桜の咲く頃に

桜の咲く頃に

「……ん」
誰だ……?
「……き……ちゃん」
――んだよ。うるさいなぁ。せっかくの春休みくらいゆっくり寝かせてくれよ。
「ひろゆきちゃん」
だんだんと近くなるその呼び声は、オレの良く知った声だった。
「浩之ちゃん!」
だああああああぁぁぁぁ!
「あかりっ! 休みの日くらいは静かに寝かせてくれって言っただろーが!」
オレは目を覚まし、大声を上げ怒鳴りつけた。
オレの大声に、あかりは少し驚きながら、
「ご、ごめん。でも……」
と、言葉に詰まりながらも謝った。

§
高校2年の学年末テストも終わり、終業式を残すだけとなった。
昨日はテスト終了記念ということで、学校の帰りに、オレとあかり、そして雅史と志保の四人でバカ騒ぎをしたんだっけ。
志保のヤツはテストの結果が散々だったらしく半ばヤケ気味だったが、オレたちは何とか無事に乗り切ることができた。
まったく、あいつは去年も同じよう目に遭っていながらそれを繰り返すとは……反省ってコトバを知らんのか? よりによってこのオレに向かって、
「ヒロぉ~~、あたしの悲しみがわかるのはあんただけよ。いっしょに苦しみましょ」
などと。まるでオレのことを仲間のように言いやがって。いつの話をしてるんだ?
ま、あいつと同類にならないで済んだのは、このオレの日頃の行ないが良いからだな、きっと。
それから、昨日の夕食はあかりが作りに来てくれて、久し振りに家に泊まってたんだよな。
* **
昨日のことを思い出し、頭が冴えて来るのを感じながら、オレは言った。
「だいたい、おめーも昨日はあんなに大騒ぎしてたじゃねーか。家に帰ってからも夕食を作ったり……」
オレはにやりとして言葉を続ける。
「夜だってあんなに激しく……」
「ひ、浩之ちゃん!」
みなまで言うよりも早く、オレの親父ギャグに頬を紅く染めたあかりが慌てて言葉をさえぎった。
「何だよ。嘘じゃないだろ? お前だって昨夜はあんなに燃えてたじゃねーか」
「だって、あれは浩之ちゃんが……。
――もう、浩之ちゃんの意地悪……」
あかりは耳まで真っ赤に染めて、俯いて黙ってしまった。
相変わらずからかい甲斐のあるヤツ。
しかし、本来の目的を思い出したのか、まだ少し顔を紅くしながらも、
「そ、それよりも朝ご飯できたよ。冷めちゃうとやだから起こしに来たんだけど、まだ眠い?」
と少し遠慮がちに問うあかりの表情は、なぜか嬉しそうだ。
時計を見ると……げ、10時過ぎてるじゃねーか。これじゃ朝飯か昼飯かよくわかんねーな.。
「いや、まだ少し眠いけどしょーがねー。食べるぜ」
「うん、じゃぁお味噌汁温めなおしてるから、着替えて降りて来てね」
にっこりと笑うと、あかりは階段をとんとんと軽やかに駆け降りて行った。
さてと、それじゃオレも着替えて朝飯でもご馳走になるとするか。
寝間着代わりのTシャツを脱ぎラフな服装に着替えると、あかりの待つ1階へ降りて行った。
***
あかりは既にオレの分の盛り付けも終了し、準備万全の状態で席について待っていた。
オレはあかりと向かい合うように椅子に腰を下ろした。
「さ、どうぞ召し上がれ」
相変わらず、まるでガキのままごとのような台詞を言う。心の中で苦笑しながらオレは箸を取った。
「昨日の夕食の残り物で作ったありあわせだけど。どうかな?」
あかりが訊ねる。
「ん、イけてると思うぜ」
手短に答えながらも、料理を口に運ぶ手は休めない。あかりの作る料理は美味い。オレの好みを良くわかってるせいか、オレもついその好意に甘えてしまい、こうしてちょくちょく料理を作りに来てもらっているのだ。
まぁ、今日みたいに朝食まで作ってくれるようになったのは、そんなに昔のことではないんだが。
「そう言えば、今ごろじゃなかったか?」
オレはふとあることを思い出した。
「何? 」
あかりが訊き返す。
「ほら、お前がその髪形に変えたのが、だよ」
「うん」
あかりは去年の今ごろ――3月の終り頃、突然髪形を変えた。中学時代からずっとあかりのトレードマークだったおさげを止め、今の髪形にしたのだ。
「あの時はホントびっくりしたぜ。つい『ほんとにあかりか? 』なんて訊きそうになっちまったもんな」
1年前を思い出しながらオレは言った。
「またまた、そんなこと言って。最初に私を見た時、浩之ちゃん何だか難しい顔してたから、てっきり『似合わねー』とか言われると思って少し心配しちゃった。
でもその後、『似合ってる』、『可愛い』て言ってもらえて本当に嬉しかったよ。
思い切って髪形変えて良かったって思ったもん」
あかりも思い出しているのか、懐かしそうにそう言った。
「そんなこと言ったか? 」
ちょっと恥ずかしくなり目を逸らせながら言うと、
「うん、言ったよ。忘れちゃったの? 私はしっかり覚えてるけど」
オレの心を読むのが得意なあかりのことだ。オレがテレてるとわかってからかってるな。気恥ずかしくなったオレはこの話題を打ち切ることにした。
「もう止め止め。昔の話なんて」
「どうしたの? 浩之ちゃん。顔、赤いよ」
くすくすと笑いながらあかりが言った。
まじぃ、顔に出てたか。
「なんでもねーよ。ほら、冷めないうちにさっさとメシ食おうぜ」
強引にこの話題を切り上げ、あかりに言った。
「ふふふ、変な浩之ちゃん」
そんなオレを見ながらあかりはずっと微笑んでいた。
***
あの日が初めてだったような気がする。
