分かっているのに、真面目に相手をする気にならないのはなぜなのか、貴明は気が付かない。
「そういう雄二だって偉そうなこと言ってる割には俺と似たようなもんだろう」
ふと遠い目をした雄二が、何かを思い出したように身を震わせる。これは訊いてもいいものなのだろうか? しばし迷ってから声を掛けてみる。
「いや、姉貴のことはいいんだ。頼むから何も訊くな」
しかし、雄二に機先を制され、貴明は二の句が継げなくなる。
「あぁ……、すまん。嫌なことを思い出させちまったか?」
「こちらこそ、取り乱しちまったな」
同時に溜息をつく。どうにも雄二の姉の環の話題になると口数が少なくなるのは、幼年期の恐怖体験に近い思い出が根底にあるのだが。
「まぁ、ともかくだ。毎年のこととはいっても、礼の一つも言えないようだとこのみに捨てられちまうぞ?」
「何が捨てられるだ。そもそも俺とこのみはそんなんじゃねーって知ってるだろうか」
「はん」
「うるさい」
「ま、俺はどっちでもいいけどな」
「口先だけで万年独り身のお前に言われても、別に悔しくないしな」
「やかましい! 俺だってなぁ、俺だってなぁ……。学園に入って初めてのバレンタインだぞ。そりゃもう、四方手を尽くして頑張ったんだよ」
それがこの結果か。
今日が土曜日であり、午前で終了した授業のおかげか、浮ついた雰囲気漂う教室で、貴明と雄二は相も変わらずの軽口の応酬を交わす。
ただ、この浮ついた空気は、今日が土曜日であるだけでなく、いわゆるバレンタインデーであることも理由となっているのは間違いなかった。
貴明と雄二は互いの戦果を確認し、肩を落としたばかりだった。
「まぁ、俺は別に期待もしてなかったし」
「嘘だ! 男なら、今日という一日にどれだけ沽券が関わるか、分からないわけないだろう!?」
「そんな沽券は捨ててしまえ」
「信じらんねぇ!? 毎年同じ会話してるような気もするけど、信じらんねぇよ、俺は。だいたい今日という一日で、この学園内の野郎どもがどれだけ 勝ち組と負け組に別れたかなんて見れば分かるだろう。いわば一つとはいえ貰えた俺たちは勝ち組なんだぞ。欲をいえば本命がここにあれば文句はないんだが」
「欲張りすぎだ」
「いいんだよ。あー、結局一年も終わろうっていうのに彼女の一人もできなかった。俺、一体何やってたんだろう……」
地に手を着きそうな勢いでうなだれる雄二を、可哀想なものを見るような目で眺める貴明。こうなったら何を言っても無駄なのは分かってる。好きなだけ喋らせるか、放置するか二つに一つだ。
「じゃな、俺は帰るぞ」
「貴明、俺は悲しいぞ。お前はそれでも男なのか!」
「言ってろ」
じゃな、と鞄をぶら下げて教室を出ようとする。
「あー、貴明。何度も言うのもイヤだが、このみに会ったら俺の分も礼を言っておいてくれ」
「分かったよ」
そうやってこのみに礼を言う口実を作ってくれる雄二は、なんだかんだで気が利くヤツだと思う。
もっとも、そのことで感謝の言葉を口にするのは癪に障るので、言ってやろうとは思わない。
しかし、せめて心の中で小さく「悪いな」くらいは言ってやっても罰は当たらないだろう。
貴明は教室を出ながらそんなことを考えていた。
§
「さて、どうしたものか……」
何やらいたたまれない気持ちになりながら、柚原家の前に立つ。
やることは決まっている。チャイムを鳴らす、このみを呼ぶ、チョコの礼を言う、明日あたり遊んでやる約束をしてやればパーフェクト。
そう、たったそれだけだ。別に気後れすることも、躊躇することも何もないはずだ。
それでも躊躇している自分に困惑しながら、チャイムを鳴らそうと指を伸ばす。それを何度か繰り返す。
「タカくん?」
「うわわわ!?」
思わず情けない声を上げ振り返れば、果たして、このみがそこに立っていた。
「どうしたの? タカくん」
きょとんとした表情で、小首をかしげてのぞき込むこのみに、貴明は慌てて後ずさる……こともできない。背には柚原家の玄関扉。
「こ、このみ?」
「うん、このみだよ」
貴明の言葉に、嬉しそうににっこりと笑みを浮かべるこのみ。
「わたしの家に何か用かな? お母さんならお買い物に出てるけど。あ、わたしはゲンジ丸とお散歩行ってきたんだ」
「よう、相変わらず散歩が嫌そうだなゲンジ丸」
