黎明

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2010年の夏コミにて頒布しました同人誌収録のSSです。頒布終了にともない、こちらでも公開させていただきます。同人誌のデータは軌道回路のサイトにてPDF形式にて公開されておりますのであわせてご覧下さい。

黎明

「私はあなたの自己満足のための道具じゃない」
 背に風を受け、彼女はあたしの視線をまっすぐに受け止めながら、そう言った。

§

 その姿を見かけたのは偶然だった。
「こら、殿子! 待て。……ああもう、待てってば!」
 羽織ったマントに帽子。背中で尻尾のように揺れるひとつにまとめた長い髪。特徴的な後ろ姿に声をかけるけれど、あたしの声など聞こえないかのように歩みを緩めない殿子。
 無視された。そう思った瞬間に思わずあたしは駆け出す。彼女の背を追って。何度も呼びかけながら。
「おい、殿子! 聞こえないのか!?」
 ああ、くそ。やっぱり報告にあった通りじゃないか。
 学院生を監督する担当教員からの指導報告には、あたしも一通り目を通していた。
 鷹月殿子。成績面では問題はないが、生活態度の面では大きな問題あり。放浪癖による授業のサボタージュによる出席日数の不足。このままでは卒院も危ぶまれるような状況になっても一向に改善する兆しもなく、度重なる教師からの忠告にも耳を貸す気配もなし。まるで、この学院の外へ出ることを拒絶しているかのようだと、そう記されていた。
 本来なら、考えられないことである。
 娯楽らしい娯楽もなく、ただただ毎日をつつがなく過ごしていくだけの平穏で退屈な生活。それを受け入れるのは簡単ではないのだから。
 かくいうあたしだって、理事長代理という役を任じられなければ、望んでこの学院を学舎にしようかなどと思ったかどうか、正直なところ疑わしくもある。
 しかし、殿子の、鷹月という家の事情は、教育のための場であるという本来の学院の存在意義さえねじ曲げてしまう。
 鷹月の娘としては望ましくないと。そう、殿子の両親に思われてしまう、ただそれだけのことで、彼女はここから外へ出ることすら叶わなくなってしまうのだ。例え、卒院に必要な条件を満たしたとしても。高い塀に囲まれ、堅い門に閉ざされた、穏やかだけれど外界と隔離されたこの狭い世界に、いつまでも閉じ込められ続けてしまうのだ。
 立場上、院生たちの事情を把握することができるとはいえ、この分校に身を寄せざるを得なくなってしまったその理由を知るにつれて、あたしは自分に何ができるのだろうかと自問を繰り返してきた。
 理事長として、学院生たちを預かる身として、このあたしに与えられた役割をどうやったらまっとうできるのだろうかと、何度となく考えてきたのだ。
 より良い学院を作るために、より良い方向へと学院生たちを導くために。それが、このあたしに期待されていることなのだと、信じているから。
 だからだろうか? 殿子のことが気になってしまったのは。
 名家に生まれながら、両親の期待に添うことができず、両親の期待を裏切り続けてしまっている殿子の姿を、いつの間にか自分の境遇と重ねてしまっていたのだろうか?
 あたしが――風祭みやびが、お父様やお母様の期待を受けながらやってきたこの学院で出会った彼女の境遇を、あたしがなんとかできるのなら……。
 それは、あたし自身にとっても救いになるのではないかと、希望を持てるのではないかと、そんな風に思ってしまったことが。
 大きな誤りであったことを、あたしはすぐに思い知ることになる。