それまで『幼なじみ』だったあかりを一人の『女の子』として意識したのは……
オレとあかり。
『幼なじみ』――友達以上に親しく、兄弟のようであるが、結局は他人にしか過ぎい奇妙な関係。
一緒に幾つもの季節を過ごし、誰よりも親しかったはずのあかりを、オレは単なる『妹』としか考えていなかった。
そして、オレはあの時初めて、妹のように思っていたあかりを『女の子』として意識した。それまでの『幼なじみ』ではない『女の子』としてのあかりを強く意識した。
オレとあかり。
『幼なじみ』という奇妙な関係を十数年間続けてきた。お互い超えてはいけない一線を意識しながら、その微妙で曖昧な関係を続けてきた。あるいは、お互い無意識に一線を超えないよう心を殺してしまっていたのかもしれない。
――いや。オレはあかりの気持ちに気づいていた。しかし、今のふたりの関係が壊れてしまうのを恐れ、あかりの想いに応えることから逃げていただけなのかもしれない。
オレがその境界を越える決心をしたのは、それからしばらくしてからのことだった……。オレンジ色の暖かな夕日に包まれたあかりの部屋でした初めてのキス。気持ちだけが空回りして、お互いの心を傷付けることしかできなかったあの夜。そして……

あかりはオレの隣に居る。
『あかりはあかり』、そんな単純なことに気づかず、傷付けることしかできなかったオレをあかりは受け入れてくれた。
許してくれた。
『好き』だと言ってくれた。
オレは本当に嬉しかった。
そしてその時になって、やっとあかりを、『妹』ではなく『女の子』として好きだという自分の気持ちに気がついたんだ。

あかりがオレの隣に居る。
お互いの本当の気持ちを確かめ合って、オレたちは結ばれた。
『幼なじみ』という曖昧な境界線を超え、恋人同士になったふたり。
ふたりで共に過ごした季節。今までは何気なかったことでも、全てが色づいて見えた。
春、夏、秋、冬――少しずつ、しかし確実に移り変わる季節の中、それでも変わることのないふたりの笑顔。
ふたりで撮った写真にはいつも、オレと、そして、幸せな微笑みを浮かべたあかりが写っている。

そして、再び春が訪れようとしていた……

「ふ~、ごっそさん」
「おそまつさまでした」
何度交わしたかわからないほどの何気ない会話。それでもあかりはオレのそんな一言にも嬉しそうに答えてくれる。
「じゃ私、後片付けするからちょっと待ってて」
「あぁ。それじゃ少し横になるかな?」
「うん、そうしてて」
キッチンで後片付けをするあかり。よほど機嫌が良いのか鼻歌まで歌っている。
「ら~ら~ららら~ん、らららん、らら、ら~……
ねぇ、浩之ちゃん」
皿を洗いながらあかりが訊ねる。
「何だ?」
「もうすぐ春休みだね」
「あぁ。やっと退屈な授業におサラバできるかと思うと嬉しくなるぜ。まぁ約1名補習の憂き目に遭いそうなヤツもいるがな」
「志保のこと? そんな風に言っちゃ可哀想だよ」
昨日の彼女の様子を思い出したのか、苦笑しながらあかりが言う。
「可哀想? いいんだよアイツは、それぐらい言ったって。
いっつも『志保ちゃん情報~~』とか何とか言いやがって、オレの平和な一日を台無しにしやがる。あんだけ色んな情報網を持ってるなら、試験の情報でも集めて少しはオレたちの役に立ってもバチは当たらんと思うんだがなぁ」
「う、そうかも……。でも大丈夫だよ。きっと志保も今回は補習なしで春休みに入れるよ」
「どーかな? もう1回2年生をやり直す、なんてことにならなきゃいいがな」
「……ちょっと笑えないかも」
ぎこちない笑みを返すあかり。
――っと、少し言いすぎたかな。あれでも志保はあかりの親友だからな、あんまり悪く言うのは止そう。
「――って言っても、アイツのしぶとさは一級品だし、何とかなるか?」
「そうそう、きっと大丈夫だよ」
言って、にっこりと笑うあかり。
相変わらず根拠のない信頼の仕方をする。
どっから出てくるんだその自信は?
洗い物を終えたあかりがキッチンから戻って来た。
あかりはソファで寝転ぶオレの横にちょこんと腰を下ろす。ちょうどオレの顔を見下ろすような状態だ。
暖かい春の陽気に再び眠気を誘われるオレ。食後にこの暖かさは、昼寝をしてくれと言っているようなものだ。
そんなオレの心を知ってか知らずか、あかりが声を掛けてくる。
「ねぇ浩之ちゃん。今日、これからどうしようか?」
「ん? あぁ、メシ食ったら、また眠くなっちまった。一眠りさせてくれ。
お前のほうは今日は用事とか無いのか?
あんまり帰りが遅くなると、お袋さん心配するんじゃねーか?」
あかりはいつもオレの家に泊まりに来る時は母親に嘘をついてくる。「志保の家に泊まる」と言ってくることが専らだが。
こんな嘘がいつまでも通用するとは思ないのだが、有難いことに、あかりのお袋さんは余計な詮索などしないでいてくれるようだ。
「うん。特に用事は無いし、それにお母さんには『夕方までには帰る。』って言って来たから今日は1日一緒に居られるよ」
「そっか。それにしてもあかり、ずいぶんと嘘が上手になったじゃねーか。
お袋さんにばれたら大変だぜ?」
あかりは少し困ったような顔をしたが、
「でも、お母さん、多分私が浩之ちゃんのところに泊まってるってわかってると思うよ。
相手が浩之ちゃんだから何にも言わないでいてくれるんだと思う」
「てことは、オレの母さんも知ってるってことか?
