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未整理・その他 Archive

“「メリークリスマス」が言えなくて”

“「メリークリスマス」が言えなくて”

 はぁ。
もう、何度目か分からないため息が漏れる。
「こら、何ぼーっとしてるんだ?」
「そーだぜ、先生ぇ。ぼーっとしてんじゃねーよー」
「あ、ああ、ゴメンね」
っと、そうだ。
あたしは彼――花井春樹の差し出したタオルを受け取りつつ、そう答えた。
「周防。あんまりやる気のない姿をこいつらに見せるな。教える側が楽しくな
いと思われちゃ、こいつらだって稽古に身が入らんからな。考え事なら後にし
ろ」
至極もっともな正論だが、やはりこいつに言われると腹が立つことに代わり
はない。あたしだって、身が入らないこともあれば考え事をすることだってあ
る。
もっとも、花井が問題にしているのは、あたしが今、この場における自分の
役割を忘れていることだ。公私混同するな、つまりはそういうことだ。
「ん、そうだね、悪かったよ」
だから、あたしは今回は素直に折れてやる。
いつもだったらむかっ腹に任せてそのまま口論に突入してることだ。少しは
あたしも大人になってやらないとな。いつまでも中学生気分のままだなんて思
われちゃたまらない。
「おっし、お前ら、一休みしたら相手してやっぞ」
「えー、先生ぇ手加減しねーからやだよー」
「そーだよ、オレたち勝てないの分かってるくせに。少しは子どもをいたわれ
よー」
あたしだって、こんな子ども達に本気になるほどバカじゃない。
「ばーか、何甘えたこと言ってんだ。そんな気持ちじゃ強くなれねーぞ? 武
道ってのは身体だけ鍛えればいいってもんじゃねーんだぞ? 強くなりたかっ
たら頭も使え。それに負けたくないって気持ちがなくてどーする。そんなんじ
ゃあたしを負かすなんていつまで経ってもできねーぞ」
「うむ、こいつの言うとおりだ。常に鍛錬を怠らなければ、努力は必ず実るも
のだ。この僕を見たまえ!」
はっはっはっ、とさも自慢げに言う花井。
文武両道・品行方正・質実剛健、でもちょっとバカなこの幼馴染みのことは
とりあえず置いておくとして、
「ほら、じゃいつも通りで行くからね。あたしは攻撃しないから、好きなだけ
攻めていいぞ。あたしがガードできなかったらお前らの勝ち。時間切れならあ
たしの勝ち」
「うし、今日こそは一発当ててやるぜ、覚悟しろ、先生ぇ!」
「あはは、できるもんならやってみな! それじゃ花井、審判お願いね」
「分かった。それじゃ両名、位置に着け」
「おー!」
元気だけは一人前なんだから。
あたしも気を抜いてなんていられないね。
「うっし!」
ぱちん、と軽く両手で頬を叩き、気合いを入れる。
余計なことを考えるな。今は稽古に集中しなきゃ。
あのことで悩むのは今じゃない。
あたしは思考のスイッチを切り替える。
「さぁ、いつでもいいよ!」
気合いを入れたあたしの言葉に、一瞬だけ道場内の空気が緊張感を持つ。う
ん、いつもながらこの感じは悪くない。
「始め!」
開始の合図と同時に向かってきた小さな生徒の突きを捌きながら、あたしは
この緊張感に身を任せていった。

「ありがとうございましたー!」
「ましたー!」
「こら、『ありがとうございました』くらいちゃんと言え!」
「へへへ、またねー、先生ぇ~!」
「ああ、気を付けて帰るんだよ」
「僕のことは無視か!?」
「あ、ハナイもバイバイ~!」
「先生と呼ばんかーーー!」
毎度毎度、懲りもせず同じことを叫ぶ花井。
「花井~、アンタが嘗められてどうするんだよ」
「うるさい」
「さーて、今日の稽古はこれまで、っと」
軽く伸びをして冬の空気を吸い込む。
まだ火照った身体にはこの冷たさが心地よく感じられた。
「そうだな、お疲れ」
「お疲れ」
「さて、それでは僕は道場の掃除をするとしようか」
「あ、あたしも……」
「いや、今日は僕一人で十分だろう。半日しか使っていなかったし」
「え、でも」
「それに言っただろう、考え事は後にしろと。今日の稽古は終わり。後かたづ
けは一人で十分。だったら特に用事もない僕がするのが妥当だと思うが?」
「何カッコつけてんだよ、花井のくせに」
「ふん、気を利かせたつもりだったが余計なお世話だったようだな。それなら
周防一人に任せていいのか?」
「あー、うそうそ、ゴメン、今のなし。ありがと、花井サマ。ありがたくお言
葉に甘えさせていただきます!」
「最初からそう言え。せっかくの人の善意は無駄にするものじゃない」
「悪かったって……」
「うむ」
そう言って花井は背を向けて道場に向かう。
なんか悔しい。
恩着せがましい物言いがカンに障るわけじゃない。こいつはこんな言い方し
かできないけど基本的にいいヤツだ。ちっとばかし熱くなると周りが見えなく
なって暴走しがちなところが玉に瑕だけど、お人好しを絵に描いたらきっとこ
んなヤツになる、と思う。
でも、昔はもっと……。
もっと?
なんだっけ、もっとガキの頃はこいつもこんなんじゃなかったような気がす
るんだけど。
……そんなことはどうでもいいか。
ただ、あたしのことを何でも見透かしたような発言は、やっぱり悔しい。付
き合いはそりゃ、長いけどさ。
「花井」
一応、この言葉だけは言っておこっか。
悔しいけど、気を遣われて悪い気なんてしないから。
「ん?」
振り向くこともなく気のない返事。
「ありがと」
「何を今さら。気にするな」
「うん」
「……困ったときはお互い様だ」

「はぁ~」
疲れた身体にお湯の熱さが染み込んでいく。
「気持ちいいな、と」
思わずそう呟いてしまう。うわ、なんか年寄りくさいぞ、あたし。
お風呂につかったまま、筋肉をほぐす。ふくらはぎから太ももまで両手でマ
ッサージを繰り返し、ほどよくほぐれたら次は両腕。心地よい気怠さについう
とうとしたくなる。
ほとんど日課となっている稽古も、決して楽なものではない。小さい頃から
ずっと続けてきたことだからこそ、甘えで手を抜きたくなる部分もときにはあ
る。でも、その辺は花井と一緒にいる限り許してくれそうにない。自分にだけ
じゃなくて他人にも厳しい性格だから、融通が利かないったらありゃしない。
ぶくぶくぶく……。
はっ!?
湯船に顔まで浸けてあたしななんであいつのことを考えてるんだ!
だいたい、あたしが悩んでいたのはもっと別のこと……。
「あ……」
そう、多分考えないようにしていたこと。
「明日、どうしよ……」
今月に入ってからずーっと考えてきたこと。まだまだ時間はあると思ってい
たのに、その日は目前に迫ってきてしまっている。
ぶくぶくぶく……。
いや、今さらになっても結論が出ないあたしが悪いんだけど。
生きるか死ぬか。
to be or not to be。
え~い、いつまでもうじうじ悩むな、情けない!
こうなったら覚悟を決めるしかないだろ、美琴!
そう、悩んでもしょうがない。
こうなったら当たって砕けろだ!
勢いよく湯船から立ち上がって浴室を出る。
この覚悟が消えてしまわないうちに……。
少しだけ急いで、あたしは着替えを済ませ、部屋へと向かった。

