FORTUNE ARTERIAL ~たとえば淡雪に刻む足跡のように~

『FORTUNE ARTERIAL』より、千堂伽耶誕生日記念の SS です。

性描写が含まれますので、18禁扱いです。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。

bookreader.js 版も同時に公開しています。こちらの方が見やすいと思いますので、PC環境の方はぜひお試し下さい。

たとえば淡雪に刻む足跡のように

 夏の暑さとは無縁に思える場所があった。
 伽耶の私室。
 私は彼女の隣にいた。
「……っく、ぅぇ……」
 ただただ泣き続ける少女のような吸血鬼の隣に。
 自らの寄る辺を失ってしまった彼女は、今まで積み重ねてきた二百五十年余りの時間に押しつぶされようとしているのかもしれない。
 誰か、教えてほしい。
 私に何ができる?
 今になって手のひらを返したように、慰めの言葉を与えてやればいいのか?
 それとも、彼女の非道を誰よりも知るものとして、さらにその傷を深めてやればいいのか?
 誰か、教えてほしい。
 恐れられ、忌まれ、避けられ、忘れられてきた彼女という存在に。
 私はこれからどうやって接すればよいのか。
 それは、これから私が見つけていかなければならない答え。
 けれど、私は戸惑っているのだ。
 こんな、子どものような彼女の姿に。
 こんな、言葉をかけることすらためらわれるような弱々しい彼女の姿に。
 だから、誰か、教えてほしい。
 私はどうすればいい?
 誰か、教えてほしい。
 伽耶はどうすればいい?
 自身の罪を自覚し受け止めるには、あまりにも幼い心しか持たない彼女はどうすればいい?
 これまで犯してきた罪をどう贖えばいい?
 誰か、教えてほしい。
 けれど。
 その問いに答えてくれる誰かなど、この場にいようはずもなかった。
 ただ伽耶の漏らす嗚咽だけが、この部屋に響いていた。

§

「……落ち着いた?」
「……」
 小さく頷く伽耶。
 幼い容姿と不釣り合いな古めかしい言葉遣いで、私の主の小さな吸血鬼は言った。
「済まぬ」
 何に対して謝っているのかも分からない伽耶の言葉。
「……何が?」
「……済まぬ」
 そう繰り返す伽耶の姿は壊れてしまった人形のよう。
「私に謝られることなんて……ないとは言わないけれど、構わないのよ? 私は気にしていないのだから」
「しかし……」
「実際、私に謝られても、私はあなたを赦すことなどできない。その資格もない」
「桐葉、けれど、あたしは」
「伽耶」
「……う」
「伽耶、聞いて。……あなたは私に対して謝って、それで満足なの?」
 びくり、と小さな身体をすくませ、伽耶が私を見る。
「そ、それは」
「今さら、あなた自身がこれまでに行ってきた、取り返しようのない罪に気付いたからといって、私に赦しを請うの?」
 すでに彼女を赦すことができる人間など、数えるほどしかいないというのに。
「しかし、桐葉、あたしはっ」
 伽耶は何に対して赦しを請うているのか。
 分からないのだろうか、それとも、分かろうとしていないのだろうか。
「今さら、どんな顔をして謝れというのだ」
「それを決めるのは伽耶、あなたじゃない。決めるのは、あなたが謝るべき誰かよ」
 すがるように言葉を続けた伽耶に、私は静かに返す。
「……っ」
 絶句。
「だったら! 桐葉よ、あたしはどうすれば良いのだ!?」
 そして叫び。
 それは、今まで私が相対してきた彼女からは想像もできない姿だ。
 悲痛さを滲ませ、得ることのできない答えを、それでも求めようとしている。
「あ、あたしがっ!」
 その小さな身体に背負うには、あまりに重い業。
 戯れにひとを弄び、人生を、命を奪ってきた伽耶。
 誰も望まぬ、数え切れもしない、おのれのための餌として彼らを搾取し続けてきた伽耶。
「あたしが今まで望んできたことも、為してきたことも、何もかもが間違っていたというのに!」
 彼女が求めていたものは、本当に小さな幸せだったはずなのに、そんなものさえ手にすることもできず、たったひとりで長い時間を過ごしてきた伽耶。
「今さらあたしに何ができる!? 答えろ、桐葉!」
 父親の愛情しか知らず、最後に交わした約束に縛られ、頑なに守り続けてきた伽耶。
 けれど、彼女の想いが純粋であったがゆえに、心が幼かったがゆえに、伽耶は自らの過ちを、今の今まで真正面から向き合うことがなかったのだ。
 それは、二百五十年分の罪。
 彼女の身で、心で、背負うには、重すぎる罪。
 そんな無自覚に積み重ねてきた過去の重みが、今の伽耶を苛んでいる。
 どうしようもなく焦がれ、どうしようもなく間違い続け、そして、ようやく今になって伽耶が求め続けていたものが手に入れられたというのに。
「頼む、桐葉。答えてくれ……。あたしは……。あたしは、どうすれば良いのだ?」
 あるいは、ならばこそ、なのかもしれない。
 奪い続けてきたものの尊さを知り、だからこそ、その罪深さに恐れ、遅すぎる後悔をしている。
「償うことなどできない。奪ってしまったものを返すことなどできない。殺めてしまったものを生き返らせることなどできるはずもない」
 それが、伽耶の罪。
