遥かに仰ぎ、麗しの SS ~たいせつなよる~(後)

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『遥かに仰ぎ、麗しの』より、鷹月殿子誕生日記念の SS です。

昨年公開したものからの続きとなっていますので、未読の方はそちらからご覧いただければ幸いです。

たいせつなよる (後)

 久々に覚える倦怠感が私を満たしている。
 司が学院を離れる前に過ごした夜のことを思い返して、そこで交わした言葉を胸の中で繰り返すことでしか、私はこの倦んだ気持ちをやり過ごせないでいる。
 司の予定では、今日を含めてあと二日。明日にはここに帰ってくることになっている。
 そう、実際にはたったの三日間。たったの七二時間。私が彼に出会うまでに過ごした時間に比べれば、本当に短い時間なのに、私はこんなにも、ここにいない彼の姿を無意識に探してしまっている。
 そして、そんな自分に気付くたびに、小さなため息をこぼし、自嘲気味な笑みを浮かべているのだ。
 六月の空は梅雨の気配も感じさせず、どこまでも高い青い色。風の流れと海の匂いを感じながら、私はぼんやりと水平線へと視線を飛ばす。
 凪いだ海面にきらめく陽光。高台を吹く風が髪を揺らし、暖かな日和の中、心地好い涼しさを私に感じさせてくれている。
 翼のない、何処にも飛んでいけない私は、ここで司を待つために時間を過ごす。
 私がいちばん好きなはずのこの場所も、今は他に居場所のなくなってしまった迷子のような私の、たったひとつの逃げ場みたいに思えてしまう。
「司……」
 こんな風に、何度、彼の名前を呟いてみたのだろうか。
 司が与えてくれたたくさんのものは、今も私の中にしっかりと大切にしまってあるけれど、司、あなたがいないと私はこんなに弱く小さくなってしまうことを知っている?
 早く司に戻ってきてほしいと思う。
 早く司に私の名前を呼んでほしいと思う。
 早く司の名前をたくさん呼びたいと思う。
 早く、早く。ただ、ただ、司に会いたい。
 こんな思いを募らせている私を、司はどう思うのだろうか?
 ここではない別の場所にいる司は、私のことを少しでも思っていてくれるのだろうか?
 それは、願いにも似て祈りにも似て、ほんの小さな恐れにも似ている気持ちだと思う。
 私が司の名前を呼んだら、彼に届くのだろうか。
 そんなことはありえないことだと分かっているけれど、無意識に彼の名前が口からこぼれるのは、そんな無茶でも私と司ならばと、どこかで信じているからなのだろうか。
「……司」
 ダメだな、と思う。
 一面に広がる深い青の水面ほど、私の心は穏やかではないみたいだ。
 目的もなく学院の敷地内を散策して、あちらこちらを見て回っても、今の私の心に浮かぶのは、司を連れ回して過ごした記憶ばかり。
 これだけの思い出が、彼との出会ってからのわずか一年ほどで私の中に生まれているのだ。
 楽しいこともあったし、ちょっとしたケンカもした。何気ない一言で、私が拗ねてしまったり、それを見て慌てて言葉を探す司の様子に吹き出してみたり、ついつい甘えさせてくれる彼の態度が嬉しくて、どんどん、どんどん私は司に寄りかかっていったのだ。
 だから、私が持て余しているこの想いは、私がどれだけ司に心を預けているのかという、その証なのだ。
 そうして私は知ったのだ。寂しいという気持ちが、こんなにも耐え難くて、胸が苦しくなるものだということを。
 ほんの少し離れてしまうだけで、私がどれだけ司に依存してしまっているのかを思い知らされたのだ。
 そして、当たり前に続いてきた私たちの毎日が、決して永遠なんてものではないということに、怖くなる。
 しあわせを知った私は、この日々が失われてしまうことを何よりも恐れているのだ。