そんな素振り少しも見せてないのに……。
ちゃんと言っておいたほうが良かったかもな」
実はオレたちはまだ、お互いの両親にオレたちが付き合っているということをはっきりとは言っていない。
そう決めたのはオレなのだが、あかりの話からすると、薄々気づいているようだ。
「ま、今まで特に問題があったわけじゃねーし、別に隠してるわけでもねーしな」
「浩之ちゃんがそう言うなら、私からは何も言わないけど」
こういうことは後になればなるほど言いにくくなるのはわかっているのだが、今さらな気がして、なかなか言い出す機会がないのだ。
話し込んでいたが、いよいよ眠気に耐えられなくなってきた。やっぱり少し眠るか……
「さて、と。悪ぃな、あかり。少し昼寝させてくれ」
「うん。……浩之ちゃん?」
あかりがおずおずと訊いてくる。
「何だ?」
「ここで寝るの?」
「ああ。結構今日は暖かいから、別に毛布とかはいらないぜ?」
「――ひざまくら……してあげようか?
――あ、嫌なら別にいいんだよ。
でも、私一人で起きててもすること無いし、かといって別に眠いわけでもないし。
――それに、少しでも浩之ちゃんの側に居たいから……」
少し恥ずかしそうに、はにかみながらあかりが言った。
どうしたんだ? いきなりそんなことを訊いてくるなんて……。
ま、せっかくだし、あかりのご好意に甘えさせてもらうとしますか。
「んじゃ、お願いしようかな」
「うん」
頷くあかり。
「ホントに良いのか?」
やっぱり少し照れくさいので、つい確認してしまった。
「どうぞ」
あかりが苦笑する。
オレは身体を少しずらして、横に座っていたあかりの太股に頭を乗せた。
あかりがオレを見つめる。
枕とはまた違った柔らかい感触。これはこれで心地良いものがあるな……。
ふっ、と鼻腔に届く優しい匂い。――あかりの匂いだ。昔から少しも変わらないんだな……。
「おやすみ、浩之ちゃん」
「ああ」
微笑みながらオレを見つめるあかりの顔を少し眺めた後、ゆっくりとまぶたを閉じる。
まぶたの裏に浮かぶあかりの笑顔、ふわりとした優しい匂い。そしてあかりの体温を感じ、オレは奇妙な安心感に包まれた。
――そして、オレは眠りへと落ちて行った。

§
オレが再び目を覚ましたのは、それから数時間後
――夕闇の押し迫った黄昏時だった。
太陽は紅く染まった西の地平に大きく滲み、東の空から蒼く深い闇が訪れ一日の終わりを告げる――そんな時間。
どうやら、ずいぶんと長い間眠ってしまっていたようだ。もしかして今日は飯を食って寝ていただけなんじゃ……?
これじゃ、せっかくの休日がこれじゃ台無しだぜ。
――そう言えばあかりは?
あかりが掛けてくれたのだろうか? オレの体に掛けられた毛布をめくり、あかりの姿を探して辺りを見回した。
既に薄暗いリビングには暖かい夕日の光が差し込んで来ていた。
あかりのひざまくらがあんまり気持ち良くて、つい熟睡しちまったが、当のあかりがいつの間にか居なくなっていた。
「……あかり?」
あかりの名を呟いてみる。
返事が無い……黙って帰ってしまったのだろうか?
――その時階段から足音が聞こえてきた。
「――あ、目が覚めたんだ。良く眠れた?」
リビングに姿を現したあかりがいつもと変わらぬ優しい口調で訊いてきた。
「ああ。何か今日は一日寝てたみたいだな。おかげで気分爽快だぜ」
苦笑して言うオレ。
「ふふ、ホント、気持ち良さそうに眠ってたもん」
そんなオレの言葉に、あかりも苦笑で答えた。
「それより今までどこ行ってたんだ?
やっぱりオレが寝てる間、すること無くてヒマだったのか?」
「違うよぉ。さっきまではずっと浩之ちゃんにひざまくらしてたんだから。
それに私、浩之ちゃんの寝顔をじっくり見たのなんてすごく久しぶりだったから、見てるだけも全然飽きなかったよ?」
「な、何言ってんだよ。オレの寝顔なんて見たって面白いワケ無いだろ?
だいたい今朝だってお前のほうが早く起きてたじゃねーか」
一気にまくし立てるオレ。
恥ずかしさのためか、少しどもってしまう。
「そうだけど……」
あかりはまだ何か言いたそうな表情をしていたが、オレが照れているのを悟ると、顔をほころばせた。
「ところで、あかり、さっきまでどこに行ってたんだ? てっきり帰っちまったかと思ったぜ」
「ごめんね。夕日がきれいだったから……。
少し眺めてたの」
言ったあかりの顔が少し淋しげに見えるのは、茜色の夕日のせいだろうか?
「あかり、何か隠してないか?」
「え?」
きょとんとした顔で訊き返すあかり。
「一人で何考えてたんだ? オレに言えないようなことか?」
真面目な顔で訊くオレを見て、あかりは少し困ったような顔をしたが、やがて口を開いた。
「そんなに大したことじゃないんだけど……。
夕日を見てたら昔のことを思い出しちゃって……」
「昔?」
「一人でいると思い出しちゃうの。誰も居ない夕方の公園で浩之ちゃんを待っていたこと……。
来るかどうかなんてわからなかったけど。――ううん、きっと来てくれるって信じてた。
ずっと昔だって、浩之ちゃんだけが私のことを心配してくれていたから」
「あかり……」
淡々と言葉を紡ぐあかり。
「肩で息をしながら公園にやって来た浩之ちゃんを一目見て、私のことずっと探してくれてたんだってすぐにわかったよ。
私思ったんだ。やっぱり浩之ちゃんは優しいなって。そして、そんな浩之ちゃんが、私は大好なんだって……」
オレは何も言わずにあかりを抱き締めた。
――あの日と同じように。
あかりはびっくりしたような顔でオレの顔を覗き込む。
「ど、どうしたの?」
じっとオレを見つめるあかり。
「あかり……」
「な、何?」
「ホント、ゴメンな……。あの時、オレはお前に謝らなきゃいけなかったのに、お前のこと避けちまって……。
お前がどんなに傷ついたのかも考えないで、オレって自分勝手なヤツだよな」
自嘲気味に言うオレに、しかし、あかりは、
「そんなことないよ。浩之ちゃん、いっぱい悩んでたもん。自分のことも、私のことも……
私のこと気に掛けてくれてたんでしょ?