§

 歩き慣れない林道を、何度もつまづき転びそうになりながら、あたしは殿子を追いかけた。
 危なげなくすいすいと進んでいく背中を、少し恨めしく思いながら、もはや呼びかけに対しての返事を期待することも諦め、終点を目指す。
 頭の中に学院の敷地の地図を呼び出して、現在位置と方向から、行く先を推測してみる。
 あたしにとってはあまり縁のない場所。けれど、先を行く殿子にとっては、何度も通い慣れた場所なのだろう。
 果たして、木々が途切れ視界の開けた先には大きく広がる一面の青。遠く遠く、海と空を分かつ水平線まで見通せるくらいの丘の上。天頂にある太陽の日差しを受けてきらめく水面を見て、あたしは目を細めた。
 一足先にたどり着いていた殿子は、後ろに立つあたしに気づいていないはずがないのに、振り返ろうともしない。そんな殿子のつかみ所のない、ぼんやりとした今のような態度に、やきもきさせられることが少なからずあった。
 ただ、あたしがとうやって話しかけようとも、彼女の反応が大きく変わることなんてないだろう。そんな確信が持てるくらいにの短くない時間を、学院で知り合ってからすでに過ごしているのだけれど。
「ふう、ようやく捕まえたぞ」
 だから、あたしがすることにも変わりはない。いつも通りの態度で、いつも通りの彼女に対して言葉を投げるだけ。
「呼んだら返事くらいしないか、殿子。あたしだって用もなく話しかけるわけじゃないんだぞ」
「そう」
 ゆっくりと振り返った殿子は、そう、一言。
「そう、って、お前なあ。いつもいつもふらりとどこへ消えるのかと思っていたら、こんなところにエスケープしていたのか?」
 暖簾に腕押し。手応えのない一方的な会話になりつつあることに早くも気疲れを感じてしまう。
 けれど、彼女にさらに一歩詰め寄り、あたしは殿子の逃げ道をふさぐように立つ。
「だから?」
「だからも何も、そうやってお前が授業をサボるたびに、自分の評定が下がっていること、知らない訳じゃないだろう? いくら試験で及第点を取っていたって、出席日数が足りなければ。……今のままじゃ、卒院なんてできないぞ」
「別に」
 自分のことを話題にしているのに、当の殿子はどこまでも他人事で。
「私がここから出られないことくらい、みやびだって知っているはず」
 そんな諦めに似た言葉なんてあたしは聞きたくなくて。
 だから、言う。
 それが一体、誰のための言葉なのかも考えることさえできずに。
「そんなことはないだろう! 今からだって、態度を改めて、この凰華女学院の生徒として立派に過ごしていけばきっと、お前の御両親だって……」
「違う」
「……っ!」
「みやび、違う。みやびは全然わかっていない。鷹月のことも。あの人たちのことも。私のことも」
 思いがけず投げ返された言葉は、あたしにとっては想定外。殿子が、こんな風に言うなんて。
 狼狽えつつも、あたしは自分の言葉を紡ぐ。あたしが正しいと信じる言葉を。教育者として、理事長としての言葉を。
「な、何が違うという!? あたしが言いたいのは、このままだとお前はいつまでもこの学院から出ることができないと……」
 どうしようもない理由ではないはずだ。殿子と、殿子の両親との確執は。我を通そうとする両者のどちらかが折れれば、解決する問題だと思っていた。
 あたしなら。あたしが殿子の立場だとしたら、いつまでも自分の我が侭を通そうとはしない。だから、殿子も、こんな不毛な我慢比べをいつまでもするつもりがないだろうと、そう思ったのに。
「みやび」
 殿子は言う。
 背に風を受け、あたしの視線をまっすぐに受け止めながら。
「私はあなたの自己満足のための道具じゃない」
「なっ!? ち、違……」
「違わない。みやびがしようとしているのは、あの人たちと同じこと。学院生という型にはめ、自分の望む形でしか私という存在を認めない」
 口調は変わらない。語気を荒げることもない。けれど、殿子との言葉に宿るのは、怒りと、それさえ飲み込むほどの――諦め?
「そんなみやびの言うことなんて、私は聞けない」
 それは、理事長としてのあたしを否定する言葉だ。あたしが為そうとしていることに意味などないと断じる言葉だ。
 だが、これまでのあたしの努力を無に返すような言葉を、最後まで聞いていることなんてできるはずがない。必死に言葉を探す。あたしが本当にしたいこと、実現したいこと、それを知ってほしくて。