「どうすれば贖える? どうすれば赦される? ……あたしが生きている、そのことが罪なのか? 家族を得ようなどと、そう願うことさえ赦されはしなかったのか? 彼らはどうすればあたしを赦す?」
「伽耶……」
 伽耶の懺悔と懇願に私はもう言葉を返すことができないでいる。
 ならば、こうして伽耶の問いに答えるすべを持たない私は、この長い時間の中で彼女を救うことさえできなかった私は、何をもって赦されるというのか?
 まだ、ひとであった頃の記憶は、薄れかけてはいるけれど私の中に確かに残っている。
 あのとき、あんな形で、私たちの関係が変わっていなければ、こんなことにはならなかったのだろうか?
 私と伽耶。今はもう歪んでしまった私たちの関係は、私たちのどちらが悪いわけでもない。ただ、お互いが望み、それ以外に何も持たなくなってしまった私たちが、生きていくために結んだ約束であり契約でもあった。
「ごめんなさい、伽耶」
 だから、伽耶が罪人であるというのなら、その罪は等しく私にも背負わされるべきものだ。
 伽耶を孤独にさせまいと願っていたはずなのに、結果として彼女をここまで歪めてしまったのは私なのだから。
「なぜお前があたしに謝る!? 誰も彼も悪くなどない。悪いのはあたしだけであろう!? それに、桐葉。お前があたしを恨んでいないなど嘘だ。本当は憎いのであろう? 恨んでいるのであろう? いや、殺したいのであろう!?」
 違う。それは違う。
 そんな答えを出すことなど、誰も望んではいない。
「伽耶っ!!」
 止めて。それ以上言ってはいけない。
「五月蠅い!!」
 彼女は止まらない。
 絶望にその血色の瞳を曇らせ、再び涙をあふれさせ、伽耶は叫び続ける。
「ははっ……。あたしに差し出すことができるものなど、この身体と命しかないではないか? 桐葉、お前だってそうなのであろう? 違うのか、桐葉!? あたしを殺せばそれで満足か!? お前とて、この身を引き裂き、血を啜りたいのであろうがっ!!」
 違う。
 伽耶、私は、あなたを……。
「もう、良い。もう、何もかもどうでも良い。あたしが幸せになるなど、赦されるはずなどなかったのだ。あんな、夢のような時間があたしに赦されるはずなどなかったのだ。そうなのだろう、桐葉……」
 私は、あなたを、ただ救ってあげたかっただけなのに。
「伽耶、違う、私はっ!」
 瞳に何も映さない伽耶が遠い。
 こんなに近くにいるのに、私の言葉は伽耶には届かない。
 再び、閉ざされてしまった心。
 絶望に塗り潰されてしまった心。
「違うの、伽耶! 聞いて!」
「聞きたくなどないっ! お前まであたしを責めるのかっ! そんなにあたしが憎いのか!? もう、何も言うな、何も言わないでくれっ!!」
「伽耶っ!!」
 激情に我を忘れ、声を荒げ、叫び続けていた伽耶が、言葉を止めた。
 乱れた呼吸。肩で息をして、闇の中でも真白と見紛うくらいの肌を、薄く紅潮させ。
 伽耶が寂しそうに微笑んだ。
「……良いぞ、桐葉」
 幼い姿をした伽耶が浮かべた、疲れ切ったその笑みに、私は背筋を寒くする。
 駄目だ。この先は言わせてはいけない。私が聞いてはいけない。
 そんな言葉が、伽耶の唇から滑り出ようとしている。
 理由は分からない。けれど、それは確信だ。
「伽耶?」
 辛うじて私は彼女の名前を呼ぶけれど、その声は自分のものとは思えないくらいに掠れていて。
「もっと、早くこうしていれば良かったのだな。生きることがこんなに辛いなら、誰かを愛することがこんなに苦しいなら、失うことがこんなに恐ろしいのなら、奪うことがこんなに罪深いなら……」
「……何を」
 縋るように言葉を紡いだのは、伽耶ではなく私。
 伽耶が言おうとしている言葉。
 それは、彼女の絶望を一言でもって断ち切る、本当に簡単な魔法のような言葉。
 しかし、それは私にとっては新たな罪を呼ぶ、呪いの言葉にほかならないのだ。
 言ってはいけない。
 言わせてはいけない。
「頼む、桐葉。あたしを救ってくれ。この地獄のような生から解放してくれ。お前になら頼める。いや、お前にしか頼めない。こんなあたしを殺してくれなどと。お前以外の誰かに殺されるなど御免だ。だから、桐葉、せめて最後にあたしを救ってくれ」
 彼女に「自分を殺せ」などと命じさせてはいけない。
「……済まんな。最後の最後までお前の手を煩わせてしまって」
 孤独に疲れた吸血鬼が最後に望むのは自分の死、なんて、そんな悲劇を私は認めるなんてしない。
 たとえ、彼女の望みがそれだとしても、私は従わない、従ってなんてあげない。
 なぜなら……。なぜなら、私は……。
「主の最後の頼みくらい、聞いてくれ、桐葉」
 さあ、もう、残された時間はない。
 伽耶の言葉が私を縛る前に。
 最後の呪いが彼女の命を奪ってしまう前に。
 私は何をすべきだろう――そんな躊躇いに心を止めてしまうことなんて、もう赦されはしない。何より私が私を赦しはしない。
 だから、私は止まっていた時計を動かすのだ。
 彼女の時間を動かすために。私の望みを彼女に伝えるために。
 伽耶と、ともに生きていくために。
 もう、間違えないために。
 もう、間違わせないために。
「……っ!!」
 ――私は、初めて、彼女に手を上げた。