「え……?」
一瞬、我が耳を疑う。
「あ、はぁ……。そうだったんですか」
「ごめんなさいね、美琴ちゃん。せっかく電話いただいたのに」
「あ、いえ、そんなことないです」
慌てて言いつくろう。心中の失望を表に出さないように。不自然に思われな
いように。
「正弘もこんな師走の忙しいときに、わざわざ東京の模試を受けに行かなくて
もいいのに。無理はしないように言ってるんだけど、言うこと聞いてくれなく
て」
「いえ、神津先輩の志望校、レベル高いですから。きっと少しでも本番に備え
ておきたいと思ったんじゃないかと思いますっ」
「そうかしら……」
「はい」
「でも、せっかくお電話いただいたのに……。何か大事な用事なら、あの子に
伝えておくけれど?」
「えっ?」
「ほら、道場のお稽古も行けなくなってしばらく経つし、そっちの関係のお話
なんでしょ?」
「あ、ええ。で、でもいいですっ。そんなに急ぎの用事でもないですしっ」
「そう?」
「はい、ありがとうございました」
「えぇ。あの子には美琴ちゃんから電話があったって伝えておくから」
「すみません……」
「いいのよ。あの子のこともっと鍛えてあげて欲しかったくらいだし」
「はぁ……」
「運動苦手だった割には頑張ってたから、きっと楽しかったんだと思うわ。美
琴ちゃんや道場の皆さんに感謝してるってよく言ってたもの」
「あ……」
「だから、ごめんなさいね」
「いえ、そんな……。それじゃ、すみませんでした」
「また、電話してちょうだいね」
「はい。失礼します」
無機質な切断音が受話器から漏れる。
震える指で電話のスイッチを切る。
「そっか」
確かにその可能性はあった。
「先輩、東京なんだ……」
失念していたのはあたしのミスだ。
何よりも、今まで先輩のスケジュールを確認しようとしなかったうかつさに
泣きたくなる。
……でも。
「でも、クリスマスくらいはこっちにいてくれたっていいじゃねーかよっ!」
八つ当たりは百も承知。
「もうっ、先輩のバカヤロウ」
ベッドにうつぶせになって枕に顔をうずめる。
そのまま枕を抱きしめて、目を閉じた。
どうせ、あたしの気持ちなんて知らないんだろうけど、これは堪えた。
本当に、涙が出てきた。

神津正弘。
生真面目な性格と柔らかな物腰で、とても二コ上の男とは思えないくらいの、
おとなしい先輩。
あたしの高校受験を機に短い間だけど家庭教師をお願いしたことが縁で、な
ぜかウチの道場にまで入門してしまった。
思い返せばホントにムチャクチャな理由であたしが強引に引っ張り込んだん
だけど、イヤな顔もせずに稽古に顔を出したときは正直驚いた。
ゼッタイ長く続かないと思った。あたしも無理に続けて欲しいなんと思って
いなかったし、そもそもあたしの発言自体イライラから来る嫌がらせに近いも
のだったのだから。
でも、結局一年近く、受験のために道場に通い続けることができなくなるま
で、先輩は休むことなく顔を出し続けてしまった。
なんで、って訊いたことがある。
「ねね、先輩? 無理に稽古出なくてもいいんだぜ。学校の勉強だって大変だ
ろ」
「うん、そうだね」
「もともとあたしが強引に入門させちゃったんだし」
「でも、美琴ちゃんの言うことも一理あったし。少しは鍛えられたと思うんだ
けどどうかな?」
力こぶを見せるポーズを取った先輩は気持ちよく笑った。
「まだまだだよー。せめて花井くらいにならないと強そうに見えないよ」
「そりゃ無理だよ。春樹くんみたいになろうと思ったら何年かかるか」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと続ければ強くなるって!」
「う~ん、そうかな」
気弱に笑う先輩の、そんな笑顔があたしは好きだった。

「あ、美琴ちゃん!?」
「先輩、これからよろしくねっ」
驚いた先輩が次の言葉を探しているうちに、あたしは機先を制すべく矢継ぎ
早に言葉を紡いだ。
「あー、でも先輩今年受験だもんねぇ、せっかくいい家庭教師がいたのに、も
うお願いできないと思うと残念だな。ま、分かんねーとこあったら訊くから、
そんときはよろしくね」
「う、うん。あの、美琴ちゃん?」
「何? あたしの制服姿、どー?」
「あ、それは、うん、似合ってると思うけど、その……」
おそるおそるといった感じで、先輩は訊いた。
「髪の毛、切っちゃったの?」
「あー、これ? 別に大したことじゃねーんだけどさ」
まだ慣れない髪型がくすぐったくて、指先で遊びつつ答えた。
ホントは大したことある。だって、髪切ったのだって……。
「どう……、かな?」
「うん、似合ってると思う。大人っぽくなったんじゃないかな」
「へへー、あたしだってもう高校生なんだからね」
先輩に、そういって欲しかったからなんだから。

生徒と先生じゃ、あたしはイヤだった。
本当は女の子として見て欲しかった。
ガサツで全然女らしくないあたしだけど。
先輩には女の子として見て欲しかった。
小さい頃から変えたことのなかった髪型を変えたのだって、少しは女らしく
なれるかと思ったから。
先輩が褒めてくれるのが嬉しかった。
いつからそう思うようになったのかなんて忘れちゃってた。
ただ、先輩と同じ場所で同じ時間を過ごせたことが嬉しかった。

これからも一緒にいられればいいなんて、そんな甘い夢を見ていた。

「え? あ、そうなんだ……先輩やっぱ頭いーね」
東京、か。
「そんなことないけど。でも、勉強したいことがあるんだ」
「へー、あたしはまだ大学受験なんて考えたくないなー。だって、高校受験で
あんな苦労したんだよ? しばらくは忘れさせてよ~」
「あはは……美琴ちゃんなら今からしっかり勉強してればそんなに慌てなくて
も大丈夫」
「えー? あたしこの学校入れたのだって最初は信じられなかったんだよ?
はっきり言ってバカだよバカ」
「ううん、そんなことないよ」
「なんか信じらんないなー」
「大丈夫、僕が保証するよ」
どきり、とした。
まっすぐな眼。
疑いすら入り込む隙のない言葉。
「あ、ありがと」
あたしの方が先輩を見てられない。
自分の気持ちを持て余してしまうなんて、初めての経験だった。
「それじゃ、あたし、次の時間の準備あるから行くね!」
少し朱に染まった頬を見られたくなくて、あたしは先輩の前から逃げるよう
に駆け出していた。

先輩が好き。
あたしには先輩が必要なの。
言いたい。
この気持ちを言ってしまいたい。
こんな苦しい思いさせないでよ。何とかしてよ。
先輩はあたしのことどう思ってるの……?

「──って言えたらどんなに楽か……」
ごろりと半回転して天井を見つめる。
なんだか昔のコトばかり思い出してしまった。
「ホント美琴さんらしくないったらありゃしない」
せっかく意気込んで、覚悟決めて電話したのに、ホント肩すかし。
先輩も家空けるならちゃんと言ってから出かけろってんだ!
明日が何の日か知らないんじゃねーのか?
「あ~……、ありえる。あのヒトなら」
一層、気持ちが重くなった。
「ったくさ、せっかくあたしも気持ちの整理付けて頑張ろうと思ったのに、こ
れじゃ」
一人でバカみたい。
さっきまでの意気込みもどこへやら。
もう、どうでも良くなった。
勝手にしろ!
東京でもどこでも勝手に行っちまえばいいんだ。
人の気も知らないで。
「バカヤロウ……」
その言葉は、あのヒトに対してなのか、それともあたし自身に対してなのか。