それだけで十分だよ――私が好きなのは、そんな優しい浩之ちゃんなんだから」
いつになく強い口調で言うと、あかりはオレの背中に両腕を回した。
「オレ、もうお前を傷付けるようなことは絶対しない。――約束するぜ」
オレの背に回した両腕に力が入る。
「ありがとう……。浩之ちゃん……」
あかりの肩が小刻みに震えている……。泣いてるのか?
「……」
オレは何も言わず、右手であかりの髪にそっと触れ、ゆっくりと、オレはその髪を撫で続けた。
――どのくらいの時間、そうしていただろうか?
「あかり……?」
そっとあかりに声を掛けてみる。
「……」
見るとあかりはオレの腕の中で、安らかな寝息を立てていた。
「なんだ、眠っちまったのか……」
あれだけオレにに心配掛けておきながら幸せそうに眠りやがって……。マイペースなヤツだな。
ま、あかりらしいと言えばあかりらしいが……。
――そう言えば、あかりのヤツ、オレが寝ている間ずっと起きてたって言ってたな。きっと疲れていたのに、無理して起きてたんだな。
オレはソファにあかりを寝かせると、オレが被っていた毛布をあかりに掛けてやった。
「……おやすみ」
オレは聞こえるはずもないその言葉を、あかりに向かってそっと呟いた。あかりが眠りについてから数時間。
辺りはすっかり暗くなり、静かな寝息を立てるあかりとオレの二人だけが、静寂に包まれたリビングに佇んでいた。
「……ん」
小さな声を上げたあかりが、ゆっくりと目を開いた。
「よ、お目覚めか?」
「あ、ひろゆきちゃん……?」
まだ意識がはっきりしていないのか、あかりはぼーっとした口調でオレの名を呟いた。
「私、眠っちゃったんだ?」
「あんまり気持ち良さそうに寝てたんで、起こさなかったら真っ暗になっちまった。
時間、大丈夫か?」
「ホントだ。もうこんな時間? 私、結構寝ちゃったんだ」
「ああ。お前の寝顔もばっちり見せてもらったぜ」
昼間のお返しとばかりに、いたずらっぽく言うオレ。
「も、もう。浩之ちゃんたら」
あかりは少し頬を紅く染め、恥ずかしそうな口調で言う。
「――しっかし、今日オレたち何してたんだろな?」
呆れたように言うオレ。
「ふふ、そうだね。眠ってただけで、何にもしなかったね」
「また、明日から学校か……。
くぅ~~、終業式が待ち遠しいぜ!」
そんなオレをあかりはくすくすと笑いながら見ていた。
§
「それじゃ、そろそろ帰るね」
あかりがそう言ったのは、二人で夕食を食べ、しばらくくつろいだ後のことだった。
もうかなり夜も更けてきている。
「気をつけて――って、すぐ近くだから関係ないか」
「うん、ありがと。
それじゃ、また明日迎えに来るね。寝坊しちゃダメだよ」
「わかってるって」
――夕方に帰ると言っておいて、こんな時間に帰宅か……。やっぱり暗くなる前に起こしたほうが良かったか?
そんなことを考えながら、オレはあかりを玄関で見送った。
どうやらあかりは一眠りしてすっかり元気を取り戻したようだ。
あかりはオレの家の前で振り返り、軽く手を振ってから自分の家に向かって歩いて行った。
オレはどうするかな? 寝てばかりいたから全然眠くないし……。テレビでも見て適当に時間潰すか……。
――そんなことを考えながら、結局この日も深夜番組に夢中になってしまい、気が付くと既に午前3時を回っていた。
――あかりとの約束、守れるかな?
そんなことを考えながら、オレは眠りについた。
――そして、変らぬ日常が始まる――
「おはよう、浩之ちゃん。今日はちゃんと起きれたみたいだね」
玄関でオレの支度が終わるのを待っていたあかりは、そう言っていつもと変らぬ笑顔を見せる。
「まーな、そう毎日寝坊ばかりしてられないからな」
今日は待ちに待った終業式、短かった3学期もついに今日で最終日だ。こういう気分の良い日は、早起きしても全然辛くないぜ。
「ふふふ、ホント嬉しそうだね」
「おうよ、後数時間の辛抱で春休みだからな。しばらく学校に行かず、のんびりできると思うと嬉しくもなるさ!」
そんな会話を交わしながらオレたちは家を出た。近所の公園を通り、学校へと続く坂道を登る。その途中でオレたちは不意に声を掛けられた。
「やっほー。あかり」
聞き慣れた声。誰かなど振り返って顔を見なくてもわかる。
――志保だ。
「おはよう。志保」
あかりが志保に挨拶を返す。
「よう」
オレは短く、そう答えた。
「なによぉ、ヒロ。ずいぶん不機嫌じゃない?
また寝坊でもしてあかりに起こされたんじゃないの?