§

 呆然とした表情の伽耶が私を見ている。
 何が起こったのか分からないといった表情で、彼女は張られた左の頬を小さな手で押さえている。
「……き、桐葉?」
「……ふざけないで」
「な……?」
「誰が、あなたを憎んでいるですって? 誰が、あなたを殺したいと思っているですって?」
 私は伽耶に語りかける。
 子どもをあやすように、頑なになってしまった彼女の心を解きほぐすように。
 こんなになるくらいに、どうしようもなく追い詰めてしまった自分自身と、私を見失ってしまっていた伽耶への怒りも隠そうとはせずに。
「だ、だって、そうだろう!?」
「何が?」
「あたしは、お前からも奪ってしまった。人間としての生も、死さえも。なのに、どうして、それであたしが憎くないなどと言える!? 嘘など聞きたくない。その場しのぎの言い訳など聞きたくないと、何度言えば……」
「ふざけないで、と言ったわよ?」
 彼女に上げた手を、私は握り拳の形にする。
「勝手に私の心を決めないで。伽耶、あなたは何も見えていない。自分の不幸を嘆いて、悲劇に浸って、自分を責め、それで償えると思っている」
 次に、伽耶がおかしなことを言ったら、殴りつけてでも黙らせるために。
「違う。私は、あなたにそんなこと、望んでなんていない。あなたが憎いなら、赦せないなら、とうの昔に私はあなたを見限っているわ。あなたの前から、いえ、この世界から自らを消しているわ」
 生きることが辛いなんて、そんなことは当たり前のこと。
 この世界が優しいのなら、こんなにも悲劇はあふれてなどいないから。
「なぜだ、桐葉。どうして、お前は……」
 どうして、生きているのか。
 そんな単純で、けれど、根源的な問いに対する答えなど、私は持ち合わせていない。
 けれど、生きていたい、そう思わせてくれる、あなたがいる。
 それを、分かってほしいのに。
「伽耶。思い出して」
「……え?」
「もう、忘れてしまいそうになるくらいの昔、あなたは願ったはず」
 ひとりが寂しいと。
 家族の温もりがほしいと。
「そうして、あなたの望みに、私は応えた。あなたは、そんな私の選択ですら、誤りだったと、そう言いたいの?」
「ち、違う、あたしは……お前に」
 かわいそうな伽耶。
 ただひとり、永遠に生きることを定められ、二百五十年の時間の中で、壊れそうになる心を凍らせてしまった幼い少女。
 そんな彼女を、ひとりにしたくなどなくて、与えられなかった愛情を、与えてあげたくて、私は彼女と生きることを決めたはずだったのに。
「私がどうして生きているか? そんなことを、今になってまた訊かれるとは思わなかったわ」
 分からないの? 伽耶。
 私が望んでいることが、願っていることが。
「そ、それは……」
「決まっているわ。――あなたと、生きていたいからよ」
 伽耶、あなたに生きていてほしい。
 私と生きていてほしい。
「あなたが生み出してしまった悲しみは消えない。奪ってしまった命は償えない。背負っている罪をなかったことにするなどできない。けれど、私は、あなたに生きていてほしいと思っている。……いいえ、簡単に死を選ぶなんて赦さない」
 握った右手に力を込める。
「だから、自分を殺せなどと私に命じるなんて絶対に赦さない。今もまだ、そんなことを思っているのなら、何度でも思い知らせてあげる。私は、あなたを死んでも殺さない。そう言おうとするのなら、私は全霊をもってそれを阻んでみせる。あなたの口を裂き、喉を潰してでも」
「……っ」
「お願い、伽耶。今になって言うのは遅すぎるのかもしれない。でも、生きていて」
 死なないで。世界から消えてしまわないで。
「罪の重さに潰されてしまいそうだというのなら、私があなたを支えてあげる。誰もあなたに手を差し伸べないというのなら、私があなたの手を握ってあげる。生きる意味が見つけられないというのなら、私があなたの生きる理由となってあげる」
 だから。だから、悲しみと絶望で、あなたの世界を閉ざさないで。
「だから、お願い、伽耶。知って。あなたが生きるということは、私の願いだということを。あなたと共に生きるということは、私の意志だということを。その、私の気持ちを、否定しないで、伽耶」
「桐葉、でも、あたしは」
「……あなたの罪は消えない。それは、もう、変えられないこと。でも、その罪を、傷の痛みを、耐えることができないのなら、私にも預けて。あなたを、寂しさから、苦しさから、世界から救ってあげられなかったのは、私の罪だから」
 言葉が生まれる。
 長い旅路。出会って、そして別れて、そんな繰り返しの中で交わした会話を重ねるよりも、多いくらいの言葉を、私は伽耶へと贈っていく。
「本当は私の方こそ赦してなんて言えない。あなたの孤独を癒してあげたくて、私はあなたと契約を結んだ。けれど、私はあなたを救うどころか、さらに深い孤独へと、あなたを突き落としてしまったのだから」
 間違っていたというのなら、私たちの選択だ。
 世界が私たちを傷つけたとしても、周囲の人間が私たちを追いやろうとしたとしても、私だけは、伽耶の手を離すべきではなかった。
 そんな誤りを二百五十年もの間、続けて、そしてようやくそれを正す機会が訪れたのだ。
 すべてをやり直すことができるかもしれない、そんな希望が生まれたのだ。
 伽耶がひたすら望み続けていた、家族という絆が、ようやく生まれたのだ。
 そんな奇跡のような今日という日に、私はあなたを失いたくなどない。
「でも、伽耶。お願いだから、生きて。私はもう、あなたを一人にしたりはしない。あなたの手を離したりはしないから」
 握りしめた拳を開いて、伽耶の小さな手を両手で包む。
 体温を感じさせない、冷たいその手は、凍えているかのように震えていて。
「い、良いのか? あたしは、このまま生きていても良いのか?」
「良いも悪いもないわ。私が、あなたに生きていてほしいと、そう言っているの」
「あたしは……」
「……そうね、言い直しましょう」
「え?」
 それは、伽耶へ告げるための言葉でもあり、自らに誓うための言葉。
「たとえ、他の誰があなたを赦さないとしても、私はそれらのすべてからあなたを護りましょう。あなたを孤独にしようとする、ありとあらゆる想いから、私はあなたを護ると誓いましょう」
 それは、誰からも強制されることなどない、私自身の誓い。
 主だとか、眷属だとか、そんなもの関係ない。
 紅瀬桐葉が千堂伽耶に、誓うのだ。
「それでは、足りないかしら?」
「……」
 怖々と、伽耶が私の手を握り返してきた。
 私の言葉を確かめるように、大切なものに触れるような辿々しさで、私の手を握る。
「……ぅ……ぁ」
「それに」
 そして、私は冗談交じりの言葉で、彼女への誓いを締めくくる。
「愛しいお母様を手に掛けたなんて知られたら、今度は私が、あなたの娘に容赦なく討たれてしまいそうだから」
「……ぇ?」
「それくらい、彼女のことを信じてあげなさい、あなたは母親なのでしょう?」
「ぅ……桐葉……」
 伽耶が言葉をつまらせる。
 枯れることなく流れていた、涙に混じる悲しみの色が薄れていく。
「ええ」
 そして、名を呼ぶ。
「……瑛里華」
 ここにはいない、彼女の娘の名を。
「彼女を、あなたと同じ目に遭わせることにならなくて、良かった……」
「っ!」
 親を失う悲しみ、世界に取り残される寂しさ、異端として疎まれる孤独。
 そんな想いを抱くことになる新たな犠牲者を、生むことにならず、良かった。
「桐葉……桐葉ぁ……」
「ええ、伽耶。私はここにいる。もう、あなたから離れたりはしない」
「ぇぁ……あぁ……ああ……」
 整った造作をくしゃりと歪めて、伽耶が嗚咽を漏らし始める。
 生まれたての赤子のように、何も知らない無垢な子どものように。
 私は、そんな伽耶を抱き寄せ、その顔を胸に抱きしめる。
「ああ……。ああああああっ! 桐葉……き……りは!」
「伽耶、大丈夫、大丈夫だから」
「うああああぁぁぁぁ……っ!!」
 胸の中で、ただひたすらに泣き続ける伽耶に、私は大丈夫と囁き続け、そして彼女の背を何度となくあやすように撫でる。
 小さな吸血鬼の、小さな幸せを護るために。
 私はその小さな身体を抱きしめた。