「と、殿子……」
 けれど、見つからない。どうしてだろう? あたしだって馬鹿じゃない。必死に勉強した。凰華女学院の長であるために必要な知識を詰め込み、教育のなんたるかを学び、自分が思い描く理想を実現しようと努力を積み重ねたのに。
 自分の思いを伝えることができない。窒息したように息が詰まり、言葉が上手く出てこない。
 このままでいて良いはずがない。あたしは期待に応えなければいけないのだから。結果を出さなければいけないのだから。
 見つからない答えを探し続けるあたしに、殿子は言う。
「みやびが期待に応えようと頑張るのは良い。けれど、そのために私を利用しようとするのなら、私はあなたをきっと許せなくなる」
「す、好き勝手に言って……。お前だって、殿子だって、あたしのことなんて何も知らないだろうが!?」
「知らない。だけど、みやびはそれを伝えようとした? みやびが何をどうしたいのかなんて、私だけじゃない。きっと他の誰も知らないと思う。伝わらない言葉なんて意味はない。形も見えない理想なんて砂の城。そんな場所で、たった一人で、みやびは何を抱えようとしているの?」
 殿子の言葉が、あたしのメッキを剥がしていく。中身のない理想を見透かしていく。
「あ、あたしは。あたしは……」
「何もかもを抱えて、潰れてしまうくらいなら、何もしなければ良いのに」
「そ、そんなこと、できるわけがないだろう!!」
 どうしようもないあたしは、叫ぶことでしか殿子の言葉に応えることができなかった。
「……できるわけが、ない」
 あたしには何もできない。
 何かを為そうとするあたしは、その実、何もできないのだと、殿子はそう言っているのだ。
 そうして彼女が指摘する、あたし自身の無力さを、あたしは否定したくても否定できないでいる。
 言い込められてしまったあたしの中で膨らみ始めるのは、殿子の瞳の中に見えた気がする一抹の諦観と同じ色。あたしも他の学院生たちと変わりはないのだという諦め。いくら声を張り上げようと、あたしというたった一人の言葉など、どこにも届いてはいないのではないかという恐れ。
「言葉にすることはできるかもしれない。けれど、みやびには私たち全員を救うことなんてできない。背負うことなんてできない。それは、たぶん、誰にもできないことなんだと思う」
 そう言う殿子の瞳に映るあたしは、いったいどんな顔をしているのだろう。
「だ、だけど、あたしは……っ!」
 無様に、一言さえ発することもできず、ただ狼狽するだけの子供のようではないか。
「何かを変えることは簡単じゃない。この学院だってずっとずっと変わらずにいる。私はそれも仕方ないとことだと思っているから」
「だが、殿子。それでは、お前は……」
 これからもずっと篭の中の鳥であり続けようというのか?
「良いの。私はここ以外の場所へ行くことなんてできないのだから。誰かの道具にされるくらいなら、例えそこが狭く閉ざされていたとしても、私は私でいられる場所にいようと思う」
「これからもずっと、か……?」
「ええ。これからもずっと。いつか、何かが変わるかもしれない、その時まで。誰かが、全部を変えてくれるかもしれない、その時まで」
「誰か、か」
 そんなことができるのだろうか。そんな人間がいるのだろうか。損得勘定なしに誰もを救おうなんて、そんな大それたことを思うような人間が。
「そんなことができる奴なんて」
「うん、きっと、すごく馬鹿な人。そして、私たちが見たことも、聞いたこともないくらいに、変な人」
「馬鹿、か……」
 あたしや殿子みたいにできないことに悩んだり諦めたりするよりも、自分ができることを信じることを決して止めない。言葉にするのは簡単でも、その言葉を現実にするのはどれだけ難しいことだろうか。
 そんなことができる奴は。
 ……ああ、確かに。
 そいつは確かに大馬鹿者なんだろう。
「そんな奴がいるのなら見てみたいものだな……」
 あり得ないことを口にするなんて、あたしらしくない。願望に縋ろうとするなんてあたしらしくない。
 こんな言葉、聞いているのが殿子だけなのは、不幸中の幸いだ。
「いるのなら、な……」
 独り言めいたあたしの言葉に。
 殿子は今度は、返事をしなかった。
 ただ、吹くことを止めない海からの少し冷たい風に髪を揺らしながら。
 どこか遠くへと視線を飛ばしているだけだった。