自分でも分からなくなっていた。

「やべっ、寝ちまった!?」
慌てて跳ね起きる。
携帯電話に着信通知。
「ん?」
見慣れた名前。
でも、珍しーな、こいつから電話なんて。
とりあえず、電話をかけてみる。何回かのコールの後、
「もしもし?」
「あ、美琴?」
聞き慣れた彼女の声。
「おう、どしたの? アンタから電話なんて珍しーよね」
「そう? ま、それはどうでもいいんだけど。アナタ明日は何か予定ある?」
「うーん……」
「あ、何かあるならいいの」
「まだ何も言ってねーだろ」
「だって、悩むくらいなんだから何かあったんじゃないの?」
何かあるつもりだったんだよ、とは言えない。
だいたい沢近には先輩のことなんて欠けらも話したことねーんだから。
「ん、別に何もねーよ。いつも通り稽古やって午後からはフリー」
「そ、じゃ、付き合えるわね?」
「あ、あぁ、別にいいけど……」
「わたしも予定が空いちゃって困ってたところなの」
「へぇ、アンタん家はパーティくらいするもんだと思ってた」
「いいでしょ、お父様の都合が付かないんじゃパーティどころじゃないもの」
「ふーん」
何とはなしに聞き流して、逆にあたしから問いかける。
「んじゃ、どーする?」
「そうよね……わたしたちだけってのは寂しすぎるわよね」
「あー……、そんじゃこーする? ウチの道場の連中集めてクリスマスパーテ
ィ! 野郎ばかりで悪ぃけど、盛り上がるんじゃね?」
「え?」
あ、少し引きやがった。
前のことを根に持ってやがるな?
「あ、前みたいに絡まれたりはしないと思うから心配しなさんな。ガキどもも
結構いるからやかましいかも知れないけどね」
「それは別に、かまわないけど」
「んじゃ、そーいうことで」
「ええ、じゃ、明日適当な時間にそっち行くから」
「ん」
簡単に答えて電話を切る。
勢いで約束しちゃったけど……。
「ま、いっか」
しょうがねーもんはしょーがねー。
だいたいあたしがいつまでもうじうじしてるなんて気持ち悪いよね。
道場のみんなと過ごすクリスマスだって、決して悪くはないはずだ。
うん、きっと楽しい。
それに沢近だって来てくれる。
お嬢さま然としてるくせに、地は結構あたしに似てる変なヤツ。でもいいヤ
ツだ。
そうと決まれば早速準備をしておかなくちゃ。
どうせだから花井に任せちまおう。
アイツならこういう仕切はうまいだろうし、どうせ道場を借りるお願いもし
なきゃいけない。
花井の携帯の番号を呼び出す前に、先輩の名前が一瞬表示され流れ去った。
「神津先輩もいればよかったのにね……」
あきらめが悪いと思う。
伝えたい言葉があった。
きっと明日なら言えたと思うのに、あのヒトがいないなんて、何かの嫌がら
せみたい。
でも、先輩が帰ってきたら勇気を出そう。
言えるかどうか分からないけど、この気持ちに決着を付けなきゃ多分あたし
はダメになる。
「あ、花井? 今いい?」

ね、直接は言えないけど、心の中だけでも言わせて。
「メリークリスマス」
この言葉といっしょに、あのヒトへの想いを。
「好きです」
ね、先輩。
他には何も要らないから。
そう言える勇気だけ、あたしにください。

──了──

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“「大丈夫だよ」と彼女は言った”

“「大丈夫だよ」と彼女は言った”

「でさ、あたしは別にそういうこと期待してたわけじゃなかったんだけどさ」
「……」
「うそ、ホントはちょっとだけ期待してたかも。あたしだってあの人に子ども扱いされたくなかったから、慣れ
ない化粧だってしたよ。ま、結局ぜーんぶムダだったんだけどね」
自嘲を含んだ言葉を一気に吐きだして、少しだけ沈黙する。
こんなときどういう言葉をかけてやればいいか、わたしには思いつくことができなかった。

“「大丈夫だよ」と彼女は言った”

「ホラ、愛しいあの人に振られちゃった可哀想な美琴さんを慰めてよ」
空元気とも取れるような台詞で彼女はわたしを強引に家へと誘った。
普段はあまり通ることのない道を抜け、目的地へ向かう道すがら、休む間もなく喋る彼女は、やっぱりどこか
違って見えた。
夕闇が下りた路地、皓々とした月明かり。気持ちの良い夜道のハズなのに、彼女の言葉に相づちを打つだけの
わたしには、どうにも居心地の悪い空間に思えた。
彼女の話は今のことから過去の思い出話までとりとめもなく続き、ウソかホントか分からないような昔話にと
きおり苦笑したりした。
だって、あのバカ真面目な委員長が昔はいじめられっ子だったなんて想像できると思う? 彼女も神妙な顔で
その辺は思い出そうとしていたけど、ことの詳細までは語ってくれなかった。
「ミコちゃんて可愛いのに、わたしもそう呼んであげようか?」
「バカ、今さらそんな恥ずかしい呼び方しないでよ」
「そう? 高野さんとかがそう呼ぶ所を想像すると結構……」
「やめてよ、ホントにそう呼ばれそうだから」
何かあるのか心底イヤそうな表情できっぱり否定。そんな彼女の素の表情がおかしくて、わたしは思わず笑っ
てしまった。彼女も表情が和らいで苦笑を浮かべる。
少しだけ。ほんの短い時間だけど。
普段のわたし達に戻れたような気がした。

「ま、アンタの所に比べれば狭くて汚いところかもしれないけど、上がっちゃって」
彼女の言葉が謙遜ということくらいは見てすぐに分かった。入り口から見えた内装は、言うほど汚れてもいな
いし、しっかりと掃除も行き届いているように見える。
「……おじゃまします」
時間が時間なだけに少しだけ逡巡したわたしの心を見透かしたように彼女が言う。
「あ~、気にしないでいいよ、親父もお袋もその辺テキトーだから」
年ごろの娘を持つ両親とは思えない放任ぶりにわたしは軽い目眩を覚える。わたしの知る親娘像とは著しくか
け離れた現実がここにある。
でも、中身と外見の果てしない断絶を感じさせるような彼女の言葉遣いの、原因の一端を見たような気がした。
見てくれはいいのに、そういう部分で損をしてるとわたしは思うのに。それとも、そういうのが好きな人って結
構いるのかしら?
「ささ、こんなとこで突っ立ってないで上がった上がった!」
強引に押し切られるようにわたしは彼女の家に上がり込んでしまった。普段では絶対しないような行動。やっ
ぱり今日のわたしはどうかしてる。
「ただいまーっ! と」
「ちょ……っ」
「おう、美琴、遅いお帰りだな。てっきり朝帰りかと思ったぜ」
「ば、何言ってんだよ、バカ親父。誤解されるようなこと言うな」
「あ? ったく、ちったぁそういう甲斐性でも見せてみろよ……」
「ああ、もう! 友達来てるんだから変なこと言うな。部屋に行くけど覗くなよ!」
「へいへい」
突然の出来事に、わたしはなすがまま。強引に会話を打ち切った彼女は、わたしの手を引いて部屋へ連れ込ん
でしまった。
バツの悪そうな表情で、
「悪ぃね。親父酒飲むといつもああでさ。あたしも嫌いじゃないけど今日はちょっと、ね……」
「あ……」
「ゴメンゴメン、適当に座っちゃって」
クッションを投げてよこし、彼女は部屋を出て行く。
まったく、せわしないのは外でも中でも、ということなのね。
考えてみれば彼女の部屋は初めて。しげしげと見回すのも失礼な気もするが、やはり好奇心が勝ってしまう。
彼女らしい比較的シンプルな、でも清潔感のあるインテリア。女の子らしさはあまり感じないのはやっぱり彼
女の性格なんだろうと思う。わたしだったらこうするのに、とか勝手な模様替えを想像して楽しむ。
でも、まぁ、わたしの部屋に彼女がいたらたぶん今のわたしと同じような気分になるんだろうな。そんな空想
が可笑しくて、少しだけ笑う。
「お待たせっ……と」
おもむろに開けられたドアの音に驚きつつ声の主を見る。
「それは?」
「やっぱこういうときは景気づけが必要でしょ? 親父から拝借してきたさ」
「もう」
「へへへ、でもアンタだって結構イける口だろ? それともビールよりやっぱワインとか洋酒の方が好みだった
? あいにくだけどウチにはそんなシャレたもんないから、我慢してよね」
「しょうがないわね。それで我慢してあげるわよ」
売り言葉に買い言葉よね。彼女と話してると言葉遣いまでうつされてしまいそうになる。荒い感じの言葉遣い。
決して嫌いじゃないけど、あんな言葉遣いはわたしにはできそうもないなぁ。それは彼女に似合う、彼女らしさ
のひとつだと思うし。
つま先で自分のクッションをずらして、向かい合いで腰を下ろした彼女からコップを受け取る。
「ちょっと、そういうのは女としてどうかと思うわよ?」
「あ? いいだろ、家ん中だし、今さらアンタ相手に気を遣うのも面倒だし」
「ま、いいけどね、アナタの好きにしなさいな」
「へいへい。っと、ホラ、注いであげるからコップくらいちゃんと出しなさいよ。全く気が利かないったらあり
ゃしないんだから、アンタは」
「余計なお世話よ。それにどうでもいいけど女二人で酒盛りってやっぱり不健康よね。これっきりにしたいもの
だわ」
「あ~、そうですか。アンタはそうでしょうけど、でもどうせなんだから盛り上がってよ。せっかくいろいろ話
聞いてもらおうと思ってんだから、そんなんじゃその気にならないって」
「誘ったのはアナタでしょう」
「ぐだぐだ言わずに飲め!」
「はい」
ぴしゃり。続けようとした言葉を遮る彼女の勢いに押され、即答してしまう。
「うむ、いい返事です。あたしは嬉しいよー」
「わざとらしい芝居はいいってば。じゃ、乾杯でもする?」
「うんうん、やっぱそれがないとねー」
「ったく、なんでわたし、ついて来ちゃったんだろ……」
「はい、黙れ。……それじゃ」
こほん、とわざとらしい咳払い。
「私(わたくし)、周防美琴の失恋を悼んで」
「……」
「かんぱーい!」
カン、とグラスが高く冷たい音を響かす。
久しぶりに味わったビールは、思っていたより苦かった。