§

 さんざんに泣いて腫れた目蓋もすでに元に戻っていた。
 けれど、泣いた、その疲れからか伽耶は気怠げにしている。
 白い長襦袢の寝間着に着替えた伽耶は、私と共に眠ることを望んだ。
 伽耶が一人で使っていた布団の私たちふたりが入るのは、なんとも狭い感じがするけれど、だからこそ、伽耶はそれを望んだのかもしれない。
 恐る恐る触れた指先を感じ、私は伽耶と指を絡ませる。
 そこから伝わる暖かさこそが、伽耶を安心させると信じて。
「……暖かいな」
「ええ」
 隣にいる私を見ずに天井へと視線を遣る伽耶がぽつりとそう言った。
「前に、お前とこうして眠ったときのことなど、あたしはもう忘れてしまった」
「……私もはっきりとは覚えていないわ」
「残念なことだ」
「そう、ね」
 そうして、また会話が途切れる。
 明かりもない室内は、夜の闇に沈んだまま、虫の声も届かないこの部屋に小さく聞こえるのは私たちの息の音だけ。
「……なあ、桐葉、訊いても良いか?」
「何を?」
 詰まらないことを訊くかのように、伽耶の言葉からは感情の色は伺えない。
「瑛里華と共に来た、あの男……」
「支倉君?」
「そうだ、支倉、孝平と言ったか」
「ええ」
「あれはどんな奴なのだ?」
「……なんだ、やっぱり気になっているの? 可愛い娘を取られた気分?」
「馬鹿な。そんな訳ではない。ただ、あたしとは違う生き方を、瑛里華に選ばせるほどの男だ。どんな奴か気にならないわけでもない」
「私に訊くより、千堂さんに訊けばいいでしょう?」
 彼がどんな想いで、彼女と生きることを選んだのか、私も気になるところではあるけれど。
 もはや、私たちとは違い、人の身を得ることのできた彼女が、これから有限の時間を生きていくということが、もしかしたら伽耶には羨ましいのかもしれない。
「千堂さん、か。お前がそんな言い方をするのを聞くのも妙な気がするの」
「仕様がないでしょう。あの学院で過ごしているうちに、そういう風になってしまったのだから」
「別に、瑛里華と呼び捨てても良いのだぞ?」
「それは、彼女がそう望んだらそうするわ」
「あたしが良いというのにか?」
「あんまり子どもに干渉する親は、嫌われるわよ?」
「……む、そういうものか?」
「一般論だけれど」
 むしろ、伽耶たちにとっては、これまでの確執の大きさからして、あるいは、過干渉とも取れるくらいに、関わり合っていった方が良いのかもしれない。
 けれど、それを決めるのは、伽耶と彼女だから、私はそれ以上の言葉を言わない。
「瑛里華は、あたしを親と思ってくれているのだろうか?」
「今になって臆病風でも吹いた?」
「あたしとて、不安にもなる」
「嫌いな相手の誕生日を祝おうとなんて、普通は思わないわ」
 それだけで十分でしょう?
「……そうか。そうだと良いな」
「そうでないと私が困るのだけれどね」
「ん?」
「このまま、また仲違いされると、私が困るから」
 そんなことは、多分、もうないだろうけれど。
「何かあるたびに、学院では、千堂さんからあなたに対する愚痴を聞かされ、そしてこの屋敷では、伽耶から千堂さんに対する愚痴を聞かされる。考えただけでもぞっとするわね」
 私はその様を思い描き、声を殺して笑いを隠そうとする。
 もちろん、そんなことはできるはずもなくて。
「そ、そんなことは、ないと思うが」
「そう?」
「……多分な」
 自信、ないのね。
「でも、あなたも千堂さんも親子というには、ぎくしゃくしすぎだから、少しくらい喧嘩をして、それから仲良くなって行きなさいな。もう、彼女に対して気に病むべきことなどないでしょうから」
「そうだな……」
 親としても、ひとりの人間としても、全くといって良いほど未熟な伽耶が、そう在ろうと思い続けていた理想の母親となれるかどうかは、彼女次第だから。
「ときに、桐葉……」
「今度は何?」
「その、何だ、瑛里華なんだがな?」
「ええ?」
「あれは、その……。……男を知ったのだろう?」
「……は?」
 伽耶の口から、なんだか似つかわしくない言葉が飛び出たような気がする。
「だから、その、なんだ。あの支倉とやらと瑛里華は、付き合っておるのだろう?」
「……それは、そうね」
「だから。あのふたりが、男と女の関係になったかどうかと、あたしは訊いているのだ」
 そんな突飛な質問を、伽耶がしてくるなんて。
 どんな表情をしているのかと、隣にいる彼女の顔を見ようとするけれど。
「……どうしてそっぽを向いているのかしら、伽耶?」
「う、うるさい。こんなこと、面と顔をつきあわせて訊けるはずもなかろう?」
「私としては、それはどうでも良いことだけれど。……気になるの?」
 そんな俗っぽいことを、伽耶が気にするとは思わなかった。
 正直なところ、意外だという、私の心中を察したのか、伽耶が付け足す。
「……本当は、あたしが知らぬことを瑛里華が知っている、それが少し、悔しいな」
 子を成すことのできぬ身である私たちと、千堂さんとは違う。人の身となった彼女ならば、いつかは誰かの子を身ごもることもあるのだろう。
 そんな諦観すら言外に滲ませ、けれど振る舞って伽耶はおどけた口調で言う。
「子を成すための行為を、母が娘に先を越される。笑い話にしかならぬな」
「伽耶……」
「あたしは知らないのだ。父様が母様とどのように結ばれたのか。あたしが生まれたときに父様たちがどうやってあたしを祝福してくれたのか。あたしは、ふたりが愛し合ったからこそ、生まれたのであろう?」
「……そうね」
「初心な子どものようかもしれぬが、それは何と素晴らしいことだろうかと、そう思っていたのだ」
「伽耶」
「あたしは知らぬ。愛するということも、愛されるということも、その行為の意味も」
 だから、伽耶は千堂さんを羨ましく思っているのだろうか。
 知りたいと思っているのだろうか。
 愛し合うという、その意味を。
「知りたいの……?」
 そうするということを。
「……知りたいな」
 私に背を向けていた伽耶が、反転し私と向き合う。
 暗い闇の中でも、紅い光を放つかのようなふたつの瞳が私をまっすぐに見つめた。
「私も、物語の中でしか知らないわよ?」
「ふ……。なんだ、お前も同じか」
「そうね、けれど、あなたよりは知っている」
「そうか? そうかもな。なぁ、桐葉、この繋いだ手の温かさを、あたしにもっと教えてくれるか? お前の温かさを、あたしに教えてくれるか?」
 まさか、彼女がこんな望みを私に抱いてくれるとは……。
 驚きはあるけれど、嫌悪などない。
「私で良ければね」
「違う、あたしはお前が良い」
「……そう」
 ならば迷うことなどないのだろう。
 伽耶が望むように、そして、私が望むように。
 愛を知り、そして与え合おう。