§

「ふふふ」
 間近で控えめに笑いをこぼすリーダに、あたしは拗ねたような声音で彼女に訊いた。
「な、何? 何かおかしいことでも言った?」
「いえ、何も。ですが、御嬢様とこうするのは何時以来だろうかと思っただけで御座います」
「……う」
 あたしは、その柔らかい笑顔を直視できず、ぷいと視線を逸らせてしまう。
 その発言はもっともだ。
 あたしだって、今になって、どうしてこうなっているのか。おかしいかな? とか思わないわけでもないのだから。
 昼間の殿子とのやりとりで、あたしは自分が思った以上にダメージを受けていたとでもいうのだろうか。
 こんな風に甘えてしまうなんて、子供っぽくて、情けなくなる。
「いえ、私としては嬉しゅう御座いますよ、御嬢様。昔に戻ったみたいで懐かしいですし」
 笑みがさらに深まる気配。リーダはそう言ってあたしの頭をなでてくる。
 間近に感じる柔らかい温もり。あたしは自分の心が安まるのをはっきりと感じてしまう。照れくさく感じてしまう。
 ただ、一緒に眠るだけなのに。
 こうされると、あたしは子供の頃を思い出す。リーダと出会ってから、一緒に過ごしてきた長い時間を。誰よりも一緒に同じ時間を共にしてきた彼女との思い出を。
「も、もうっ。そうやって子供扱いするは止めてよね、リーダ」
 口からこぼれる言葉ほどに嫌なわけではないけれど。
 思い出される記憶の中には、苦いものも混じっているから。だからこそ、あたしは今もこうして頑張っているのだ。リーダと二人で。
「私にとっては、御嬢様はいつまで経っても御嬢様のままで御座いますから」
 けれど、こうしてリーダに甘えてしまうようなあたしは、リーダが言うとおり、昔からちっとも成長できていないんじゃないかと、不安を覚えたりもする。
「……それって、あたしがまだ頼りないってことなのかな?」
 凰華女学院の分校とはいえど、あたしはそれを預かる理事長代理だ。
 他の教職員や学院生たちに、弱みを見せることなど許されるはずがない。
 そんなことをしたら軽んじられてしまう。見限られてしまう。
 理事長の職にある者として、未だ十分な結果が出せていないことなんて、他の誰よりも、あたし自身が理解しているのだ。
 だからこそ、あたしが、ひいては風祭の名が侮られるような事態を招くわけにはいかない。
 あたしを見る学院生や教員たちの視線を思い出し、それに込められた感情の色に歯がみする思いを抱きながらも、あたしはそれだけは忘れてはならないと、肝に銘じ続けてきたのだから。
 しかし、あたしがどれだけ努力を重ねようと、投げかけられる視線が、学院内の空気が、それをあざ笑うかのように冷えていくのを感じる度に、あたしの中には悔しさと苛立ちが積み上がっていく。
 そうして、結果が伴わない自分自身に失望していく。
 望みを失くしているのが、あたしだけじゃなく、お父様やお母様までそうなのではないかと考えるたびに、不安の色はさらに深まっていくのだ。
 逃げ場なんてない。
 退路は自ら断ってしまったようなものだ。
 あたしにはひたすら前へと進んで行くしかないのだ。
 期待に応えるために。そう、期待に応えるためにだ。
 だから。
「誰も彼も、あたしの苦労なんてちっとも分かろうとしないんだから」
 こんな愚痴、他の誰にこぼせるのだろう。リーダ以外の誰かに、こんな弱音を吐くことなんてできるわけがない。
「……御嬢様は良くやっておいでです」
 そう、リーダが答えるのは分かっているのに。
 そう、あたしを慰める言葉を言うと分かっているのに。
 それを期待している自分が情けなくなる。
「……御嬢様?」
 気遣わしげなリーダの声。
 いつもそうだ。
 こうやって、リーダは自分のことよりも、あたしのことを優先してくれる。
 今みたいに、弱いあたしが甘えで言う愚痴も、嫌な顔一つせずに聞いてくれている。
 だけど、あたしは知らない。リーダが、あたしのように、誰かに不満を漏らしたことがあるのかどうかを。
「リーダは……」
「はい」
 立場上言えないのかもしれない。あたしに対して、そのようなことを言うのは、彼女の矜持が許さないのかもしれない。