「……ちょっと、さすがに飲み過ぎなんじゃないの? いい加減にしておいた方が」
「うるさい! ……今日くらいはヤケ酒ぐらい飲んでもいいでしょ?」
「美琴」
「いいの、今日はいいんだってば」
「あ、……ごめんなさい」
「なんでアンタが謝るのよ! 久しぶりにあの人に会えるって、あたしが勝手に舞い上がってただけなんだから、
笑ってくれたっていいのよ? そりゃアンタみたいに器用に恋愛できればって思うよ。でもさ、あたしにゃこれ
で精一杯だったんだからしょうがないでしょ」
「起用なんかじゃ……」
「ウソ言わないでよ、デートに誘われたって断ることしかできないあたしから見ればずっと器用じゃない。あた
しなんて、どうせ一緒に遊びに行ったってつまらないんだろうけどさ」
美琴は止まらない。
あたしには止められない。
「今日久しぶりにあってよく分かったんだ。結局あの人にとってあたしなんて単なる生徒だったんだって。家庭
教師と生徒の間柄でしかなかったんだよ」
知らなかった彼女の想い人のことを。
しらふなら決して話すことはなかっただろう彼女の心の内を。
わたしは聞こうとしている。
「キレイな人だったよ、先輩の彼女。考えてみたら、あたしなんて先輩の好みのタイプとか全然知らなかったん
だよね。多分先輩だって、そうなんだと思う。先輩にあたしのこと知ってもらおうって何かしたかなんて思い出
せないんだからさ」
「もう、いいわよ……」
「よくなんてないってば! 結局あたしの好きって気持ちって何だったんだろ? 好きってどういうコトなんだ
ろ? 憧れだけじゃダメなの? 会いたいって気持ちだけじゃダメなの? 同じ学校に通いたいってだけじゃダ
メなの? 先輩のこともっと知ってれば違う未来もあったのかな? あたしのこと、もっと知ってくれてたら、
先輩はあたしを選んでくれたのかな? ねぇ、教えてよ!」
「わたしには分からないわよ、そんなこと」
「教えてってば!」
「美琴、落ち着いて。やっぱり飲み過ぎよ。いつものアナタらしくないわよ?」
「それって、どんなあたしよ!? そんなことではぐらかさないで教えてよ。あたしが先輩を好きになるコトっ
てそんなに無茶なことだったの?」
「……分からないわよ」
「何よ! 人のことさんざんからかっておいて……。結局アンタだって何も知らないんじゃない。何が場数を踏
めばだよ……。何が本命だよ……っ。沢近の方こそホントのあたしも知らないで好き勝手なこと言ってたってコ
トだろ!? 教えてよ、アンタ、経験豊富なんでしょ!? それともこんな子どもの恋愛ごっこには興味ないっ
てコト!?」
「違うっ」
「違わないっ!」
「お願い、もう、止めてよ……。わたしには美琴の気持ちなんて分からないんだから」
「いいから答えてよっ。あたしはあの人を好きになっちゃいけなかったの!?」
「そんなのわたしが知るわけないでしょ!!」
「……!」
知らなかった。
こんな美琴をわたしは今まで知らなかったんだ。
こんな激情をわたしにぶつけるくらい、好きな人がいたのに、その想いさえ伝えることができなかったんだ。
わたしなんかに分かるわけない。
美琴の心の痛みを。
わたしなんかが答えちゃいけない。
美琴の問いに。

胸の奥が痛い。痛い。痛い。痛い。どうして? わたしがどうしてこんな痛みを感じるの?

──本当の、恋なんて、知らないのに──

「そんなの、わたしに答えられるわけないじゃない! 大好きな人がいるだけいいじゃない! わたしの方こそ
アナタが羨ましいわよ。なんでそんなに好きになれるの? そんな素敵な恋なんて、わたし、知らない。全部捧
げたくなるくらい好きになったってコトなんでしょ? 男の子と遊んでたってそんな気持ちになるわけないじゃ
ない!? デートすることと、好きになるコトってイコールじゃないでしょ!?」格好悪い。
なんでこんなコト言ってるんだろ、わたしは。
美琴のこと笑えないわよ。
こんなの、それこそ子どもの恋愛だもの。
でも、許せない。
こんないいコを振ったその人が。
一度失恋したくらいで取り乱す美琴が。
何より。
今の美琴を羨ましく思っているわたし自身が。
ホントの恋すら知らずに恋を語っていたいた、わたし自身が。
「もう、いいでしょ。わたしだって偉そうなこと言えないんだから」
「沢近、だってアンタ」
「そうよ、男の子と遊びに行くなんて普通だもの。別にお付き合いなんてしてなくてもできるでしょ。ただの友
達だもん。勘違いされてもわたしには関係ないコトよ」
ゼッタイ酔ってる。わたしはこんなコト話したいわけじゃない。
美琴の話を聞いてあげなきゃなのに、何を言ってるの?
「一回や二回遊びに行ったくらいで、簡単に言えるのが好きって言葉なの? アナタが好きになった先輩も一目
惚れってヤツなの? そんなの信じられないわ。見てくれだけで好きって言われても全然嬉しくないもの」
「違う……あたしは違うよ」
「だから、わたしには答えなんて分からない。アナタの話を聞くくらいしかわたしにはできないのよ」
ごめんなさい。と何に対してか分からない謝罪が口を突く。ろれつも怪しいのに一気に喋るものじゃない。続
けて大きく息を吸い込んだ。