――まったく、甲斐性無しの亭主を持つと大変だわ。ねぇ、あかり?」
志保は、やれやれといった様子であかりに言う。
こ、こいつは……。
オレの内心を察してか、慌ててあかりがフォローに入る。
「違うよ、志保。浩之ちゃん、今日は早起きしたんだから。
私が浩之ちゃんの家に言った時には、もう支度が終わるところだったんだよ」
「へぇ、珍しいこともあるもんね」
感心したように志保が言う。
「やっぱり終業式の日は早起きしちゃうんだって」
――フォローになってないぞ、あかり。
「あははは! やっぱりそんなことだと思ったのよ。
ヒロ、やっぱりあかりがいないとダメだわねぇ?」
してやったとばかりに、うんうん頷く志保。
この野郎……。オレが反撃しようとした矢先、
キーンコーンカーンコーン……
学校でチャイムの鳴る音が聞こえた。
「やばいっ、終業式に遅刻じゃシャレにならんぜ!」
オレは慌ててダッシュした。
「あっ! 待ってよぉ~、浩之ちゃ~ん」
「こら! ヒロ、一人だけずるいわよ!
待ちなさぁぁぁい!」
オレを呼ぶ二人の声が背後から聞こえるが、かまわずにオレは学校へと駆けて行った。「おはよう、浩之」
教室に着くと、先に来ていた雅史が声を掛けてきた。
「おっす、雅史」
「今日はあかりちゃんと一緒じゃないの?」
不思議そうな顔で訊く雅史。
「いや、あかりもすぐに来ると思うぜ」
オレがそう言った時、ちょうどあかりがオレたちの教室にやって来た。
「――な?」
自分の荷物を席に置くと、オレの所にやって来た。
「も、もう……。ひどいよ、浩之ちゃん」
肩で息をするあかり、頬もまだ紅潮したままだ。
「運動不足だな、あかり」
「そんなこと、言ったって、浩之ちゃんに追いつけるはずないじゃない」
乱れた呼吸を整えながら、苦しそうに言うあかり。
「おはよう、あかりちゃん」
「あ、おはよう、雅史ちゃん」
とりあえず、雅史に挨拶するあかり。
「どうしたの? すいぶん急いで来たみたいだけど」
「うん、浩之ちゃんが……」
雅史に事情を説明するあかり。
「浩之らしいと言うか何と言うか……」
あかりの話しを聞き終えると雅史は苦笑交じりでそう言った。
「ダメだよ浩之。あかりちゃんは女の子なんだから」
「ううん、いいの雅史ちゃん。浩之ちゃんを怒らせたの私なんだし」
うなだれて言うあかりを見ると、さすがに悪い事をしたという気持ちになった。
「あかり、悪かったな」
バツが悪そうにオレはあかりに謝った。
「ちょっとした冗談のつもりだったんだが、そんなに苦しかったか?」
「私は大丈夫。それより志保にも謝ったほうが良いと思うよ……」
おそるおそる言うあかり。
「志保のヤツ、そんなに怒ってたのか……?」
「うん、『ヒロぉ~、覚えてなさいよぉ! 』とかって言って、すごく悔しがってたよ……」
志保のマネをしてあかりが言うが、全然似てない……。
――それは良いとして。
志保が怒ろうが知ったこっちゃないが、あいつの『仕返し』ってのが気になる。
――自他共に認める『歩く校内ワイドショー』のあいつに根も葉もない噂を流されたら――そんなことを考えるとぞっとした。
何とか手を打たなくては。
「そ、そうか。志保にも後で一言謝っておくか」
力なくオレはそう言った。それから終業式は万事滞りなく終了した。
お決まりの校長の長話、生活指導の教師の諸注意など、誰も聞いちゃいないような話を延々と聞かされる、こっちの身にもなってみろ。
オレはと言えば、そんな話を子守唄代わりにして当然のように熟睡していたが……。
終業式も終了し、各教室で最後のホームルーム。
担任の教師からありがたいお言葉を戴く。
「……いいか、お前たちも4月からは3年生。高校生活最後の年だ。
大学進学を希望する者も大勢居る。春休みだからと言って気を抜かず、受験生らしい充実した休暇にして欲しい。
以上だ」
話が終わると、待ちかねたように席を立つクラスメートたち。
充実した休暇、ね。――遠回しに『怠けず勉強しろ』と言っているようなものだが……。
大学受験か……。
入学した頃は関係ないことだと思っていたが、オレもとうとう受験生か。まだ実感の沸かないオレは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「どうしたの? 浩之」
唐突に雅史が声を掛けてきた。
「いや、オレたちもついに受験生になっちまったなって」
「そうだね。何だかあっという間に2年も過ぎちゃったね」
相槌を打つ雅史。
「さて、と。そろそろオレも帰るかな。
雅史はどうするんだ? 久しぶりに一緒に帰るか?」
訊くオレに対し、雅史は済まなそうに、
「ごめん、浩之。今日はこれから部活のミーティングがあるんだ。春休み中のスケジュールを決めないとね」
「そっか」
「ごめん」
「いいって、いいって。
じゃ、オレ帰るわ。部活頑張れよ」
「ありがとう」
軽く手を振って雅史と別れた。

教室を出たところであかりに会った。
「浩之ちゃん、今帰り?」
「ん? ああ」
「良かった、一緒に帰ろう?」
いつも決まってあかりはオレにそう訊いてくる。毎日一緒に帰っているんだから、いちいち訊かなくても良いんだが、あかりなりに気を遣っているらしい。
もちろん、それに対するオレの答えも決まっているのだが。
「いいぜ」
オレの言葉を聞いて、あかりはぱっと顔をほころばせる。
オレたちは二人で玄関へとやって来た。靴を履き替え外へ出る。
校庭へ出たところであかりが訊いてきた。
「ねぇ、浩之ちゃん。志保に会った?」
「いや、朝から会ってないけど」
「じゃあ、まだ今朝の事、謝ってないんだね?」
心配そうにオレを見るあかり。
「そんなに心配するなよ。志保のヤツだっていつまでも怒ってないだろ?」
さっきまでの不安もどこへやら、気楽に言うオレ。
「いいえっ!」
後ろから聞こえたその声に驚いて振り向くと……。
案の定、志保が居た。
「ヒロっ! 今朝はよくもやってくれたわね。
あんたのおかげで遅刻しそうになるわ、先生に怒られるわ、やっぱり今年も補習は付くわで、もぉ散々よ!