 だから。
 早く司に戻ってきてほしいと願う。
 遅々とした時間の流れをもどかしく感じる。
 決して忘れることなどできない司の笑顔を想う。
 両の腕で自身を抱きしめて、私は目を閉じる。
 閉ざされた視界の中、まぶたを通しても感じる陽射しのまぶしさ。暖かさ。
 私を抱くこの腕が司の腕ならば。
 この温もりが司の温もりならば。
 そんな錯覚をしそうになるけれど、私の冷静な部分がそれを許さない。
 結局は堂々巡りの思考の末、同じ結論に辿り着くだけ。どうしようもないのだ。
 だから、私は何もしないで一日が終わるのを待っている。
 学院の講義も、教員の小言も、私には関係ないから。
 ただ、司さえいてくれればいい。
 そう思うようになってしまった私は、どこか間違えているのだろうか。
 そんなことはないと、言ってくれるはずの司が今はいない。
 制服が汚れるのも構わず、私は身を倒す。
 眩しい陽射しを遮るように腕で視界をふさいでみても、まぼろしを追い払うようにぎゅっと目を閉じてみても、まぶたの裏に浮かぶのは司の姿だけ。他のことを考えようと、足掻いてみても何の意味もなくて。
 司、司、と心の中で、彼の名前を呼びながら、私はこの場所で、ひたすらに今日の終わりを待ち続けている。

§

「……ちゃん」
「……ん……」
「殿ちゃん。もう、殿ちゃんてばっ」
 聞き慣れた声が私を呼んでいるようだ。
 少しだけ遠慮がちに肩を揺さぶられているのを、ぼんやりとした意識で捉える。
「殿ちゃん、こんなところで寝ているなんて……」
 ──殿ちゃん、そうやって私を呼ぶのはひとりしか心当たりがなくて。
「起きてください、殿ちゃん……」
 心細げに、気遣わしげに、私の名前を呼ぶ彼女の声に、拡散していた意識が私本来の形を取り戻していく。
「……ん」
 私に触れている彼女の手から伝わる温度を感じて。
「殿ちゃん……」
 聞き慣れた彼女の柔らかい声を快く思いながら。
「あ……梓乃?」
 私は目を見開いた。
「ようやく起きてくれましたね、殿ちゃん」
 ほっとしたように、梓乃が私の顔をのぞき込みつつ微笑む。
「……私、寝てた?」
「もう、そんなの見れば分かります」
 的外れな私の質問に、微笑みを少し困ったような苦笑に変えつつ梓乃が答えた。
「ん。私は私を見られないけれどね」
「殿ちゃん、それも当たり前です」
「そうかも」
「そうですよ」
 おかしそうに梓乃が屈託のない笑顔を見せてくれる。
 私も相好を崩すけれど、梓乃はそんな私の表情から何をくみ取ったのか、とたんに眉をひそめて訊いてくる。
「殿ちゃん、先生のことですか?」
「……ん。そう」
 彼女の質問に数拍遅れて短く言葉を返す。
「せんせ、戻ってくるの明日って言ってた」
「はい、そう仰っていましたね」
 梓乃が差し出してくれた手を取って、私は身を起こす。
 ぼんやりと夕暮れの色に染まりつつある遠くの空を眺めていると、梓乃は私のすぐ隣に腰を下ろした。
 私と司の関係を、梓乃は知っているけれど、きっと今の私の心の内までは想像できてはいないのだろう。
 誰かを思って、ここまで寂しさによって心が苛まれてしまうということを、当の私自身でさえ、思い至りもしなかったのだから。
 鷹月の家の、私と両親との確執を知っている梓乃だからこそ、私が司を家族同然に思っているということを、想像できないのではないだろうか。
 多分、私の抱えている、司を思う気持ちというものは、梓乃にとってはこれまで当たり前に彼女の両親や祖父母らから与えられてきたものに似ているのかも知れない。
 そういった意味では、私はようやく梓乃の気持ちを──大切に思っている家族と離ればなれに暮らすことを余儀なくされているという、その痛みをようやく理解できたともいえる。
 逆に、梓乃にとってはどうなのだろう?