「ふ……」
「?」
「あ、ははははは……」
「な、何よ?」
「あははははははは」
「美琴、壊れちゃったの?」
「あははは。なんだよ、もしかして、アンタの方がよっぽど子どもなんじゃねーか? 何? あたし、すげー人
選ミス? これだったら塚本の方がよっぽどマシだったかも」
さすがにあのコと比べられてあたしが選ばれないのはシャクに障る。
「な、誘ったのはアナタでしょ?」
「あー、もう、いい。いーって、別にアンタが悪いわけじゃねーよな?」
夜中だというのに声を上げて笑い転げるような美琴に、さすがにむっとなる。
「い、いいじゃないっ。別に。恋なんてこれからいくらでもできるでしょ!?」
「アンタが言っても説得力ないよ、さ・わ・ち・かさん?」
こうも鮮やかな形勢逆転なんてない。
「う、うるさいわねっ。わたしのことなんてほっといてよ! それよりアナタよ! その人の彼女のこと教えな
さいよっ」
「……ど、どうでもいいだろ、もうあたしには関係ないんだから」
「そんなことないでしょ? アナタの方が魅力的だったらまだチャンスはあるはずよ? 同じ学校で会う機会も
増えれば可能性はゼロじゃないでしょ?」
「別にそんなつもりじゃ」
「いいから、さっさと話しなさい」
「別に。きれーなひとだったよ」
「それだけ?」
「うるせーな。あのときは頭ン中真っ白でそれどころじゃなかったんだから」
「そうなの?」
「あぁ、あんなにショック受けるもんなんだなー。知らなかった。……でも、さ。やっぱ自然な感じだったかな。
先輩もずいぶんと雰囲気変わってたけど、あの人と上手くいってるんだって分かっちゃった。そんなんばっかり
分かってもしょうがないのにね」
笑顔で、笑い飛ばすように言う美琴。
なんで、こんな笑顔ができるんだろう。
「ホント、アナタを振る方がバカなのよ」
「もういいって」
「良くないわよ。アナタを振ったことを後悔させてやるくらいの気持ちじゃなくてどうするのよ」
「アンタが言うな」
「あら、言うだけならいいでしょ?」
「お子様の意見なんて参考にならねーよ」
「い、いいのっ。わたしだってそのうち……」
「ふーん、アテはあるんだ?」
にやり、と不適な笑みで迫る美琴。
「え?」
唐突に、ヤなヤツの顔が浮かぶ。
え? なんで?
「図星って顔してまぁ……」
「な、何よ!?」
え?
頭に血が上る。
別にアイツなんて関係ないじゃない? なんであたしがうろたえなきゃいけないのよ?
「そ、そんなのないわよっ」
わたしは認めない。あんなヤツ全然好みじゃないんだから。
わたしに似合う男性なんだから、もっと紳士で誠実で優しくて……。
あー、もう、わたしってばいったい誰と比べてるのよ!?
「ふーん、ま、そういうことにしておいてやるよ」
ぽんぽんと両肩に手を置いて首を振る彼女。
「なんだかすごくバカにしてない?」
「そんなことねーよ。ま、そのときが来たら応援するから、教えろよ、な?」
「ゼッタイ、イヤ」
そう、アイツとなんてゼッタイ、イヤ。

イヤなんだから……。

「なー、別に泊まってったっていいんだぜ?」
何が照れくさいのか、彼女らしくない遠回しな言い方。「今日は泊まってけよ、めんどくせーだろ」くらいは
言いそうなのに。
「ありがとう。でも今日は帰るわ」
これ以上追求されると、多分いろいろ困ることになりそうだし。
「じゃ、途中まで送ってくわ」
「あら、それも結構よ? それにエスコートしていただくなら素敵な男性と相場は決まっていなくて?」
「そんなヤツいねーくせに?」
「何ですって?」
「いえいえ、なんでもありませんよ?」
くすりと、笑う。
「ね、美琴?」
「ん?」
「大丈夫?」
何が、とは訊かない。
陰のない笑顔が見れた。それだけできっと、
「ん、大丈夫大丈夫。悪いね、夜遅くまで付き合わせちゃってさ」
その言葉も信じられると思うから。
「そう、それなら、そろそろ行くわね。お休みなさい」
「あー、お休み。二日酔いにならねーようにな」
「その言葉そっくりお返しするわ」
「はいはいっと」
家に戻ろうとする彼女は、最後に振り返って一言。
「あー、沢近」
「何?」
「お前の方こそ、大丈夫か?」
そんなことは分からない。
わたしはまだスタートラインにすら立っていないかもしれないんだから。
それでも、先を行く彼女の背中は見失いたくないから。
今日みたいなことは、これからもきっとあると思うから。
覚悟を決めよう。
そう、きっと。
「大丈夫よ」
笑顔で、言えたと思う。

「じゃ、次に飲むのはアンタの失恋慰め会ってことで」
「それはお断り」

月が傾き始めるような時間に。
わたしは一人で道を行く。
お酒のせいか頬が熱い。そう、きっとこんな高揚した気持ちはお酒のせい。
素敵な恋ができればいいと思う。
辛い失恋は味わいたくないけど、それはそれでいいかもしれないと思った。
そう、まずは恋を始めよう。
素敵なヒトと素敵な恋を。
「でもね……」
さっきから脳裏を離れないアイツの仏頂面に言ってやる。
「アンタとなんかじゃないんだからね!」
宣戦布告を叩き付ける。
わたしのスタートラインは、もう少し先にあるようだ。