 仮に。自分にとって最早、実の兄姉以上に身近に感じている彼女が、あたしのような思いを抱えているのだとしたら。
「いや、何でもない」
 いったい、あたしはどうしたら良いというのだろうか。
 あたしに一番近い、半身とも言えるような、彼女の苦しみに気づけていないのだとしたら。
 殿子が言ったように、あたしには誰も救うことなどできないのだということの、何よりの証になるのではないか。
「良くやっているだけじゃ駄目なんだ。あたしは結果を出さなければいけないんだから」
 また新しい一年が始まるというのに。
「もう、明日からは新学期だっていうのに」
「そうで御座いますね。ですが、御嬢様の準備は万端で御座いましょう?」
 だが、自分の無力さを嘆いて、リーダに縋ってもどうしようもないことも分かっている。
 例え頼りなくても、実力が伴っていなくても、あたしは今の仕事を立派に勤め上げるという責務から逃れることなどできはしない。
 だから、耐える。耐えて成し遂げなければならない。
「もちろんだ」
 風祭の息女として恥ずかしくなく在るために。
 あたしがあたしとして在るために。
 明日から新しい一年が始まるというのなら、今度こそ過たず。
 学院生として過ごすことのできる最後の一年を、後悔で染めないようにするために。
「だから、リーダの方もよろしく」
 不安を押し込めろ。迷いを悟らせるな。
 精一杯の強がりで、あたしはささやかな自信を笑みへと変えてみせる。
「はい。もちろんで御座います」
 あたしの笑みに答えるようにリーダが微笑む。
「私の方は新任の方を職員室へご案内した後に、講堂へ参りますので」
 あたしにはあたしの。リーダにはリーダの仕事がある。
 簡単にそれを確認しつつ、あたしはついつい皮肉を口にしてしまう。
「今度の新人は、もう少し長く続いて欲しいものだな……」
 あっさりと学院から逃げ出してしまった前任者の堪え性のなさに、わざとらしく嘆息して。
「御嬢様……」
 その原因は御嬢様にもあるのでは? と暗に言いたげな声音のリーダ。
「まぁ、良い。始業式の後にしっかりと教育の何たるかを叩き込んでやるとしよう」
 言葉の裏に気づく素振りも見せずに、あたしはそんなことを言う。
「程々にしてくださいましね?」
 リーダの気遣わしげな言葉。
「さて、それは相手次第といったところだな」
 言って、くるりと身体を一回転させてリーダから離れてみる。
「まぁ、善処するとしよう」
「はい、お願いいたします」
 少しだけ離れたリーダを見る。微笑みを苦笑に変えていた彼女は、そんなあたしを見てもう一度笑う。
「……それにしても、このベッド、二人でも全然余裕があるなあ」
 両手を広げて天井を眺めながらあたしは言う。
 そうしてみても、ベッドの端に指先が届きもしない。特注品ならではの大きさ。
「何人で寝てもゆったりと眠れそうですね」
 リーダもあたしと同じように、手を伸ばしてベッドの大きさを確かめている。
「ベッドメイクは大変ですけれど、実際に横になってみると、とても良い寝心地で御座いますね、御嬢様」
「だろう? でも、あたしが一人で使うにはやっぱり大きすぎるんだよ、これ」
 使い心地は文句の付けようがないし、何代かに渡って使われてきたものを、ただ大きいからなんていう理由で使わないのもどうかと思うので、そのままにしていたけれど。
「……だ、だからさ。たまにはリーダも使って良いんだぞ?」
「あら。てっきり私は御嬢様が一人が寂しいからだとばかり……」
 くすりと、リーダにしては珍しいいたずらっぽい微笑みを浮かべる。
 何もかもお見通しですと、言わんばかりの表情に、ついつい反論してしまうあたし。
「ち、違うってば! あたしは一人でだってちゃんと寝れるんだ!」
「ええ、良く存じております。ですが一つ、欲を言わせていただけるのなら、もう少し朝に強くなっていただきたいのですが?」
 痛いところを突いてくる。
「……う」
 言葉に詰まるあたしにリーダが言う。
「冗談で御座います。そんな御嬢様を見るのも、私のささやかな楽しみで御座いますから」
「……そんな意地悪言って。リーダ、もしかして、楽しんでない?」