 家族の話題を私が厭うていることを、彼女は十分以上に理解してくれているから。私が司を家族同然に見ているということ、いや、実の家族以上に思っているということ、そこへ思いが至らないのかも知れない。
 私は両親との間に、もはやどうしようもないくらいの断絶を作ってしまったし、梓乃は彼女自身の事情ゆえに、他人との距離を私以上に上手く取ることができないでいるのだから。
「殿ちゃん」
「何?」
「殿ちゃんは……寂しいんですか?」
 けれど、そんな私の考えなんて、浅はかな思い込みに過ぎないことを知らされる。
 私がずっと背の後ろで守ってきた梓乃は、私が思っているよりも遥かに私のことを見てくれていたのだ。
 私だって梓乃を大切にしていたはずなのに。なのにどうして私は、梓乃はこの気持ちを理解できないなんて考えてしまっていたのだろう。
「ごめん、梓乃」
「……え?」
 私の気持ちを察してくれた梓乃だけれど、この答えは予想していなかったようだ。
 見当違いな私の返答に、一瞬、彼女が固まったように見えた。
 だけど、私は謝らずにはいられなかったのだ。
 梓乃の気持ちを低く見てしまったことを。
 彼女を、私が守らなければいけない、か弱い子どものように思っていたことを。
「え……と。殿ちゃんが何を謝っているのか、わたくしには分からないんですけれど?」
「いいの。私が単に馬鹿だったというだけだから。梓乃は何も悪くないから気にしないで」
「あぅ……。気になります」
「ごめん」
「あぅ、また……」
 戸惑い、わたわたする梓乃を見ていると、なんだか私の方が可笑しくなってしまう。
 ついさっきまで、自分が悩んでいたことが、馬鹿らしくなるくらいに、気分が軽くなってくる。
「もう……」
 私の制服の袖を掴んで、拗ねた子どものような幼い表情で梓乃が不平を漏らす。
 ごめん、ともう一度、私は梓乃に自分の愚かさを詫びて、そうしてから抱えていたものを少しずつ吐き出していく。
「……うん。せんせがいなくて、多分、私は寂しかったんだと思う」
 自分を偽る必要なんてない。
 自分の弱さを隠そうと、強がる必要なんてない。
 いつも、私に彼女自身を見せてくれていた梓乃に対して、それは侮辱というものだろうから。
「昨日だって、今日だってそう。司がいなくて、私は退屈で、何もすることがなくて、何もする気が起きなかったんだと思う」
「……はい」
「だから、待っていたの。今日が終わって、明日になって、司が帰ってくるのを」
 こんな風に、私を心配してくれていた、梓乃の気持ちにも気付かないまま。
「おかしいね。ほんの数日だって分かっているのに、一日経っただけで、こんな有様。寂しいって、辛いんだね、梓乃」
「ええ……。ですが、わたくしには、殿ちゃんがいてくれましたから……」
 きゅっ、と梓乃は私の手を、壊れものに触れるように優しく、両の手のひらで包み込んでくる。
「けれど、殿ちゃんには、わたくしにとっての殿ちゃんのような方がいらっしゃらなかったんですよね?」
 そして、私の手を抱きしめるように、慈しむように、その手のひらに力を込めて。
「わたくしだって、きっと殿ちゃんと同じです。殿ちゃんがいない毎日なんて、想像できません。もし、殿ちゃんがどこかへ行ってしまったら、殿ちゃんがわたくしのことを嫌いになってしまったら、そんなことを考えると、怖くてたまらなくなります」
 そう告げた梓乃の暖かな手が、少しだけ震えたように思えた。
「そんな!」
 違う。私は、梓乃にそんなことを言わせたいわけじゃないのに。
「そんなこと、ない。絶対にない。私は、私は梓乃をひとりになんてしないから」
「ええ、分かっています。殿ちゃんはそんなことしないって、わたくしは信じていますから」
 ですから、と、梓乃は私をまっすぐに見つめ言葉を続ける。