──了──

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きっと明日も

きっと明日も

 明日もいい天気だな。沈む夕陽の光に染められた茜色の雲を眺めながら俺はグラスを傾けた。
「よっ、耕一、なに黄昏てんのさ」
「ばーか、たまには物思いにふけるってのもカッコいいだろ?」
「あんたにゃ似合わないよ」
隣いい、そう訊いて俺の答えも待たずに縁に腰を下ろす。
「こら、あんまり引っつくと暑いだろ」
「ボヤかないボヤかない」
言ってぱたぱたと手扇で俺を仰ぎながら小さく苦笑する梓。
「ね、いつまでこっちにいるんだっけ」
しばらく俺の視線の先を眺めていた梓が不意に訊いてきた。
「ん、今月いっぱいは世話になろうと思ってるけど。鶴来屋の手伝いは結構楽しいし、小遣い稼ぎにもなるしな」
夏の間のバイトを提供してくれた千鶴さんに俺は感謝した。
「千鶴姉も浮かれてるみたいだね。ヘマしなきゃいいけど……」
「足立さんがしっかりフォローしてくれてるよ」
「千鶴姉の手伝いしてないあたしに言えた義理じゃないけどさ」
少しだけ申し訳なさそうに微笑んで梓が言った。
「千鶴さんが手伝ってくれって言ったわけじゃないだろ。大体進学するって決めたのはお前だし、みんなが反対したわけじゃないんだから、今さら気にする必要なんてないだろうが」
「ありがと、珍しいね、耕一がそんなこと言うなんてさ」
鼻を鳴らして俺はグラスの中の麦酒を飲み干す。
「ああっ! 耕一、お前ひとりで何飲んでるんだよっ!」
「って気付けよ、お前も。まだあるけど飲むか?」
傍らにあったビール瓶から残りを注ぎ梓に差し出す。
「あたしはまだ未成年だっ」
「堅いこと言うなって。ほれほれ」
「ったく、少しはいい雰囲気だったのにさ、この酔っぱらい……」
「ん?」
呟いた梓の言葉にとぼけた俺に、
「なんでもないよっ!」
「ぐあっ!」
久々の梓の鉄拳が炸裂した。
§
「てて……」
「大丈夫ですか、耕一さん?」
「大丈夫、お兄ちゃん?」
「耕一さん……」
俺を気遣う千鶴さんたちの言葉が優しくキズに染みていく。
「大丈夫大丈夫……。結構効いたけどね」
「あの子もあれで耕一さんに会えはしゃいでるんですよ」
「千鶴姉うるさいっ!」
「はいはい」
柔らかな姉の表情を崩さずに、千鶴さんが梓の言葉をかわす。
「おー、美味そうだ。梓の料理も去年以来だからなー」
「へへっ、気合い入れて作ったからな。楓も初音もたまには楽できるといいだろ?」
「えへへ。ありがとう、梓お姉ちゃん」
食卓に並べられた料理の数々に腹の虫が騒ぎ出す。
「それじゃ、いただきましょうか」
その言葉の後、俺たちのいただきますの声が綺麗に重なった。
「あっ、それあたしのだぞっ」
「んー、美味い美味い」
「こ、耕一お兄ちゃん、わたしのあげようか?」
「ダメですよ、耕一さん。お肉ばかり食べてちゃ」
「梓姉さん、おかわり」
「もうっ、みんな落ち着いて食べろってっ!」
言う梓の表情は、やっぱりどこか嬉しそうだった。
§
虫の音を聞きながら脹れた腹を休める。懐かしい畳の匂いは多忙な毎日に置き忘れて来た安らぎを思い出させてくれた。
「お兄ちゃん」
障子戸の向こうに小柄な少女の影。
「初音ちゃん? 入って来なよ」
身体を起こし初音ちゃんの座布団を敷く。
初音ちゃんは嬉しそうに俺の向かいに腰を降ろした。
「なんだか久し振りだね。みんな嬉しそう」
「初音ちゃんも元気そうだね。少し、背、伸びたかな?」
「うん、少しだけどね。わたしも成長してるんだよ」
「俺から見たらまだまだ……」
「もうっ、お兄ちゃんのえっち。お兄ちゃんは相変わらずだね」
恥ずかしそうに微笑みながら初音ちゃんが言った。
梓がいなくなって家事が少し大変になったこと。千鶴さんが作った殺人的な料理から楓ちゃんとふたりで逃げ回ったこと。学校のこと。友達のこと。初音ちゃんは俺にいろいろな話をしてくれた。
時間を忘れて話し込む俺たちへ、再び障子越しに声が掛かった。
「あの、耕一さん……。初音もいるの?」
その声に初音ちゃんが驚いたような表情を浮かべた。
「あっ」
「どうかしたの、楓ちゃん?」
「初音に耕一さんを呼んで来るように頼んだのに遅かったから」
「あれ? 俺呼ばれてたの?」
「初音だけ、ずるい」
戸越しに聞こえた楓ちゃんの拗ねた声が可愛くて、少しだけ可笑しくて、俺と初音ちゃんは小さく微笑みあった。
§
「遅かったですね、ふたりとも」
穏やかな口調で千鶴さんが俺たちを迎えた。
「ゴメン、千鶴さん。初音ちゃんとつい話し込んじゃって」
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
「なるほどね、それで楓が拗ねてるんだ」
「そんなことない……」
梓の揶揄に楓ちゃんが小さく声を上げた。
ふと梓の足元を見ると大きな木盥。張られた水と大きな西瓜。
「へー、大きな西瓜だね。向こうじゃなかなか見れないよ」
「先日いただいたものなんですけど。耕一さんもいらっしゃることだし今日食べようってみんなで決めてたんです」
「じゃ、さっそくいただこうかな」
そう言うや否や楓ちゃんが素早く西瓜を綺麗に切り別ける。
「いつの間に……」
呆然と呟く俺に楓ちゃんがおずおずと西瓜を差し出す。
「耕一さん、どうぞ」
「ありがと、楓ちゃんも随分家事が上達したんじゃない?」
「初音と頑張ってますから」
薄く頬を染めながら、楓ちゃんがはにかんだ。
「どうです、耕一さん、久々のこの家は?」
「やっぱりいいですね。自分の部屋よりも落ち着きますよ」
嬉しそうに笑うみんなの顔を見て、ふと思い付きを口にする。
「あ、いきなりですが明日バイト休ませて貰っていいですか?」
「え、ええ? 一日くらいなら構いませんよ」
「じゃ、梓、釣りにでも行くか? 道具一式残ってるだろ?」
いいね、と言う梓の言葉に、いろんな言葉が重なる。
「楓ちゃんと初音ちゃんも一緒に行こうか。って、拗ねないでくださいよ千鶴さん。千鶴さんの休みにはちゃんと付き合いますから」
ひとり頬を膨らませる千鶴さんに俺は慌ててフォローを入れた。
約束ですよ、千鶴さんの少し恐い微笑みに俺は引きつった笑顔で答え、それを見た梓たちが一斉に笑い声を上げた。
きっと明日もいい天気だな。
満天の星の瞬きの下で、俺は手に持った西瓜を口にした。

-了-
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~はじまりはきみのうた~

~はじまりはきみのうた~

桜が芽吹き始める季節。
降り注ぐ陽射しは今年になって一番の暖かさを。
初春の風はわたしの髪をゆるやかになびかせて吹き抜けていきました。
物心付いてから十数度目の春がもう少しでやって来ようとしていました。

わたしはこの時期になると不思議とある場所に足を運びたくなってしまいます。
それはこの時期に訪れるのはあまりに似つかわしくない墓石の並ぶ土地だったり。
わたしが過ごした学校だったり。
『どうして?』
そんな疑問が浮かぶよりも、その場所から見る様々な風景が、感じる風が、陽光の暖かさが、わたしの心を捉えて離さないんです。
中学校の頃からずっと一緒の学校でお勉強してきた友達は、そんなわたしを少しおかしそうに笑って、でも時間が許せばわたしに付き合ってくれたりしていました。
きっと何か大切なことがあるのに、それを思い出せない歯がゆさを感じながら、この場所にやって来るんです。
一年ぶりに訪れたかつて母校は、変わらぬ様子でわたしを受け入れてくれるようでした。

最初はこの学校に進学しようと思って受験に訪れたときのことでした。
この校舎を見た時、無性に懐かしい感慨に包まれたことを覚えています。
既視感とでも言うのでしょうか?
実際にこの場所を訪れたのは初めてのはずだったのに、ずっと以前からこの風景を見慣れていたかのような錯覚を覚えました。

進路選択の際に調べたときに進路指導の先生に伺ったところ、随分と伝統のある学校のようで明治の時代から続いていた名門だったそうです。
開設当初は女学校、そして共学となってからもこの街では知らない人がいないくらいの。
この学校を受けよう、そう言ったときは先生も驚かれたようでした。
成績は悪くはなかったとはいえ決して勉強を得手としたわけではありませんでしたから。
それでも、普段のわたしからは想像もつかないような熱意が伝わったのでしょうか、先生もわたし次第だと最後には仰ってくれました。
季節の移り変わりを忘れるくらいに勉強に打ち込んだのは初めてのことでした。
ひと並みの自由な時間を惜しむように受験勉強に注ぎ込んで、ようやくこの学校に訪れたときのことでした。
『あれ……?』
『どうかしたの?』
『何だかこの学校見たことがあるような気がして』
『それって学校にあった資料とかじゃないの? 普段からぽーっとしてたけど今日はいつになく変だよ? 緊張してるの?』
『うー』
短く唸るように彼女に答えたわたしを、おかしそうに笑いながら、
『うそうそ、でもそんなこと今日は気にしちゃダメだって』
名残惜しそうに校舎を見上げるわたしを彼女は強引に引きずりながら校舎へと向かっていきました。
校舎ごしに見えた空は、どこまでも青く青く、それまで見たどんな空よりも澄んでいました。
涙が出そうなくらいの心の奥底をさざめかせるような懐かしい、そんな青さでした。