「そうなんだよ、この間までなんて引っ張っても動こうともしなかったんだから」
泣きそうな目でゲンジ丸を散歩に誘うこのみの姿が自然と浮かぶ。
どっちが偉いのか分からない飼い主とペットだが、それでも主人に付き合ってやろうというくらいの思いやりはゲンジ丸にもあったらしい。
のそのそと我が家へと身を隠す、柚原家の役に立ちそうもない番犬を見ながら貴明は思った。
「お前も大変だな」
「そうだよ、タカくんもなんと言ってやってよ」
「いや、ゲンジ丸に言ったんだが」
「むー! タカくんはわたしよりゲンジ丸の味方をするの? 運動しないと大変なことになるんだよ?」
身振り手振りを交えて必死に説明するこのみ。
「ゲンジ丸ー。明日もちゃんとお散歩行くんだからね」
聞こえたか聞こえてないのか。ゲンジ丸は一声上げるだけでぐったりとする。
「まぁ、ほどほどにな」
「う~ん、わたしはもっと走りたいんだけど」
「それは止めろ」
走ってるのかよ、と思わず突っ込みたくなるのを我慢して、大人の対応でこのみを諭す。死ぬぞそれは。
「え? どうして?」
「どうしてもだ。そんなん、俺が毎日のように付き合ってるだろ?」
「う~ん……。えへへ~」
にへら、と破顔して貴明を見上げるこのみは、年相応には見えない。小学生だと説明すると、信じる人が出そうな幼さの残る顔立ちと体型。
ちょっと前にそんなことをこのみに言ったら、本気で泣きそうになって、しばらく拗ねられたという苦い記憶があるので、貴明はそんな思いをおくびにも出さないが。
まぁ、それでもこうやって満面の笑みを見ることができるのは、悪い気はしないし、可愛くないと言えば嘘になるだろう。
「あー、それはそれとして」
自然に切り出せただろうか? 急な話題転換にこのみが付いてこれなくても、二度は言いたくない。こんな恥ずかしい台詞。
「チョコ、ありがとな」
「え?」
やっぱり。内心嘆息の貴明。
「雄二からも、礼を言っておいてくれってさ。今年も俺と雄二はこのみからしかチョコ貰えなかったから。それでも負け組にはならなかったのは、このみのおかげだって」
少し色を付けてこのみに伝えてやる。
「負け組って?」
「いや、それはいい。とりあえず、俺が言いたいのは、このチョコのお礼ってことだ」
「ユウくんから?」
「ああ、そう言ってくれって」
「そうなんだ……」
「ん?」
「あ、ううん、なんでもないよ。えへへー」
「そうか、ま、いいけど」
「う、うん。あ、うち、寄っていく? タカくん」
「いや、とりあえず家帰って飯食うさ。母さんもいるだろうし」
「うん、分かったよ」
「それじゃな」
「ばいばい、タカくん」
貴明が自宅へ向かうのを見送ってから、このみは玄関扉を開け、家に入る。
ぱたん、と閉まる音を聞いてから、玄関扉に背を預ける。
「……タカくんからのありがとうが聞きたかったんだけどな」
つぶやきは、貴明に届かない。それは分かっているのに、それでも、このみはこの言葉が届くことを祈る。
自分の臆病さも嫌になるけれど、今日ばかりは貴明の勘の鈍さを恨まずにはいられなかった。
§
隣に住む少年は、物心付いた頃からずっと一緒にいた。
家族ぐるみの付き合いは、現在までも絶えることなく、このみと貴明はそれこそ家族同然、兄妹同然に過ごしてきた。
このみの両親が家を空けるときなどは、河野家で一夜を過ごすことすら当たり前のこととして、疑問を挟むことすら今までなかった。
誰よりも近くにいる異性なのに。
だからこそ、このみの想いは届かない。
視線も、言葉も、笑顔も、全て貴明へ向けているのに、このみの想いは届かない。
なぜと問うても答えなんて出ない。
分かっているのは、その想いを伝えてしまえば、間違いなく二人の関係は変わってしまうということだけ。
自分から貴明が離れていくとは思えない。この十余年の生活は、確かな確信を生むと共に、今の二人の関係が、越えがたい壁であるということを、実感せざるを得なかった。
「どうしたらいいんだろうね、わたし」
この一年は長かったと思う。
学校が異なるだけで、これだけ淋しさが募るものなのか。
朝は一緒。けれど、学校が違うだけで、昼食を一緒に取ることもできないし、帰り時間が一緒になることは、稀といってもいいくらいだった。ついつ い貴明の学園まで迎えに行くこのみを、貴明は、そして周囲の人間はどう思っていたのか。貴明は迷惑と思っていなかったのか。怖くて訊けない言葉が、このみ にはあった。