「いえいえ、滅相も御座いません」
 口元に手を当てて、おかしさをこらえきれない感じでリーダが笑いをこぼす。
 まったく……。あたしはいつまで経ってもリーダには頭が上がらないんだな。
 内心苦笑し、そんな風に思う。
「さあ、御嬢様。肝心の明日に寝坊されては私も困ります。そろそろお休みになりませんか?」
「だから、寝坊なんてしないわよ」
「はい。お早いお目覚めを期待しております」
「もう、それは良いってば!」
「はい」
 嬉しさに弾むような声で返事をするリーダ。
 今ひとつ釈然としないところはあるけれど、これ以上の問答をしても、多分あたしが墓穴を掘るだけだと思い、諦める。
 あたしは、離れてしまったリーダとの距離を一息に詰める。
 いつも一緒にいるけれど、これだけ近くでリーダの体温を感じたのは何時以来だろう?
 だからだろうか。少しだけ、欲が出る。
 あたしはそっと手を伸ばし、見えないリーダの指先を探す。触れる。
「御嬢様?」
「……ごめん、リーダ」
 少しだけで良いから触れていたい。触れていてほしい。
 あたしより僅かばかり低い温もりを指先でなぞる。くすぐったげに震えたリーダの手のひらが、あたしの手を包み込む。
「……あ」
「謝らないでください。そして、怖がらないでください。私にとって、こうやって御嬢様と昔のように過ごすことができるのは、懐かしい以上に嬉しくもあるのですよ? それに、主人に仕えるメイドとして、こうして頼られることは、何よりも誇らしく思えるのですから」
 リーダは言う。その言葉には何の迷いも恐れもなく。ただ、彼女の誇りのままに。
「……うん」
「ですが、どうしても我慢できなくなったときは、遠慮なく言ってくださいましね? 私の主人である、凰華女学院分校理事長の風祭みやび様ではなく、私の良く知るみやび御嬢様として。そのときは、私もただのリーダとして、御嬢様をお支えしますから」
 これ以上の優しさは、きっとあたしを駄目にしてしまう。
 自分からリーダの優しさを求めてしまったくせに、彼女のその言葉に溺れてしまうのが怖くなる。
「うん。でも、大丈夫。明日からはきっと大丈夫だから」
 あたしは強く在らねばならない。理事長として、風祭の息女として。あたしに求められる何もかもを受け止め、背負い、そしてなお笑っているくらいの強さを持たなければならない。
 だから、弱い自分を見せることはもう止めよう。あたしに。あたしだけに、ここまで尽くしてくれるリーダの誇りを汚さぬよう、彼女の主人として恥ずかしくない自分になろう。
「御嬢様……」
「あたしは、絶対に……」
 続く言葉は胸の中に。あたしが自分自身に立てる誓いだから。
 夜が明ければ、また新しい一年が始まる。
 後悔の残る時間にだけはしたくない。あたしに残されたチャンスも多くはないのだから。
 あたしの言葉に返事をしないリーダを、安心させるために、もう一度笑ってみせる。
 さっきよりも、少しだけ、自然にできた気がする笑顔。
 リーダはそんなあたしを見て、ほんの一瞬、複雑な表情を浮かべた後、諦めたように嘆息。それからいつものように微笑んで。
「はい」
 そう、短く答えた。
 まだ、何か言いたげな雰囲気のリーダだけれど、あたしは彼女が次の言葉を紡ぐ前に、逃げるように会話を終了する。
「それじゃ、お休み。リーダ」
 求めておきながら、当たり前のように与えられた優しささえも、素直に受け取れない自分の不器用さを歯がゆく思いながら、あたしは目を閉じる。
 あたしの隣で、手を握り続けてくれているリーダは、何も言わずに、あたしを抱きしめるように、包み込むように、身を寄せてきた。
 広すぎる寝台で、たった二人で身を寄せ合うあたしたちは、雨に濡れて行き場をなくした小さな鳥のようで。
 あたしに残された、たった一つの確かなものは、すぐ近くに感じるリーダの暖かさで。
 そんな、全身で感じるリーダの温もりに溶かされるように、あたしの意識はゆっくりと眠りへと落ちていく。
「――お休みなさい。……」
 意識が闇に染まる前。
 リーダがあたしを呼んだような気がしたが、それを確かめることはできなかった。