§

その場所を訪れたのは小さな偶然だったと今でも思います。
あるいは気付かないうちにわたしの周りで生まれていたそんな偶然には小さな小さな必然が散りばめられていたのかもしれませんけど。
誰が植えたのか分からないけど、立派な桜があると聞いたのは入学して数日が過ぎた頃のことでした。
クラスメートたちはみんな適応性が高くて、今までにないくらいの早さでわたしもみんなと打ち解けていきました。
わたしと一緒に受験した彼女とは残念ながら離れ離れでしたが、良くわたしの教室へ遊びに来ていましたし、生来の人懐っこさからか別のクラスなのにまたたく間に馴染んでしまいました。
そんなある日のことでした。
『ね、聞いた?』
『?』
何のことか分からないという表情を作ったわたしに、
『ほら、あの桜』
『あぁ、あの立派な……』
『うん、そうそう』
『あの樹がどうかしたんですか?』
『なんかね、出るんだって』
『は?』
『いや、誰も見たことないんだけど出るんだってさ』
好奇心を抑えきれない、そんな笑顔でぐいぐいと詰め寄る彼女にわたしはわずかに椅子を引きながら苦笑を浮かべました。
『だから、ゆ・う・れ・い』
一言一句をはっきりと話しながら、このご時世に似つかわしくない言葉にわたしは引き続き苦笑を浮かべていました。
『あ、信じてないでしょ?』
『誰か見たんですか?』
何故か意固地にその噂を否定したい自分がいました。
『う~ん、それがね、噂だけなんだよね~』
困ったように眉根を寄せながら彼女が言葉を続けました。
『それがね、一番最初に出たのはもうずっと前なんだって』
聞けばそれはわたしの年齢の何倍にも値するくらいの過去の話。
『それから何十年かしてね、また出たんだって。その時はすぐにいなくなっちゃったらしいんだけど……。でね、今年くらいがその周期を考えると怪しいって、もっぱらの噂だよ』
突飛な話でした。
そんな彗星みたいに何年に一回現れるなんて幽霊がいるなんて普通は考えません。
『ね、ちょっと行ってみない?』
『え?』
『じゃ、今日の放課後あの樹の下でね』
返事も待たずに彼女はわたしのクラスメートに手を振りながら教室を出て行ってしまいました。
『……』
普段なら一笑に伏するようなありがちな七不思議の類い。
でも、気になりました。
それがこの学校の至る所で感じる奇妙な懐かしさと関係があったなんてそのときは思ってもいませんでした。

風がそよいでいました。
青々とした若葉と桜の蕾。
風に抱かれながらわたしは樹の幹に身体を預け目を閉じていました。
闇。
そして見知らぬ手と冷たいような暖かいような不思議な温もり。
それはわたしであってわたしでない、奇妙な感覚でした。
白日夢のような非現実に満ちた感覚でした。
懐かしさと寂しさ、悲しさと嬉しさが入り交じったような、今まで感じたこともないような感覚に囚われていました。
『……ね……ば』
どこか遠くで聞こえるような声がわたしを現実に連れ戻しました。
『ねえっ!』
『……あ?』
『どしたの、ぼうっとして? こんなとこで立ったまま寝ないでよね、あたしが恥ずかしいんだから』
『え? あ、わたし……?』
『まったく、ちょっと遅くなったから急いで来たら気持良さそうに寝てるんだもん』
頬をぷっと膨らませて拗ねた口調で。
『でも、いい夢見てたのかな?』
『え?』
『なんか幸せそうだったから、ちょっと起こすの悪い気がしたんだよ』
『あ、ありがとうございます』
『ふふ、変なの、お礼なんて』
『あ……』
思わず口を突いて出た言葉にわたしは頬を染め俯いてしまいました。
『これだね、噂の桜って』
『そうみたいですね』
『ふ~ん、確かに随分と古くに植えられた樹みたいだけど、別におかしなところなんてないよねぇ』
訝しげに樹を見上げて、辺りをちらちらと見ながら観察を続ける彼女が、あるところで視線を止めました。
『ねえ、これって……』
『え?』
『ほら、見て見てっ』
少し興奮気味にわたしを手招きし、わたしもそれに応じて彼女の隣に立ちました。
『あ、これって、石碑?』
『そうみたいだね、誰も手入れしてないから苔むしちゃって気付きにくいけど』
『……』
『あ、ちょ、ちょっと?』
わたしは無言でその碑の表面の苔を削り取りました。
『なんて、読むのかな?』
後ろからぽそりと彼女の声が聞こえました。
もう、字もほとんど読みとれないくらいに古ぼけた碑文。
でも。
『近……衛』
『え?』
わたしがその文字を指でなぞりながら呟いた言葉に彼女は小さな驚きの声をあげました。
『……柚……』
『それが、幽霊の名前なのかな?』
わたしは無言で肯定を表しました。
『で、でも、なんで?』
『……?』
『あたしが聞いた話じゃ、その幽霊ってそんな悼まれるような亡くなり方じゃなかったってみんな言ってたよ?』
『……』
それは喜劇のような最期。
きっとマンガとかだったら笑いのネタにされてしまうような。
『食べ過ぎて柵を壊して転落なんて……随分変な最期だったって』
『きっと、その噂が間違ってるんですよ……』
『え、ちょ……分かるの? なんて書いてあるのか?』
『なんとなく、ですけど』
少なからず動揺を隠せない彼女を無視してわたしは碑に彫り込まれた文をなぞり言葉を紡ぎました。
悲しい物語の結末を自らの手で演出した彼女の話を。
『……』
ただ沈黙だけ。
そして。
隠された事実を伝えるひとがどうしていなかったのか。
わたしはなぜか分かった気がしました。
『忘れてほしかったんですね、きっと』
『え?』
『だから、その噂が広まったけど誰も否定しなかったんですよ』
わたしの口から漏れた言葉は誰の言葉だったのか。
『でも、忘れられるのは悲しいですよね……』
『……』
『きっとこのひとは忘れてほしかったけど、忘れられるのが恐かったんです。だからこの樹も、この碑もこのままなんですよ。このひとがいたという証としてずっとこの場所で全てを見つめ続けてきたんです。長い時間、ずっと』
『みんな知らないんだね、このこと』
『それがきっとこのひとが望んだことなんですよ』
『……かわいそう』
『だからわたしが覚えます。彼女のことも、彼女が好きだったひとも、温もりも思い出も』
『それってどういうこと?』
『分かりません、でも、わたしは忘れちゃいけないんです』
『そっか』
『はい』
静かに、風が流れました。
梢の揺れる音が優しく流れていました。
『ねぇっ、みんなに教えようよ、このこと。きっとここに眠っているひとも喜ぶんじゃないかな?』
名案とばかりにわたしの肩を揺する彼女に、わたしはゆっくりと首を横に振りました。
『もういいんですよ。この場所がこうなってるっていうことはきっと……』
『そ、そう?』
『きっと浮かばれていますよ。だからわたしたちだけが忘れなければいいんです』
『……うん。よく分かんないけどそう言うならそうしておくよ』
『ありがとうございます』
『だからお礼は変だって』
『あ……』
その言葉に、わたしはもう一度俯くしかありませんでした。