いったいこの責任どう取ってくれるのかしら! ?」
びしいっとオレを指差しながら志保は一気にまくし立てた。
「ちょっと待て! 後の二つはオレのせいじゃないだろうが!」
やっぱり補習か……などど、内心ツッコミを入れつつ反論するオレ。
「いいえっ!
空が青いのも、郵便ポストが赤いのも、みぃぃんなあんたのせいっ!
この志保ちゃんを怒らせてただで済むとは思ってないでしょうね?」
どこかで聞いたような気のする訳のわからん理屈を口にする志保。オレは不覚にもその迫力に気圧され、一歩後ずさる。
「し、志保……」
あかりはただおろおろと、オレと志保の顔を交互に見ることしかできない。
「あかりだってそうでしょ?」
「え? え?」
突然話を振られ慌てるあかり。
「か弱い女の子二人を残して一人でさっさと学校にダッシュで行っちゃうような薄情者を、あんたは許せる?」
「志保、私は別に……」
あかりの答えも待たずに、
「ほら、あかりだって許せないって言ってるわよ」
勝手に決めつける。
「言ってねーよ!」
売り言葉に買い言葉、ついにオレはそう叫んだ。
「だいたいなぁ、先生に怒られるのも、補習を受けるのも、全部お前の日頃の行いが悪いからだ! オレのせいじゃねぇ」
「キーッ! 言うに事欠いて『日頃の行いが悪いから』? それはお互い様でしょ?」
「一緒にすんな! オレは先生に怒られもしなければ補習も受けねぇ」
「ますます悔しい! ヒロならきっと補習だと思ってたのに」
激しく言い争うオレたちを呆然と見ていたあかりだが、ようやく口を開いた。
「浩之ちゃん、志保に謝るんじゃなかったの?」
――う、余計な事を……。
その一言を聞いた途端、にやりと笑う志保。
「なんだ、そうだったの? だったら最初から謝れば良いのよ。
ホラ、謝りなさいよ。
た・だ・し、心がこもってないと私が思ったら覚悟なさい。『藤田浩之の恥ずかしい秘密ベスト10』が全校に知れ渡るわよ!」
な、なんだ、その『恥ずかしい秘密』って……。
自分でも心当たりがないのがかえって恐ろしい。
「わ、わかったよ……」
意を決しオレは口を開いた。
「悪かったな」
ぶっきらぼうに言い放つ。
「ダ~メ。心がこもってない。もう一度」
楽しそうにオレのことを見ながら志保が言う。
こ、こいつは……。
オレは内心の怒りを抑え、極力平静を装いつつ、
「済まない、オレが悪かった」
何とかそう言った。
「まぁ、それで許してあげましょう」
勝ち誇ったような表情で志保が言った。
「それじゃ、これからヤックにでも行きましょうか。もちろんヒロのおごりね?」
「どうしてオレのおごりなんだ? 自分で出せよ、それくらい」
「ふっふ~ん? いいのかなぁ、そんなこと言っちゃって? あたし、口が軽いから思わず喋っちゃうかもよぉ、あんたのヒ・ミ・ツ」
くっそぉ。相変わらず人の弱みに付け込んできやがって、なんてヤツだ。
しかし、言う通りにしなければどんな噂を流されるか分かったもんじゃない。ここは我慢だ、オレ。
オレはしぶしぶ志保の言う通りにすることにした。
「わぁったよ。しょーがねー。今回だけだからな!」
「物分かりがよろしい。
あ、そうそう。もちろんあかりの分もあんた持ちね」
「何ぃ! ?」
「え?」
その一言に、オレと当のあかりまでもが驚きの声を上げた。
「どうしてあかりの分までオレ持ちなんだ?
この取り引きは、オレとお前じゃなかったのか?」
しかし志保は慌てず、ちっちっちっ、と人差し指を振りながら、
「甘いわね。あんたに迷惑掛けられたのはあたしだけじゃないわよ。あかりだってそうじゃない。
ね、あかり?」
「え……? 私は別に……」
困った顔で言い淀むあかり。
「ダメよ、あかり。ここはビシっと言ってやんなきゃ。また同じことの繰り返しになるわよ」
「う、うん」
あかりは済まなそうにオレの方を見た後、小さく頷いた。
「と、言うわけよ。ヒロ、観念 しなさい」
「わ、分かったよ。おごればいいんだろ、おごれば」
オレは半ばヤケになってそう言った。
「ごめんね、浩之ちゃん……」
俯いたままぽつりと呟くあかりを見て、
「気にすんな、たまにはオレの太っ腹なとこを見せてやるさ」
オレは思いっきり心にもないことを言ってしまった。
「うん、ありがとう」
オレの気持ちを知ってか知らずか、あかりはそう言って微笑みを浮かべた。

――結局その日は志保のペースに乗せられ、ヤックの後もゲーセン、カラオケと、遊び疲れるまで付き合わされてしまった。
しばらくは節約しないとな……。
オレは軽くなった財布の中身を見てため息をつきながら思った。

§
待ちに待った春休み。
しかし、休みが始まって喜んでいたのも束の間、今度はすることも無く暇な毎日が続いている。
思うに休みが待ち遠しいっていうのは、退屈な学校生活から抜け出したいという願望の現われなんだろう。
実際、休み中の予定を特に決めていなかったオレの毎日は、昼過ぎに起き、適当に時間を潰し、深夜になってから寝る、という何とも自堕落な生活になってしまっている。
春休みが始まってから1週間余りが過ぎた。
カレンダーも3月から4月に変わりしばらく経った頃、その日も暇を持て余していたオレは気分転換に近所の公園に散歩に出かけた。
最近はめっきり春らしい暖かい陽気が続き、降り注ぐ日差しと頬を撫でる風がとても心地好い。
公園のベンチに腰を下ろしぼんやりと辺りを見回してみる。
――いつもの見慣れた公園。しかし、芝生に芽吹く若草たちが、確実に春の到来をオレに感じさせる。
植え込みに植えられた桜の木々も徐々につぼみを広げ始め、少し早めの花見を楽しんでいる人も居る。
この分なら週末には桜の花が満開になるだろうな……。
ふと、そんなことを考える。
そう言えば去年はあかりと二人で花見に行ったんだよな。
雅史や志保を加えた4人で花見をしたことはあったけれど、二人きりで行ったのはあの日が初めてだったような気がする。
舞い散る桜の花びらの中、静かに佇むあかりの姿が思い出される。
――よしっ、あかりを誘ってまた花見に行こう!