「殿ちゃんも信じてください。わたくしが殿ちゃんを信じているように。先生を信じてさしあげてください」
「梓乃……」
「わたくしは、殿ちゃんがいつも助けてくださったことを覚えています。忘れたりしません。苦しいときも、悲しいときも、楽しいときも、嬉しいときも、寂しいときも、殿ちゃんがわたくしを支えてくれましたから。ですから、他の誰よりも、わたくしは殿ちゃんを信じています」
 では、私はどうなのだろう? そう言ってくれる梓乃の言葉ほどに立派な自分とは思えない私は。
「殿ちゃんは、もっと他の方を頼っても良いんです。誰よりもわたくしを守ってくださる貴女は、わたくしにとって一番のお友達です。いいえ、そんなこと関係なしに、わたくしにとっては昔からずっとずっと、貴女はわたくしにとって一番だったのですから。けれど……」
 一呼吸の間の後、梓乃は再び言葉を紡ぐ。ゆっくりと夕暮れの色が夜の色に変っていく中、梓乃の言葉は力を失わない。
「わたくしにとって貴女がそうであるように、今の殿ちゃんには先生がいらっしゃいます。殿ちゃん、貴女が抱えている気持ちを、どうか一人で持て余さないでください。わたくしにだって伝えてください。殿ちゃんの一番の先生をもっと信じてあげてください。ひとりでいる寂しさだって、そうすればきっと乗り越えていけるんですから」
「でも……」
「もう、そうやって変に遠慮するなんて、殿ちゃんらしくないですよ? ちょっと前までは、わたくしの入り込む隙間もないくらい、先生にべったりだったじゃないですか」
 梓乃にまで、そう言われるなんて。あの頃の熱に浮かされたような自分はどうかしてたんじゃないかと思う。
「でも……いいのかな?」
 司に甘えたままの私で。そうすることで、梓乃を寂しくさせてしまうかも知れない私で。
 小さな逡巡は力ない言葉として生まれ、けれど、梓乃はそんな私を認めてくれる。
「いいんですよ、殿ちゃんが選んだことならば、わたくしはその選択を応援します。そして、殿ちゃんが選んだ方ならば、わたくしも信じたいと思います」
 でも、と梓乃は意地悪げに言う。
「わたくしは、殿ちゃんほどには先生を信じられないとは思いますけれど」
「どうして?」
「……だって、わたくしから殿ちゃんを取ってしまわれたんですもの!」
「……は?」
「これでも少し、寂しいと思ってるんですよ? 殿ちゃん、その、先生とお付き合いされるようになってからは、先生のお部屋に入りびたっていますから。もう少し、わたくしのこともかまってほしいんですよ?」
「梓乃。……その、ごめん」
 思わぬ言葉に私は反射的に謝ってしまうけれど、私を見る梓乃は悪戯っぽく微笑むばかりで。
「ええ、ですから、ちょっとだけお返ししちゃいますね」
 そう言って、立ち上がり、私の手を取り引っ張って。
「殿ちゃん、ご自分では忘れちゃってるんでしょうか? 今日は殿ちゃんの誕生日だってこと」
「あ」
 言われてみて、そんなことすら忘れていた自分に苦笑いする。
 こんな静かな場所にいると、それこそ時間の流れなんて毎日意識していないと曖昧になっていくだけで、それに、自分の誕生日なんて私にとってはそれほど大切な日だとも認識していなかったから。
 考えてみると、私の誕生日を祝ってくれていたのは、この学院では梓乃だけで、だから、私は彼女にそう指摘されるまで忘れてしまっていたのだ。
「そっか、そういえばそうだった」
「んもう、ご自分の誕生日くらい、ちゃんと覚えていてくださいね」
「大丈夫、梓乃の誕生日は忘れていないから」
「殿ちゃん、そういうことではなくて……」
 私は、制服についた砂埃をはたいて落とす。
 梓乃は、私をまっすぐに見てくれて、そして、お祝いの言葉を私に贈ってくれる。
「改めまして。殿ちゃん、お誕生日おめでとうございます」
 毎年梓乃にもらっている言葉。誕生日を迎えることそれ自体に、特別な感慨はないのだけれど、こうやって誰かに祝ってもらえることはやっぱり嬉しい。