§

「桐葉、あまり見るでない」
「なぜ?」
「お前の身体と比べて、あたしのは貧相に過ぎる」
「……別に良いじゃない?」
「そんなこと、気にしたこともなかったのにな、今は無性に恥ずかしいぞ」
「安心して、私も同じ気持ちだから」
 寝衣を脱がせ合い、肌を晒した私たちは、初めてお互いの身体を見せ合う。
 凹凸の少ない、少女未満の身体に見える伽耶は、緊張に身をこわばらせ、羞恥に頬を染めている。
 夜闇も、私たちにとってみては、視界を妨げる帳の役にも立たず、伽耶の目にも、きっと私の姿ははっきりと見えているのだろう。
「こ、これからどうするのだ?」
「そうね、伽耶、目を閉じて?」
「こ、こうか?」
「そう。そのまま動かないで」
 両手で私は伽耶の両肩を抱く。
 びくりと身をすくませ、けれど、私の言葉通り、動かずにじっと私の行為を待つ。
「こういうときは、口づけからと、相場は決まっているわ」
「な……く……っ!?」
 伽耶が驚きに言葉を漏らす前に、私は彼女の唇を塞ぐ。
 驚きに小さく開いたその間から、私は舌を差し込み彼女の歯をちろりと舐める。
「んっ!? はっ、きり……っ」
 抗議なのか、懇願なのか、伽耶の言葉の指し示す意味を私は気にすることもなく、彼女の唇を味わうことにする。
 伽耶の唇は薄くて柔らかい。
 緊張に震えるそれに、私は優しく触れるだけの口づけを繰り返し、彼女の緊張が解けていくのを待つ。
 ときおり、舌先で彼女の唇を舐めたり、歯に触れたりすると、ぴくりと身体が跳ねるのが可愛らしく思える。
「ちゅっ……ちゅ」
「あ、は……んっ、きり……は」
「伽耶、もっと、身体の力を抜いて……」
「むり……を、言、んっ、なっ!」
「ほら、そんなんじゃ、これれから先なんてできないわよ?」
「んっ、んんぅ、ちゅ、ふぁ!」
「伽耶、ほら……んっ」
 私は伽耶の身体から力が抜けていくのに合わせて、少しずつ唇と舌の動きを早めていく。
 彼女にとっても、もちろん、私にとっても、初めての感触と感覚が、だんだんと呼吸を速め、身体の温度を上げていくのが分かる。
「れるっ……ちゅ、ちゅぱっ!」
「んぁっ! き、きり……っ」
 歯の隙間から伽耶の口内に舌を差し入れ、彼女の口腔を舌で味わう。
 恐る恐る、という感じに、私の愛撫を受け入れていた伽耶も、ここにいたって観念したのか、強ばっていた身体からすっかりと力が抜けていた。
「伽耶、良い子ね」
「ばか……子ども扱い、んっ、するな……ぁっ」
「そうね、じゃあ、これはどう……?」
「んっ! んんっ!?」
 私は伽耶の舌を彼女の口内から吸い上げる。私の口腔に差し込まれる形になった伽耶の舌を、私は唇で柔らかく挟んで、そして舌先で彼女の舌をまんべんなく愛撫する。
 さすがにこんなことは想像していなかったのか、伽耶は私の肩を両手で押して逃げようとするけれど、私はその両手を首の後ろに回させて、さらに密着の度合いを上げていく。
「ちゅる、ちゅっ、んっ、ちゅ、じゅぷっ!」
「あ、ああっ、ちゅ、んっ、ああっ、あっ!!」
 伽耶は、私の行為に息も絶え絶えといった風。
 ひとしきり、彼女の唇を味わった私は、彼女の舌を解放し、ぐったりとしたままの伽耶の裸の全身を見ることになる。
「伽耶、これで終わりじゃないのよ?」
「あっ、はぁっ、はぁっ……。わ、分かって、いる」
「無理なら止めるけれど?」
 本当は、そんなつもりなんてないけれど。私も、伽耶との行為に確実に高まってきているのだから。
「や、止めずとも良い。いいから、……あたしに、続きを……」
「そう、それじゃ、続きをするわよ?」
「の、望むところだ……」
 初めての感覚に、瞳を潤ませ、焦点の定まらない視線で私を見る伽耶に、わたしはどうかしてしまいそうになる。
 けれど、私はその欲望を、すんでの所で抑え、彼女への愛撫を再開する。
「桐葉、そこは……っ」
 横たわる伽耶の薄い胸に手を触れる。
 肉付きの薄い、彼女の胸は、その下にある骨の硬い感触さえも伝わってきそう。
「こんな胸、触っても面白くもなかろう……」
「そんなことないわよ。……こんな風に」
「ひゃっ!? んっ、あっ!」
「伽耶が感じてくれるなら、ね」
「ば、馬鹿者、が……、あぁ!」
 ささやかに膨らんだ、彼女の双胸を私は愛撫していく。
 刺激を強くしすぎないように、ゆっくりと、ゆっくりと、敏感すぎる彼女の頂を避けるように。
「ん、はっ……。あ、あぁ……」
 困惑に彩られていた伽耶の表情が、うっとりとしたものへと変わっていく。
 少しずつ、快感を受け入れ始めた彼女の変化に気を良くして、私は伽耶にお願いをする。
「伽耶?」
「ん? な、んだ……?」
「伽耶も、触って……?」
「あ……」
 そう言って、私は伽耶の手を、私の胸へと導いていく、
 彼女の身体ほど、熱くはなっていない手のひらは、私の肌に冷たくて、そのひんやりとした感触に、私は声を上げてしまう。
「ん……」
「き、桐葉……?」
「大丈夫、んっ、だから。伽耶も、私を、触って……」
「あ、ああ……」
 勝手の分からない伽耶は、私の胸のふくらみを、手のひらで撫でるようにして触れてくる。
 ぎこちなく、それでいて、私を気遣うような手の動きは拙いけれど、それでも見よう見まねで私を愛撫してくれようとする伽耶の気持ちに、私は高められていく。
 私がしてほしいことを、伽耶に伝えるように。
「ほら、伽耶、こうして……」
「あっ、そこっ、あっ、んんっ!!」
 ふくらみを手のひらで押しつぶすように、その先端の固くなり始めた果実を指で弾くように。
 私は伽耶に快感を与えていく。
 伽耶は私に快感を返してくる。
「あ、伽耶、それっ……ああっ」
「桐葉、桐葉っ!」
 何かを求めるような伽耶の瞳に吸い込まれるように、私は彼女の唇に、私の唇を重ねる。
 自然とお互いの舌が絡み合い、吸い取ろうとするかのようにお互いを求める。
 じゅ、じゅ、という唾液の絡まる音と、お互いを求め合い、吸い合う音が、この寝室の空気を淫靡なものへと変えていく。
「ぷぁ、はっ、じゅ、じゅるっ!」
「か……や。はぁっ、んっ、ちゅ、ちゅる、じゅぱっ!」
 遠慮がちだった伽耶の指先も、だんだんと気遣いの色を失くしていく。
 私の胸に指を埋め、先端を摘むようにして引っ張り、私から淫らな声を引き出していく。
「あっ、伽耶、だ、めっ!」
「桐葉っ、きり、はっ、ああっ」
 離れた唇が、間に唾液の糸を引くのにも構わず、私は伽耶の先端を口に含む。
「ああっ!?」
 突然の感覚に伽耶は甘い悲鳴を上げ、私の乳房を揉みしだいていた手に少しだけ力が入る。
 固くなった伽耶の乳首を、私は唇で挟み、しごき、最後に歯で甘噛みしてからもう片方にも同じことをする。
「あっ、あっ、ああっ!!」
 その度に、伽耶が上げる脳を溶かしそうな甘い声が、私のその行為をさらに過激にしていく。
 もはや、伽耶は私の愛撫に翻弄されている。
 その両手は、私の背に回され、抱きつくように力が込められている。
 彼女の胸に押しつけられた私の顔は、彼女の乳首を胸を、そしてそこからさらに下へと、愛撫の矛先を向けていく。