少しだけ勇気を出してみた。こんなことで気付いてもらえるとは思えないけど、それでも何かしなければいられなかったから。
チョコレートを渡すことなんて、毎年のことなのに。
緊張したのも初めて。貴明の顔が見れなかった。きっと変な子って思われてる。それさえも訊けない自分を、親友のあの二人は笑うだろうか。
応援するよって言われて、その意味が分からないほど、自分は子どもじゃないと思う。その言葉は嬉しいけれど、困った顔をする貴明にはこれ以上迷惑をかけたくないとも思う。わがままを通して、貴明を困らせるのは、一番したくないと思ったから。
「はぁ……」
小さく溜息を落とし、靴を脱ぎ家に上がる。
嫌な考えを引きずらないように階段を駆け上がる。
まずは、着替えよう。それから遊びに出よう。ちゃるとよっちは付き合ってくれるだろうか。今日は浮き足立っていたあの二人だから、勉強なんてしないだろう。たくさん話して、たくさん笑えば、きっと元気になれるから。
「あ、電話?」
遠く電子音。聞き慣れたコールが廊下に響く。
「あ、はーい」
ぱたぱたと廊下を駆け下りて、受話器を上げる。
耳元から聞こえる声は、間違うはずもない、聞き慣れた貴明の声。
「タカくん?」
知らず声が弾む。
「あぁ、このみか」
「うん。もうお昼食べちゃったの? 早いね」
あはは、とさっきの話題を引きずらないようにわざとらしく明るく振る舞う。嫌だなと少し思う。
「いや、言い忘れてたことがあってさ。その、なんだ。今日の礼ってワケじゃないけど、明日、ヒマか?」
「え?」
彼は何を言ったのだろうか。思わず間抜けな声を上げ、聞き返すしかない。
「いや、試験前だろうからこんなこと言うのはどうかしてるか?」
「そんなことないよっ。ヒマ、ヒマでヒマでヒマしてるよっ」
「嘘付くな」
「う、ごめんなさい」
「まぁ、でもな。少しくらい付き合ってもらえるか? 適当にどっか遊び連れてってやるよ」
「え、ホント……?」
嘘じゃないかと思う。
だって、こんなわがままが通るなんて、思っていない。心のどこかで望んでいたけれど、そんなこと迷惑だって思ってた。
「その代わり、その後は勉強してもらうけどな」
でないと、春夏さんに殺される、と苦笑混じりの声がすぐ近くで聞こえる。そうだねと、このみも苦笑で返す。
「タカくんが教えてくれるの?」
「俺に教わろうなんて無謀もいいとこだぞ?」
「いいよ、タカくんに教えてほしいっ。お願い、いいでしょ?」
「善処はする。でも期待はするなよ」
「うん」
「じゃ、適当な時間に来てくれるか? 寝坊しないならな」
「ひどいよ、タカくん。今日だってちゃんと起きたじゃない? 明日も大丈夫だよ」
その後の言葉は続けない。貴明にはまだ伝えられない。
「はいはい、と。じゃ、切るぞ?」
「うん、それじゃ」
貴明が受話器を置くがちゃりという音を聞いてから、このみも受話器を下ろす。
「どうしよう、どうしよう……」
嬉しい。嬉しい。嬉しい。喜色で心が染め上げられる。
自然にこぼれる笑み。
「えと、準備しなきゃ。服、何着てこう。それからそれから……」
慌ただしく自室に戻り、クローゼットを開き思案に耽る。
先刻の不安さえ、気付けば不思議な高揚感に取って代わられている。
「あはは」
別に何が変わったわけでもない。
けれど、これから変わっていければいいと思う。
自分の気持ちを伝えるということに、怖さは未だ大きく残っているけれど、貴明の言葉を聞いて、感じた幸せは嘘じゃないから。
「ただいまー」
階下で春夏の声が帰宅を告げる。
「あ、お母さんにちゃんと起こしてくれるようにお願いしなきゃ」
クローゼットも開けっ放しのまま、部屋を飛び出し再び階下へ。
「お母さん、お母さん、あのねっ!」
嬉しそうに話すこのみを、春夏も優しく見つめる。こんな笑顔で話す内容は、きっと隣のあの子絡みのことだから。
「はいはい、何かしら?」
少しずつ近づく春という季節に、期待を乗せて。
このみは明日を待つ。

──了──

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