「うん、ありがとう、梓乃」
「どういたしまして、殿ちゃん」
 梓乃の言葉を聞いて、私もようやく彼女のように微笑むことができたと思う。
「それと、殿ちゃんに受け取ってほしいプレゼントがあります」
「プレゼント? 梓乃が?」
「くす。ここにはわたくししかいませんよ、殿ちゃん? それで、どうでしょう。もらっていただけますか?」
 是非もない問いかけ。私は肯きで梓乃の言葉に応える。
「良かった……」
 ほっと息を吐き、梓乃は安心したような表情を浮かべる。
 梓乃の仕草に、言いようのない違和感を覚えるけれど、その理由に私は思い当たることがない。
「そ、それじゃ、殿ちゃんは先に寮へ戻っていただけますか?」
「梓乃は一緒じゃないの?」
「わ、わたくしは少し、その、用事が。えっと、そうっ、ダンテを連れて行こうかな、って……」
 姿の見えない彼女の愛犬が気になるのか、梓乃は慌てたように周囲を見回しながら言う。
「そう? それじゃ私は先に戻るけれど、梓乃も早く戻ってね」
「は、はい。必ずっ」
 太陽は沈んで、月のまだ登らない夜の空を見上げてみる。夜の帳が降りるにはまだ多少の時間がありそうだけれど、ゆっくりと夜闇は近づいてきている。
「……。梓乃、やっぱり一緒に戻った方が」
 私が梓乃に言い終わるより早く、
「それじゃ、殿ちゃん、また後で!」
 差し伸べた手から逃げるように、梓乃は駆けていってしまった。
「きゃっ……!?」
「し、梓乃?」
「だ、大丈夫です~」
 言ったそばから、何もなさそうな場所でつまずいて、バランスを崩してしまった梓乃の背に声をかけるけれど、梓乃は私の方をちらりと見て、さらに慌てたように走っていく。
「どうしたんだろう、梓乃?」
 私がよく知っている普段の彼女とは違った態度に疑問を覚え、ぽつりと一言こぼす。
 そして、梓乃が見せてくれた悪戯な表情の。司を揶揄するような言葉の。彼女が私にするといった「お返し」の意味を。
 私はこの後すぐに理解することになる。

§

「や、殿子、ただいま」
 ここにいるはずのない人物の声を聞き、その声の主の姿を薄闇の中で視界に捉え、正真正銘に私は固まってしまった。
「……」
 とっさに浮かぶ言葉もなく、微妙に気まずい沈黙に耐えかねたのか、司がもう一度同じ言葉を繰り返してきた。
「や、殿子、ただいま」
 そこにいるのが当然のように、毎日交わすおはようやおやすみのように、いつもの彼の口調と仕草で。
「つ、つかさ?」
 呆けたように問いかけた私の様子を見ても、彼はおかしいと思った風もなく、
「八乙女にここで待っていろって言われたんだけど」
 そんなことをのたまう。
「司、どうして? だって、明日って……」
「いや、仕事を片付けてから、ホテルに戻る途中、いきなり八乙女の家の自家用機に乗せられて、気が付いたらあっという間に学院まで送り届けられちゃったんだけど」
 もともと明日は移動に充ててたということで、司の仕事自体は今日で終わっていたということらしい。
 司の説明を聞いて、私は梓乃が目論んでいた策に、まんまと乗せられていたのだと、ようやく理解した。
 梓乃が見せてくれた悪戯な表情の。司を揶揄するような言葉の。彼女が私にするといった「お返し」の意味を知った。
 まったく、梓乃らしくない。少し意地が悪いと思う。こんなどっきりを用意して私を驚かせてくれるなんて。
 けれど、今の私にとっては何ものにも代え難いプレゼントだ。私にとって一番大切に思っている司が、ここにいてくれるのだから。
 今日だけで、梓乃には随分と驚かせられてしまった。私が思っている以上に、私のことを思っていてくれた彼女に。私にとってはもったいないくらいの親友に、心の中で何度もありがとうと言葉を捧げる。
 このお返しは、どうしたらいいのだろう?