 小さく窪んだ臍を舌先でくすぐり、その快感と認識できないような感覚に、伽耶が悲鳴を上げる。
「だ、駄目だ、桐葉、それっ!」
「駄目じゃないでしょう。ちゅっ、ちゅる」
 そして、吸う。
「や、ああっ!?」
 何も知らない伽耶は、ただ、それだけで泣き声のような嬌声を漏らす。
 そこが、彼女の弱いところだと見た私は、飽くことなく彼女への愛撫を繰り返した。
「あ、駄目、駄目だと、言うのにっ、桐葉、あああっ」
「ちゅ、んっ、ちゅうっ!」
「やああっ!?」
 彼女の臍を味わい、腹部を味わい、そして、また胸を味わった。
 乱れきった呼吸に、彼女の薄い胸が激しく上下する。
 はっ、はっ、という、彼女の息遣いだけが、今の私の耳に届いている。
「だ、駄目だと、言うたろうに……」
 絶え絶えの息の中、伽耶が私に抗議の声を上げる。
「……ごめんなさい、そんなに駄目だった?」
「いや、駄目とかではなくて……。桐葉、初めてというのに激しすぎるわ。本当にそうなのか?」
「……失礼ね」
「存外に手慣れていると思ったのだが、あたしの気のせいか?」
「気のせいよ」
 他人と肌を合わせることなど、私にとっても正真正銘初めての経験だ。
 まぁ、知識を仕入れなかったかと言えば、それは嘘になるのだけれど、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「……そうか、ならば良い」
 そして、窺うように、私を見つめ。
「続きを、するのであろ?」
「ええ。大丈夫?」
「無論だ」
 気丈に言う伽耶の、その瞳が、期待の色を帯びていることに気付く。
 かく言う私も、もう、抑えが利かないところまで来ている。
 だから、私は伽耶の求めに是も非もなく、応じるのだ。
「伽耶、こっちへ……」
「……あ」
 身を起こした私の足を跨がせると、彼女の秘所が私の太股に触れるのが分かる。
 熱くなり、汗以外の体液で濡れている感触に、私は伽耶が十分に高まっていることを悟る。
 そして、私は伽耶の膝に私自身を押し当てるようにし、私の高まりを伽耶へと伝える。
「桐葉、濡れておるのか?」
「……ええ、伽耶、あなたと同じよ……」
「そうか、ふふ。相手があたしでなければ、かの?」
「まだ、そんなことを言うのね……?」
 そんな自虐的な言葉など、私は聞きたくなどないから。
「え、あっ? んっ!!」
 私は彼女の身体を揺するようにして動かして、愛撫を再開する。
 同時に、私自身も伽耶の身体を使って快感を得ていく。
 初めてのことなのに、心が、身体が、伽耶を求め続ける。
 快感に塗り潰されそうになる思考、私の上で揺れる伽耶の身体、聞くだけで背筋が震える彼女の甘い叫び声。
 何もかもが、私と伽耶を繋げていく。
 肌のこすれる音に、ぬめった音が混じる。
 ぐちゃり、ぐちゃりといやらしい音が響き、その音が、また私たちを高めていく。
「ああっ、桐葉、ああっ、んっ!!」
「ん、伽耶……っ、伽耶……」
 私たちはお互いの名を呼ぶ。
 両手はしっかりと繋がれ、そして、伽耶は私の胸に顔を埋め、舌を這わせる。
 時折当たる、彼女の鋭い歯の感触が、甘い感覚とは違った刃で切られるような微かな痛みをもって、私の身体を震わせる。
「ちゅ、んっ、ちゅ、ちゅぱっ!」
 無心に、私の胸を貪る伽耶。
 そして、彼女の身体の動きも少しずつ速くなっていく。
 濡れた音と、そこから感じる彼女の熱が、私の肌を溶かす。
 私を責める彼女の唇と、膝の感触が、私の脳を溶かす。
「あっ、ああっ、か……やっ!」
「ああっ、桐葉、もっと……」
「ええ、伽耶、んっ、ああっ、そ、そうっ!」
 伽耶は私の導きなどなくても、自ら快感を貪り、私を苛んでいく。
 そして、唐突に走る痛み。
 がりっ! と音が聞こえそうな、勢いで。
「……ああああっ!」
 私の胸に歯を立てた伽耶が、そこから溢れる血を啜っている。
「ん、んんっ、ぴちゅっ、ちゅううっ!」
 痛みのと共に、傷口に触れた彼女の舌の感触に私は震える。
 私の血を味わった、伽耶が、その表情をいっそう陶然とさせ、そして自らの身体の動きを加速させていく。
「ん、桐葉……ああっ、美味しっ、あああっ、気持ち、ぃっ!」
 身体から与えられる快感と、私の血を吸うことで与えられる快感が拮抗しているのか、彼女の叫びはいっそう激しさを増し、もう、悦んでいるのか、泣いているのか、判然としないくらいになっていく。
 私が吸われていく。
 私の身体を流れる血が、伽耶の身体を内側から犯していくように感じ、その幻想ですらも、私は快感に変えていく。
「ああっ、もっと、伽耶……もっとっ!!」
 もっと、伽耶を犯したい。
 彼女と溶け合うような感覚を、伽耶も感じているのか、私の胸を激しく貪る舌の動きがさらに加速していく。私を飲み下す彼女の喉が鳴る音が聞こえる。
「んっ、んくっ、ああぅっ! 桐葉、あたしは、あたしはっ!」
 初めて経験する、圧倒的な快感の前に、涙すら流して私の名を呼ぶ伽耶。
 そんな彼女が私を見る。
 口元を、私から奪った鮮血で汚し、そして自らの唾液の糸を引かせる彼女。
 その、あられもない伽耶の姿に、私は何も考えられなくなって、彼女の唇を奪う。
 身体を窮屈に曲げ、けれど、そのせいで密着した私たちには別の快感が走り、そして、私は彼女の唇をむしゃぶるように舐める。鉄錆に似た血の味と、伽耶自身の味がない交ぜになったその淫靡な液体を、私は飲み干す。
 舌を絡める。
 舌だけでなく、両腕で互いの身体を抱きしめ、そして、自分自身を互いの身体で愛していく。
 これ以上ないくらいに、濡れそぼり、敏感になっている秘所から与えられる感覚が、私たちの言葉を意味のないものとして、そして、思考までも真っ白に染めていく。
 もう、わけもわからなく、私たちはただただお互いの名を呼ぶ。
 伽耶、伽耶と。
 そして、桐葉、と私の名を呼ぶ彼女に、応えるようにさらに愛撫を送り込んでいく。
「んっ、ああっ、あああっ、き、りはっ、駄目だ、何っ、……これっ!?」
「伽耶、……ああっ、そのまま、良いから、そのまま……っ!」
 背筋を駆け上り、脳髄を焼き、焦がすようなこの感覚が、きっと絶頂の兆し。
 私はその感覚に身を任せ、伽耶もそうするように、もう一度唇を重ねた。
「んんぅぅぅ!?」
 くぐもった伽耶の声が私の耳朶を叩く。
 そして、それが引き金となったようにして、伽耶は身を震わせる、嬌声を上げる。
 私はそんな伽耶の最後の理性の堤防を切るべく、とどめとばかりに彼女の身体を揺すった。
「あ、や、桐葉っ、あ、あっ、ああああっ!?」
 そうして漏れた、伽耶の絶頂の叫びに導かれるように。
「ああ、んっ! あああああっ!!」
 私も伽耶と同じように、初めての絶頂を迎えた。
「はっ……はっ……」
 荒く息をつく私と、くたりと身体から力の抜けた伽耶。
 白い肌を紅潮させ、肌に汗を浮かべつつも、安らかな表情を浮かべる彼女の姿はやはり幼くて。
 そうして、すぐに寝息を立て始めた伽耶の姿を見て、ひとり残された私は、小さく苦笑を漏らしたのだった。