§

「……良し」
 あたしは椅子に腰掛け、机の上に広げられた、始業式の理事長挨拶の原稿を何度か読み直し、最後のチェックを済ませる。
 問題はない。
 ここに書かれていることは、凰華女学院の理念であり、教育方針であり、そしてあたしの目標でもあるのだから。
 だが、あたしは原稿を読み上げながら感じていた、ほんの僅かの懸念を払拭できないでいる。
 昨日の殿子の言葉が。
 リーダとの会話が。
 そして、あたし自身が心の中で思い、感じた様々なことが、影を落としているのだろうか。
 漠然とした不安は、はっきりとした姿は見せないまま、窓から見える曇天のように、あたしの中を覆っているように思える。
 翳った空を雲が早く流れている。
 ときおり聞こえる風が窓を叩く音が、静かな理事長室内にやけに大きく響く。
 春の暖かさを感じさせない空気が、あたしの心を冷やしているかのようだ。
 あたしの他に誰も居ない室内が、無性に寂しく感じられてしまう。
「……いかんな」
 弱気になるな。
 こんなことではいけないと自分を叱咤する。
 ここから始まるのだから。最初から躓いてなどいられない。
 気にするな、余計なことなど考えるのは後回しだ。
 これまで通り、あたしはあたしの仕事をこなすのだ。
 あたしは二・三度、首を振って頭の中の余計なものを追い出そうとする。
 不意に、ドアをノックする音。
「何だ?」
 あたしは顔を上げ、扉の向こうの音の主へと問う。
「みやび御嬢様。そろそろお時間で御座います。講堂の方へお願いいたします」
 答えるメイドの声に、あたしは時計を見やり時間を確認する。頃合いだ。
「分かった。すぐに行く」
「よろしくお願いいたします」
 短く返る言葉を聞いてから、あたしは原稿をまとめて席を立つ。
 さあ、これからだ。
 風祭みやびが、この学院の理事長としてふさわしく在るための、認められるための一年が始まるのだ。
 迷ってなどいられない。
 立ち止まってなどいられない。
 あたしは、前へと進んで行かなければならないのだ。
 ドアに手をかけ引き開く。
 一歩踏み出し、理事長室から廊下へと出る。
 振り返って、ドアを閉める。
 その直前に見えたのは、誰もいない理事長室。
 明かりが落とされた室内には、窓から差し込む弱々しい光だけ。
 広いな。
 中にいるときは感じなかった、そんなことを思う。
 いや、気のせいだ。
 そこにあるのは代わり映えのない見慣れた光景なのだから、今さら何の感慨を抱くというのだ。
 単に薄明かりが見せた錯覚だろう。
 あたしは、そんな気弱な感想を苦笑と共に一蹴する。
 小さな音を立てドアが閉まる。
 前を向いて歩を進める。
 あたしは歩いて行く。
 講堂へと向かって。

 歩きながらふと思った。

 ――そう言えば。
 今日、赴任してくる新人教員の名前は、何と言っただろうか?


このSSはコミックマーケット78にて頒布しました同人誌収録のものを一部修正したものです。

使用した画像はNikos Koutoulas氏による撮影です。

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