 彼女の誕生日まで時間はあまりないけれど、私に贈られたプレゼントに見合うだけのものを、梓乃には返してあげたいと思う。いっそのこと、司にも協力してもらうのもいいかも知れない。
 そうやって、私はたくさんの感謝と、少しばかりの意地悪を込めた、お返しをすることを決意する。
 だけどその前に、この状況を司にどう説明しようか。
 ふと考え込んでいると、司は何も知らない様子で私に訊いてくる。
「殿子? 八乙女とは一緒じゃなかったのか?」
 一緒だったよ、さっきまで。
 けれど、素直にそのことを告げるのはなんだか面白くない。
 だから、司には私の八つ当たりの相手になってもらおうと思う。
「梓乃なら多分来ないよ、司」
「ん? どういう意味だ?」
「梓乃に言われてここに来たら、司がいたの」
 私の言葉に疑問符を浮かべる司。まだ、私が言いたいことが分からないのだろうか、この鈍感なひとは。
「司、今日が何の日か梓乃から聞いた?」
「今日って六月七日? いや、八乙女からは何も言われてないけれど……」
 そう言ってから数瞬、司は自分の記憶の中から、今日が私にとってどういう日なのか、その答えを見つけ出す。
 もちろん、私自身がそれを失念していたということは、内緒。私と梓乃だけの内緒。
「今日って、殿子、君の……」
「そ、思い出してくれた? せんせ」
 司のせいで感じてしまった寂しさをお返しするかのように、できるだけ意地悪な表情で言ってやる。
「う、その、すまん」
 ついうっかり、じゃ本当は許してあげたくないのだけれど。
 司には、私のことをぜんぶ知っていてほしいから。知ってもらいたいから。
 だから、もう二度と、忘れることができないくらいに、今日という日を特別にしてもらおう。
「司、反省してる?」
「……ごめんなさい」
「本当に?」
「面目ない。僕としたことが、これじゃ教師失格だね」
「違うよ、せんせ」
 先生という立場で、司に謝ってほしくないから、私はそこだけはしっかりと否定しておこうと思う。
「せんせ──滝沢司にとって、鷹月殿子は単なる教え子なの?」
 他の教員が私のことをどう思っていたってかまわない。私にとっての唯一無二の先生は、司、貴方だけだから。
 だから、貴方にとっても私という存在が、唯一無二であってほしい。
 きっとそれは……。
「違うな、ごめんな、殿子。君は僕にとって大切な娘で」
 そして。
「僕にとって最愛の女の子だ」
 そう、貴方は私の最愛のひと。
「うん、合格だよ、司」
 その言葉を貴方から贈ってもらえるのなら、形などなくても私にとっては大切な宝物として心にしまっておけるから。
 私より随分と背の高い彼を見上げて、私は精一杯の笑顔を浮かべてみる。
 笑うことにはあまり慣れていないけれど、司への想いが伝わるように、この心の暖かさが伝わるように、私の精一杯の笑顔を司へ贈る。
 それと、もう一つ私のわがままを叶えてもらおうと思う。
 本当は、私だってしてみたかったことをさせてもらおう。
 梓乃にも背中を押された気がするし、せっかくの機会だから。
「それと、司、ちょっといい?」
「うん?」
「……少しだけ、こうさせて」
 言って、私は司の胸に顔を埋め、両手を彼の背中に回しぎゅっと抱きしめる。
 私のものじゃない、彼の体温は、ほんの数日感じていないだけなのに、どうしようもなく私の胸は暖かくなる。
 何も言わずに私を抱きしめ返してくれる司の優しさが嬉しい。
 こうして私を甘やかせてくれる司の優しさに溺れてしまおう。
「本当は、寂しかった」
 目を閉じ、司の胸の中で彼の匂いに包まれて、私は彼に言う。
「朝、司におはようと言ってもらえないことも。昼、司と一緒にお昼が食べられないこと。夜、司に抱きしめてもらえないことも。司のいないこの二日間、とっても長かった」