§

 そうして、私は新しい朝を迎えた。
 昨日から続く今日という日は、何かが変わっているのだろうか。
 小さな寝息を立てる伽耶は、その外見そのままに、小さな子どものような穏やかであどけない表情。
 私の隣で眠る彼女の姿を見るのなど、何時以来だろうか。
 私たちが、まだ、何も知らない、本当の子どもだった頃、姉妹のように過ごしていた頃、そんなとき以来かもしれない。
 もちろん、そのときは、昨晩のようなことは、なかったけれど。
 乱れてしまった寝衣を、私は身を起こし手早く直す。
 ことの最中に、意識を失わなかったのは、偶然だったとしても、我ながら幸運だったと思う。
 そうでなければ、こんな気持ちで、彼女の寝顔を見ることなど叶わなかっただろう。
 そんな風に、伽耶の顔をどれだけ眺めていたのか。
「……う、ん」
 小さく吐息を漏らし、身じろぎした伽耶が、薄く目を開く。
 ……伽耶は朝に強かっただろうか?
 あるのかどうか分からない、そんなことを記憶の底から引き上げようとしている間に。
「……あ?」
 伽耶がぼんやりとした瞳で、私の姿を捉えたのが分かった。
「きり……は?」
「ええ、伽耶。おはよう」
「あ、ああ」
「良く、眠れたみたいね?」
「え、あ、……っ!?」
 勢いよく身を起こした伽耶が、私と自分の姿を交互に見比べながら、慌てた声を上げる。
「な、なんで、あたし!? 桐葉、お前……。え? ええ!?」
「落ち着きなさい、伽耶。それと、前くらい隠したらどう?」
「え……ああっ!?」
 自分のあられもない格好を指摘され、頬を紅潮させ、伽耶は自分の身体をかき抱くように毛布で身を隠す。
「それにしても、騒がしいわね、伽耶。朝くらい静かにしたら?」
「な、なんで、お前はそんなに冷静なのだ、桐葉……」
 恨めしそうに私をにらみつけても、険の取れてしまったその表情は、拗ねているようにしか見えなくて。
「……ふふ」
「わ、笑うな、何がおかしい!?」
「いえ、あなたの方から求めてきたのに、今になってそんなことを言われるなんて、心外だと思って」
 昨晩の、自らの言動を思い出したのだろう。伽耶はますます頬を赤くして、言い訳じみた言葉を漏らす。
「あ、あれは……。あたしもどうかしていたんだっ。だけど、なんで、桐葉、お前は……」
 あたしを受け入れたのか、と。
 愚問ね、伽耶。
「そうね、私も、昨夜はどうかしていたのかも」
「……え、あ?」
 そこで、そんな風に残念そうな表情を見せてしまうようだから、私はあなたに意地悪を言ってしまいたくなるというのに。
「嘘よ」
「なっ!?」
「私はね、伽耶。あなたを愛したいと思った。だから応えた。それだけよ」
「な、な……」
「だいたい、あなたが望んだことでしょう?」
「う、それは……」
 そこで、命令をしなかったのは、褒めてあげたいところだけれど。
 もし、そんなことをしようものなら、もう一度説教をしていたところだ。
「ままごとみたいな睦事も悪くなかったでしょう?」
 今はまだ、本当に誰かを愛するということを、知らないのだとしても。
 かつて、伽耶の父親である稀仁さんがそうであったように、彼女を本当に愛してくれるひとが現れるかもしれないから。
「……その物言いだと、まるで桐葉はあたしが望まなければどうでも良かったみたいだな?」
 そうかもしれない。
 私も本当の意味で、愛するなんてことの意味は分からないけれど、ふたりでなら少しずつでも理解していけると思ったから。
「あら、そんなことないわよ。もしかしたら、私の方から、そう言っていたかもしれないし」
 それはどうか、分からないけど。
 ただ、孤独という厳しい冬のような寒さの中で震えていた彼女を、少しでも暖めてあげたいと思ったのは本当で。
 手と手だけで繋がるだけでは足りなくて、だからこそ、肌を合わせ、睦み合おうと思ったのは本当で。
 それで、伽耶の凍っていた心が、少しでも溶けるのなら、是非などなかったから。
「まぁ、私も初めてだったし、嫌な記憶になったのだったら謝るわ。もう、しないわ」
「……え?」
「違うの?」
「……うるさい。でも、桐葉、お前がそう望むのなら、あたしとて吝かではないぞ」
「私は、あなたがどうだったかを訊きたいんだけれど?」
「う、うるさいな」
「で、どうなの? もう、あんなことは御免? なら、もう一緒は寝ない方が良さそうね?」
「そ、そうは言ってないであろう!」
「そうなの?」
「そうだ。少しは察しろ、この馬鹿眷属め」
「あら、あれだけされても、まだ分からないのかしら? 言いたいことはちゃんと言葉にしなければ、伝わらないのよ? さびしんぼうの私の主さん?」
 ああ、なんだか、こんな会話でさえ懐かしく思えてしまう。
 いつか、どこかで交わしていたかもしれない、たわいもない会話。
 それが、今、こうして再びできる、それだけでも私は幸せを感じてしまう。
「桐葉、お前、そんな性格だったのか?」
 おかしなものを見たような喫驚な表情で、呆れ混じりに伽耶が言う。
「ええ、おかげさまで。誰かさんのせいで、こんな性格になってしまったわね」
「……まだ言うか、意地の悪い女だな」
「それも、お互い様ね」
「……ふん、違いない」
「で、私はどうすればいいの? あなたと一緒にいない方が良いの?」
「ま、まだ言うか……」
「言いなさいな、伽耶」
 私の言葉に、伽耶は観念したのか、真っ赤な顔で俯いたまま。
「……てくれ」
「……え?」
 聞き取れない言葉。
 意味は、もちろん、ちゃんと伝わっているけれど。
 これは、伽耶にとっての素直になるため練習だから。
「一緒に……て、くれ」
「伽耶、ちゃんと言って」
「だから、一緒に寝てくれと、言っておろう!!」
「ええ、聞こえていたわ」
「なっ、なら! 何度も言わせるな!」
「ふふ……」
「笑うな! このあたしをここまで虚仮にするとは良い度胸だな、桐葉」
「別に。でも、そう言ってくれるなら、私も安心して眠ることができるわね」
「……何?」
「一緒にいてくれるのでしょう? なら、私が眠りに就いてしまったとき、あなたが傍にいてくれる、そう思って良いということでしょう?」
 それが、どれほどの安らぎを生むのか、伽耶は分からないかもしれないけれど。
 無防備な私を、伽耶に預ける、その意味を分かってほしいと思う。
「ふん。仕様がない。お前の主として、しっかりとあたしが護ってやる」
「そうね、お願いするわ」
「ふん」
 身を縮ませ、布団の中へ潜り込んでしまう伽耶。
「ところで、どうしたの、伽耶?」
「うるさい。とりあえず、桐葉、お前はしばらくここから出て行け」
「あら、どうして?」
「服を着る!」
「そんなこと、私がいても構わないでしょう?」
「あたしが構う!」
「着付け、してあげましょうか?」
「一人でできる!」
「あら、偉いわね?」
「良いから出て行け! そんなに着付けがしたいなら、自分が着れば良かろう! 着物でもなんでも好きなものをくれてやるから、勝手にしろ!!」
 なおも、布団の中から怒鳴り散らす伽耶をおかしく思いながら、退き際が肝心と、私は部屋を辞去することにする。
「ええ、それじゃ、また後で。それから食事にでもしましょう」
「要らん、あたしは……」
「だから、私の血をあげる、そう言っているのよ」
「……」
「伽耶、また後で」
「……ああ」
 済まぬ。
 そんな伽耶の詫びの言葉など、私は無視して部屋を後にした。