§

『もう、最後だね、この樹を見るのも』
『……そうですね』
三年間はあっという間でした。
勉強も、部活動も、きっとひと並みに充実した時間だったと思いました。
卒業証書を納めた筒を抱えながら、袴姿のわたしたちは万感の思いでこの樹を眺めました。
『ねぇ、結局誰とも付き合わなかったね』
『もう、そればっかり……』
からかい半分の言葉にわたしは小さく視線を逸らして答えました。
『ね、どうして? あんた、ちょっと変だけど、美人だし付き合いたいってあたしに言ってきた連中いっぱいいたんだよ、勿体ないな~』
『どうしてでしょうね? 勿体ないと言われればそうかもしれませんけど』
『でしょ? なんでだろうね? 少しはあたしに回してほしいくらいだったのに』
ぶーたれる彼女を羨ましく思いながら、
『なんとなく、ですよ。わたしが好きになれそうなひとがいなかっただけです』
『ふーん、で、あんたのタイプって結局不明のままなんですけど~』
『あ……』
『さあさあきりきり白状しなさいな』
芝居がかった口調で愉しそうにわたしに詰め寄る彼女。
『い、言わないとだめなんですか……?』
『ダ・メ』
きっぱりと言われてしまいました。
『うー』
『今日くらいは言いなさいよ、ずっと気になってたんだからね』
気持ち真面目な口調で問い質す彼女に。
『約束したんですよ』
『誰と?』
『覚えてません。いつだったのか、昔のようだけど、ずっと忘れていたような気もするんです』
『変なの……』
そうですね、と少し苦笑して、でも、と言葉を繋ぐ。
『きっとそのひとじゃないとダメなんです』
『って、どこの誰かも分かんないんでしょ? 顔は? 名前は?』
『分かりません』
にっこりと笑顔で答えました。
『はぁぁ~~~~』
思いっきり呆れたようなため息に、わたしも少しだけご機嫌斜めになりました。
『うー』
『あんたがそんな少女趣味だったとはねぇ。もっと早く気付くべきだったわ』
『そんなことないですよ』
『だってそうでしょ? そんな誰かも分からないひと待ち続けたら売れ残っちゃうわよ!』
『売れ残りって……』
『で、そのままひとり寂しい老後に突入しちゃうわよっ? いいの? それでもっ?』
『でも、わたしは……』
『……』
じっとわたしを見つめる視線が。
ふ、と柔らかくなりました。
『な~んてね、まぁ、あんたらしいわよ、やっぱり』
『は?』
あっけらかんとしたそんな言葉にわたしは拍子抜けした返事をしてしまいました。
『あんたの場合、どっか遠くを見てる感じがしたからね~、理由がそんなんだとは思わなかったけど。見た目も古風だけど、中身も古風だったとは』
からからと笑いながら彼女が背を向けました。
『ま、あんたならきっといいひとと逢えるよ。あたしが保証するから、ね』
『あ、ちょっと』
『ほら、あたしも彼氏待たせてるから、そろそろ行くね』
『あ……ごめんなさい』
『いいっていいって』
ひらひらと手を振りながら彼女が言いました。
『じゃ、ガンバんなさいよ』
わたしはその言葉に、ただ笑顔で答えるだけでした。

§

あれから一年。
「もう、一年……」
こっそりとわたしはこの樹を訪れていました。
本当にいいお天気です。
卒業してからずっと、大学の方が忙しくて、なかなか訪れる機会がありませんでした。
今日は講義の休講を口実にして、やって来たんです。
本当は午後の講義があるんですけど、今日くらいは大目に見てください。
随分と汚れてしまった碑石に水を掛けて簡単に掃除をします。
やっぱり誰もここには気付かないんでしょうか?
少し寂しい気がして、わたしは一生懸命碑を磨きます。
桜が咲くにはもう少し時間が掛かりそうです。
蕾をつけ始めた大きな樹は何事もなかったかのようにわたしを見おろしています。
そっと樹の幹に手を触れてみます。
不思議な懐かしさを与えてくれるこの桜の樹に。
なんなんでしょう?
記憶のどこかにしまわれている大切な思い出があるはずなのに。
そのことしかわたしには分かりません。
その思い出がなんだったのか。
温もりと幸せを与えてくれたひとが誰だったのか。
ひとりでいる寂しさが、この一年とても大きくなりました。
この樹と離れたせいなのか。
どうしてこんなに心が安らぐのか、誰か、教えてください。

気持ちいい風です。
青い空に吸い込まれそうです。
「……」
ちょっと辺りを見回します。
誰もいないのを確認して。
ゆっくりと口ずさみます。
ずっと忘れていた唄を。
「うーうーうーうーうううー」
ずっと彼女に『人前で唄っちゃダメだよ』なんて言われてましたけど、今日は唄いたいんです。
「うーううううううー」
心の底から浮かんで来るメロディを、不器用だけど音にして風に載せます。
詞のない唄。
伴奏も何もないけれど、わたしだけの大切な唄。
――がさがさっ
突然聞こえた葉擦れの音にわたしは身を固くします。
「あ、誰……?」
恐る恐る、音の聞こえた方向へ問い掛けます。
「どこかから首を絞められているような苦悶の声がッ!?」
聞こえた返事は返事とは程遠いものでした。
「……あれ?」
ひょっこりと顔を覗かせたのはわたしより少し年下くらいの男の子でした。
生徒さんでしょうか? 見慣れていたはずの制服姿が、少しだけ新鮮にわたしの目に映りました。
彼はばつが悪そうに頭を掻きながらわたしの元にやって来ます。
「……うー」
「今の唄、あんたが?」
恐る恐る、といった感じで彼が訊いてきます。
「……そうです」
そう答えたわたしに、彼は一転して破顔して、
「びっくりした、噂の幽霊かと思った」
なんて、失礼なことをいけしゃあしゃあと言います。
そんな態度に少しだけムッとしたわたしは、不満げに彼を睨みます。
「うー」
「あ、そ、その悪かったって」
「……」
「あ、あのさ……」
しどろもどろになる彼の姿がおかしくて、
「うふー」
わたしは我慢できず笑ってしまいました。
「うわッ」
後ずさる彼を見てわたしはくすりと小さくもう一度笑います。
「あなたは?」
「ん、ちょっと懐かしかったから、この場所が」
「え?」
「ほら、この碑石、あんただろ、いっつも掃除してたのって?」
「あ、はい……。でも、どうしてわたしだって?」
「ん~、なんでだろ。ただ、さっきの唄聴いたらそんな気がしてさ」
屈託なく笑う彼の笑顔に。
なぜが涙が零れそうになりました。
「ほら、この碑の伝説って結構悲しいだろ? 遠くからだったけど、ここ、たまに見てたんだ」
そう言って少しはにかみながら、
「いつも誰かいたけど、あんただったんだ」
彼が樹を懐かしそうな視線で見上げます。
誰かと被るようなその仕草と横顔に。
一瞬、何かが浮かびました。
学校。
空。
小さな女の子。
人形。
青。
夜。
そして。
優しい笑顔。
暖かな背中。
「あ……?」
「な、なんでッ!?」
「あ、あれ……?」
「泣かしたッ、俺が泣かしてしまったのかッ!?」
「ご、ごめんなさい」
慌てて涙を拭いながら、
「なんだか、懐かしい感じがしたから……」
「え?」
少しずつ蘇る懐かしい記憶。
思い出の中の面影。
違うけど。
やっぱり、そうなんだ。
約束って、願ってれば守られるものなんですね。
「あの、名前、訊いてもいいですか?」
わたしは覚えてます。
だから分かります。
あなただって。
ねぇ、志郎君。
「あ、別にいいけど」
ちょっと照れ臭そうに、彼が口を開きます。
「あっ、待って」
「?」
「やっぱりわたしから名乗りますね」
「あ、うん」
思い出さなくても、きっと分かってくれると思うから。
わたしのこと。
昔のわたしのこと。
ずっと巡り逢うことを夢見て、そして願いが叶って。
だからこれからはわたしが。
もう、離れないでいて、いいですか?
「わたしは……」
ねぇ、志郎君?

-了-
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