 私を受け止めてくれた司に、私は正直にありたいと思う。そうして、本当の私というものを、もっともっと知っていってもらおうと思う。
 そして、司のことを私に教えてもらおう。
 司が嬉しいと思ったこと、楽しいと思ったこと、悲しいと思ったこと、寂しいと思ったこと、憤りを感じたこと、何もかも。
 これから、もっともっと、私は私を教え、司を教えてもらおうと思う。
 そうして、もし、司が私のように寂しいと思ったとき、悲しいと思ったとき、貴方を支えてあげられる私になりたいと思う。
 だから、司。私の気持ちを受け取ってください。
「わがままだっていうのは分かってる。司にだって仕事があるっていうことは、ちゃんと分かってる。だけど、やっぱり司がいてくれないと私は寂しくて、どうにかなってしまいそうになる」
「殿子……」
 私を逃がすまいとするかのように、司が両腕に力を込めた。
「だから、ありがとう。無茶なお願いだって思っていたけれど、こうして今、司が私を抱きしめてくれることがとても嬉しいの。私が辛くなったときに、こうしていてくれて本当に嬉しいの」
 でも。
「ごめんなさい。私のわがままで司を責めるようなことを言ってしまって。けれど、司が今日、ここにいてくれた、それが嬉しいのは本当だから。だから……」
「いいんだ、殿子」
 耳元で、司の声。
 私の首筋に顔を埋め、口づけをするかのような距離で、司が優しく私に言う。
「殿子が謝ることなんてどこにもないから。君が辛いなら僕も一緒に背負おう。君が楽しいなら僕も一緒に笑おう。そう、決めたのは僕だから。君を幸せにしたいと願ったのは僕だから。……だから、殿子、僕ひとりでは実現できないその願いを、これからも一緒に叶えていってほしい」
「……うん」
 ならば、私は司の幸せのために、貴方とともに歩むと誓おう。
 いつか、私が貴方の支えとなれるように。
 貴方の幸せが、私の幸せでありますように。
 そう願いながら、私は司の胸から抜け出して、彼と視線を重ねる。
 どちらからともなく私たちの手が重なり、指を絡める。
 多分、私たちにはまだまだ伝えたいことがある。
 もっと伝えなければならないことがある。
 知らなければならないことがある。
 だけど、今は。
 今は、幾百の言葉を交わすより、たった一つの口づけを私は望もう。
 何も言わず、私の想いに応えてくれる司の優しさが愛おしくて。
 私はその温もりを求め、背を伸ばし、自分から彼の唇へ私の唇を重ねた。
 誰よりも私を愛してくれていると確信できる彼の暖かさに、嬉しさに、知らずこぼれた涙が頬を伝う。
 ああ、私はこうして司をもっと好きになっていく。
 この想いを余さず彼に伝えていきたいと思う。
 精一杯の愛を彼に伝え、そして彼にも愛されたいと思う。
 ついばむような口づけを、そうして、二度、三度……幾度となく繰り返し、じゃれ合うように唇を触れ合わせる。
 愛し合う前に交わす、貪るような口づけとは違う、だけど、これ以上ないくらいに私は彼の愛情を感じている。愛に溺れていく。
 私はもっと貴方を好きになる。
 当たり前に続いてきた昨日までよりも、大切な思い出を贈ってくれた今日に、私はこんなに貴方を愛おしく思っているのだから。
 そして、私が望むように、彼が求めるように、今夜も司とともに過ごそう。
 彼の部屋から、未だ見えない下弦の宵月を一緒に眺めようと思う。月が登り、沈み、朝を迎えるまで、貴方とともに、いろいろなことを話しながら、お互いを求め合いながら。
 今日という日は、もう少しで終わりを迎えるけれど、貴方と過ごす夜はこれからだから。
 だから。
 朝日が昇るまで、私を離さないでいて。
 私が眠るまで、この夜を終わらせないで。
 この大切な夜を。

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