突然そんなことを思い付いたオレは、早速あかりの家へ向かって歩き始めた。あかりの家はオレの家からほんの数分の所にある。
子供の頃はよく遊びにも行っていたのだが、最近はやはりそんな機会はめっきり減ってしまった。
うーん、いざとなると何か緊張するな……。
久し振りにあかりの家の前に立つオレ。もう何ヵ月もあかりの家になんて遊びに来てないしな。
意を決し、チャイムに指を伸ばす。
ピンポーン。
「……はーい」
家の奥から返事が聞こえてくる。
ほどなくオレの目の前のドアが開けられた。
「あら、浩之くん。いらっしゃい」
オレを出迎えたのは、あかりのお袋さんだった。
彼女はオレの姿を見ると、あかりによく似た微笑みを浮かべた。
「こんちわ。あかり、居ますか?」
軽く会釈をし、オレは尋ねた。
「ええ、ちょっと待ってね」
そう言うと、彼女は振り返り、あかりの名を呼んだ。
「あかりー、浩之くんよー」
かちゃり……。
2階の方で小さくドアの開く音が聞こると、あかりが階段を降りてきた。
「あ、浩之ちゃん。どうしたの?」
少し驚いたような顔をしてあかりが訊く。
「さ、浩之くん。上がってちょうだい」
あかりのお袋さんがオレを促す。
オレは靴を揃えると、
「お邪魔します」
そう言ってあかりの家に上がった。
「あ、じゃあ、私の部屋に来る?」
「ああ」
オレはあかりの後ろについて階段を上って行った。
「どうぞ、少し散らかってると思うけど」
言いながらドアを開ける。
「今、お茶淹れて来るね」
あかりはそう言い残して、また下へ降りて行った。
オレは適当な場所に腰を下ろし、あかりが戻るのを待つ。
久し振りに見るあかりの部屋。
以前と余り変わっていないように思える。
あかりのベッドの枕もとには、オレが昔あかりにあげた全然可愛くないクマのぬいぐるみが、相変わらず鎮座ましましていた。
こんな無愛想なクマのぬいぐるみをもらってクマ好きになるなんて、変なヤツだよな……。
――クマ好きにさせた張本人が言うのも何だが。
とん、とん、とん。
あかりが再び階段を上って戻って来た。
「お待たせぇ」
にっこりと笑って淹れたてのコーヒーをテーブルの上に置いた。
「はい。浩之ちゃん、ブラックで良かったよね?」
「ああ」
オレは答え、一口コーヒーをすすった。
ブラックのコーヒー独特の苦みが口の中いっぱいに広がる。
あかりは砂糖とクリープをたっぷりと入れ、ゆっくりと口をつけた。
――子供っぽいヤツだな――そう思いながらあかりを見ていると、オレの視線に気付いたのか、
「な、何?」
照れ臭そうにオレから視線を逸らす。
「いや、別に」
オレはそう言ってごまかした。
「ところで、今日はどうしたの?」
あかりが当然といえば当然の質問をしてきた。
「あ、悪ぃ。迷惑だったか?」
「ううん、そう言うわけじゃなくて……。
浩之ちゃんが私の家に遊びに来るなんてすごく久し振りだったから……。
何か大事な話?」
「あ、いや。大した用じゃないんだけど。
ほら、お前、去年の春休みの終わりに一緒に花見行ったの覚えてるか?」
「え、うん。覚えてるよ」
頷くあかり。
「今日、散歩してたら公園で見た桜の花があんまり奇麗で、オレもそのこと思い出したんだ」
あかりは黙ってオレの話を聞いている。
「それで、もし暇があったらまた行かないか? 花見」
「え?」
「だから、花見」
きょとんとした顔で聞き返すあかりにオレはもう一度そう言った。
オレの言った事を理解したあかりは、嬉しそうに笑うと、
「うん!」
と言って頷いた。
「じゃ、いつにしようか?」
「オレは別にこれといった予定は無いから、お前の都合のいい日でいいぜ」
「そっか……」
あかりは少し考えた後、
「今度の日曜日がいいな」
「日曜日って、5日か」
「うん。――ダメかな?」
「いや、それじゃ、その日にするか?」
「うん!」
言ってあかりはもう一度にっこりと微笑んだ。あれからオレはあかりといろいろな話題に花を咲かせた。――学校のこと、友達のこと、些細な日常の出来事のこと……。
――気が付けば、外はもう薄暗くなってきていた。
そろそろ帰ろうということになり、1階の玄関で靴を履いていると、あかりのお袋さんがオレに声を掛けてきた。
「あら、浩之くん。もう帰り?」
「あ、どうも。お邪魔しました」
彼女は少し残念そうな顔をすると、
「せっかくだから、お夕飯も食べっていってもらおうと思ったのに」
「すいません」
「あ、別にいいのよ。気にしないでね。
また今度、遊びに来てちょうだい。その時はごちそうしてあげるから」
「ありがとうございます。
――それじゃ、お邪魔しました」
言ってオレはあかりの家を出た。
「ご飯、食べて行けば良かったのに……」
家を出た所であかりが一人ごちた。
オレに向かって言ったつもりじゃなかったのだろうが、その一言をオレは聞き逃さなかった。
「バーカ。いくらオレだって、遠慮ってものがあるだろ」
はっとしてオレを見るあかり。オレに聞こえるとは思ってもいなかったようだ。