§

「つっ……!」
 鋭い犬歯が私の肌を破り、そこから溢れた血を伽耶が啜る。
「んっ、ちゅ、ちゅる……ちゅぅ」
 ぴちゃぴちゃと濡れた音を立てながら、首筋に唇を当て、夢中になって私の血を吸う伽耶。
 彼女の軽い体重を両手で支え、私は自分のいのちの欠片が、彼女のものとなっていくような感覚を覚える。
「伽耶……」
 意味もなく私は伽耶の名を呼ぶ。
 伽耶は、そんな私に返事を返すこともなく、私の血を嚥下することに没頭している。
「んっ、んくっ、んっ……」
 何度も喉を鳴らし、私の血を飲み込み、それに酔ったかのように熱い吐息が首筋をくすぐる。
「んっ、んくっ……」
 そうして、程なく、彼女の食事は終わりを告げる。
 首筋から少しだけ流れた、私の血を、名残惜しそうに舌で舐め取り、それから鮮血に赤くなった唇を、同じように赤い舌がぬぐい取る。
「……ん、満足した、伽耶?」
 手巾で首筋に付いた彼女の唾液を拭いつつ、伽耶によって付けられた傷が再生するのを感じる。
 こういうときは、痕跡が残らないのは、眷属ならではの利点だとつくづく思わされる。
「ああ」
「そう、良かった」
「馳走になった、と言うべきかの?」
「別に、そんな言葉がほしくてしているわけではないわ」
「そうか」
「ええ」
 ひとつ頷いて、私は伽耶から身を離す。
 けれど、必要以上に離れず、彼女が安心していられるくらいの距離。
「……それにしても、何処にあったか知らぬが、やはり似合うの」
「これのこと?」
 言って、私は自分の身体を見下ろす。
「ああ」
「そうかしら?」
「あたしと違ってお前の黒髪は着物に良く映える。羨ましくなるくらいにな」
「褒め言葉と受け取っておくわ」
「素直に礼を言えばいいものを」
「私は、あなたの髪の色も好きよ?」
「……っ。世辞など要らぬわ」
「お世辞ではないのだけれど」
「ふん、どっちにしろ、あたしにはお前ほど似合いはせぬ」
 拗ねなくても良いのに。
「伽耶だって、似合ってるわよ? 良くできた人形のよう」
「それは褒め言葉ではないわ」
「そう? でも、あなたがそれ以外の格好をしているのは、ちょっと想像できないわね。私は似合っていると思うのだから、そのままで良いわよ?」
「別に、お前を喜ばせるために着ているわけではないわ」
「ええ、そうだったわね」
「……ふん」
 つまらなそうに私から視線を切って、伽耶は言葉を止めた。
 私も紡ぐ言葉は今はない。
 ただ、この場にある沈黙を、心地好いものとして受け入れていくだけ。
 周囲の時間の流れとは、切り離されたかのような沈黙の中。
 どれだけ経ったのか、伽耶が口を開いた。
「――なぁ、桐葉」
「何?」
「これからお前はどうする?」
「……別に何も。伽耶、私は言ったはずよ」
「そうだな。なら、あたしがしたいことを言っても良いか?」
「どうぞ」
 言う、伽耶の言葉は、静かな水面のように凪いでいて。
「この地を出ようと思う」
「……」
「別に、ここに居たくないわけでないぞ。そこは勘違いするな。良くしてくれる者も居るしな、この地は住み良い場所だと思う」
 だがな、と伽耶は寂しそうに笑う。
「この地は悲しい記憶も多すぎる。ここでお前と過ごすには、少々あたしには堪えるのだ」
「伽耶……」
「ふ……。逃げと笑うか、それとも弱いと罵るか?」
「いえ、それがあなたの答えなの?」
 私の問いに、けれど、伽耶は首を振る。
「分からない。ただ、ここで生きることに疲れただけかも知れぬ。征一郎や白の両親にしたことや、過去の東儀の人間たちにしたことから逃げたいだけかも知れぬ。だがな、それとは別にこうも思っているのだ。父様がしたように、あたしも世界というものを知ってみたい、とな」
「……そう」
「父様が、したように、あたしも旅をしてみたいと、そう思ったのだ」
「そう」
「実際は、その身を隠し、転々とするだけの流浪の旅だったのかも知れぬが。だがな、父様が何を見て、何を感じたのか、あたしも知ってみたいのだ。そして、あたしが生まれた意味を知りたい。父様のように人間が吸血鬼となり、母様との間にあたしを成した。ならば、その逆もあるのではないのか?」
「伽耶、それは」
「ふふ、まるで夢物語よの。そんなあるかどうかも分からない可能性に賭けるなど、あたしらしくないと言うか? あるいは、そんな与太話にすら縋らねば、あたしはあたしでいられないのかも知れぬ」
「いいえ、それが、他の誰でもない、あなた自身の願いなら」
 例え、雲を掴むような、漠然とした目的だとしても。
 伽耶は、自分から動き出そうとしている。
 留まり続けたこの揺りかごのような島から、自身を傷つけるかもしれない世界へと歩み出そうとしている。
 ならば、彼女を護ると決めた私はどうする?
 彼女と共に生きると決めた私はどうする?
 逡巡する必要などない。答えを出すのに刹那の時間すら要らない。
「私は、あなたと共に歩みましょう」
 それは、もう、決して変わることのない私自身の願いであり誓いだから。
「そう、か」
 伽耶が小さく笑みを浮かべる。
 親の前で悪戯を咎められるかと恐れていた子が、不意に頭を撫でられたときのように。ほんの少しの罪悪感を滲ませた笑顔。
「何時になるかも分からん、そして、何時まで続くかも分からん。そんな当てのない旅だとしても、付いてきてくれるか、桐葉?」
「本当、愚問ね。それに答える必要があるのかしら?」
「訊いておきたいのだ。お前の口から、もう一度」
 ふう。
 本当に、不器用。
 こんな頑なな伽耶の心を覆った氷を溶かすのはきっと容易ではないことだろう。
 だけど、今なら確信できる。
 今なら不安など抱かない。
「そう、何度も言わないわよ?」
 私は、そう前置きしてから、彼女に告げる。
「私はもう、あなたを一人にしたりはしない。あなたの手を離したりはしない」
 だから。
「あなたが望むのなら何処へでも、何処まででも」
 私はあなたをきっといつか救ってみせる。
「共に、歩いて行きましょう」
 そうして、私は何度目かの約束を伽耶と交わした。
「……済まぬな、桐葉」
「駄目ね」
「……え?」
「この場面は、謝るところじゃない、そう思わない?」
 彼女の世界は、降り積もった雪に覆われた、荒野のような雪原だった。
 過去からそこへ至る無数の足跡は、彼女の元で途絶えていた。
 歩み出せなかった伽耶。
 誰とも共に生きることが叶わなかった伽耶。
 冷たく、柔らかな、その雪面に、ようやく私は彼女と並び、最初の一歩を踏み出すことができる。
 そうして残される足跡は、きっといつか消えていく。
 私たちの記憶に悲しみや苦しみ、そしてこれからはきっと楽しさや幸せさえも刻み込んで。
 巡り巡る季節のように。冬の後に春が来るように。
 彼女の世界にも、いつか光が差し、暖かさで満たされますように。
 私はそう願い、彼女の言葉を待った。
「ああ、そうか……」
 そう言って、吸血鬼であり、私の主であり、そして誰よりも私が大切に思う彼女――伽耶が。
 何の翳りもない、恐れもない、無垢な笑顔を私に向けるのを確かに見た。
 だから。
「ありがとう、桐葉」
 その笑顔を、きっと私は忘れない。

《了》