「あ、ご、ごめん。そういうつもりで言ったわけじゃ……」
「また来るさ。お袋さんもああ言ってくれたしな」
「うん、待ってる」
「じゃ、そろそろ帰るか」
「気を付けてね」
寂しげな表情を浮かべ、あかりは俯いてしまった。
――うーん。なんか帰りづらいな。こんなあかりの顔、見たくないしな。
ふと、オレはあることを思いた。
「あかりっ!」
突然、オレは少し強い口調であかりの名を呼ぶ。
「え?」
びっくりして顔を上げるあかり。
オレは素早くあかりの顎に手をあて、唇を重ねた。
――ほんの一瞬。
お互いの唇が軽く触れる程度のキス。
一瞬何が起きたかわからなかったようだが、途端に真っ赤になってまた俯くあかり。
「ひ、ひ、浩之ちゃん……!?」
伏し目がちにオレの顔を覗き見るあかり。
「スキあり、だぜ? あかり」
オレは言ってにやりと笑った。
「そんな暗い顔すんなよ、な?」
「う、うん」
あかりは恥ずかしそうに俯いたままだ。しかし、さっきまでのような寂しさは感じられない。
「じゃな」
「うん……。ばいばい」
ほんのりと頬を染めたままのあかりは、そう言って目を細め微笑んだ。
オレはそんなあかりに見送られ、あかりの家を後にした。
§
そして、約束の5日が来た。
花見は夕方からという約束をしていたので、それまでは適当に時間を潰していた。
持って行く荷物のチェック、アルコール、つまみ類の買い出しなど、準備は全て終わっている。
時間的にもそろそろあかりが来る頃だと思うのだが……。
夕日の射し込み始めた家の中を見回しながら、オレはあかりが来るのを待っていた。
それからしばらくして、
ピンポーン
チャイムの鳴る音が聞こえてきた。
あかりに違いない。
オレは玄関まで行き、ドアを開けた。
「よう、遅かった……」
あかりの姿を確認し、そう言おうとした矢先、オレはあかりの後ろの人影に気が付いた。
「やっほー」
「やあ、浩之」
し、志保……。おまけに雅史も。
「あ、あかり……? これは一体……」
オレの問いかけに対し、あかりの代わりに志保が口を挟む。
「ヒロぉ、あかりに聞いたわよ。
全く、あたし達に声を掛けないっていうのはどういうつもり?
お花見なんて大勢で行った方が楽しいに決まってるじゃない」
「おめーにゃ聞いてねー」
オレの言葉に少しむっとする志保。当然オレは無視。
「ごめんね、浩之ちゃん。偶然志保に会っちゃって。
志保にこの事話したら、こうなっちゃたの……」
申し訳なさそうに言うあかり。
「あらぁ? お邪魔だったかしらぁ?」
わざととぼけたような口調で志保が言う。
「おめーは邪魔だ」
「何ですってぇ! ?
聞いた、雅史? 。ヒロの奴はあたし達との友情なんてどうでもいいって言ってるわよ! 」
「そうは言ってねーよ! 」
「ま、まあまあ」
苦笑しながら志保をたしなめる雅史。
「ごめんね、浩之。志保がどうしてもって言うから僕も来ちゃったけど。
もしホントに迷惑だったら言ってよ、僕たちは帰るからさ」
う、雅史にそこまで言われると……。
「あかり、どうする?」
オレはあかりの顔を見る。
「え?」
「こいつらも一緒に行っていいか?」
「え、いいの?」
「オレが訊いてるんだよ」
「浩之ちゃんがいいんだったら、それでいいよ」
ちっ、しょーがねー。
オレはあかりと二人きりの静かな花見を諦めた。
「わぁったよ。一緒に行ってもいいぜ。
ただし、お前らの分の食い物とかは用意してないからな」
「そう言うと思って……」
志保は後ろ手に下げていた買い物袋をオレに見せた。
「ほら、あたし達の分は、ちゃぁんと用意してあるのよ」
言って雅史と顔を見合わせる。
――こいつら、確信犯だな。
「ごめんね、浩之ちゃん」
「いいって、気にすんな。これはこれで楽しいだろ?」
「うん、ありがとう」
まだ気にしているあかりにオレはそう言った。
「そうと決まったらさっさと行きましょ」
「おめーが仕切るな! 」
オレは志保に悪態をつきながらも、公園に向かって歩き出した。公園は既に大勢の花見客で賑わっていた。
「うわ、オレ達の座る場所なんて残ってるのか、これ……?」
余りの賑わいに、オレは思わずそう言った。
「ホント、すごい人だね」
あかりも素直な感想を漏らした。
「あんた達、こうなる事の予想ぐらいできなかったの? ほんと無計画ねぇ」
呆れたように志保が言った。
「う、うるせー。しょうがねーだろ。
こんなに混むとは思わなかったんだよ! 」
「仕方ないわねぇ。ほらこっち、ついて来て」
オレ達は志保に言われた通り、志保の後について行った。
公園の通りを外れ、しばらく歩くとさすがに人気が無くなってきた。
「この辺でどう?」
「この辺、って。なんでお前がこんな場所知ってるんだ?」
「ヒロ、このあたしの情報網を甘く見てもらっちゃ困るわねぇ。
この辺りは電灯とか無いから、結構な穴場になってるのよね」
確かに、向こうの方に比べてかなり薄暗い感じはするが、雲一つ無いせいで、月明かりだけでも十分な明るさが得られている。
「どぉ、感謝なさいよ。とっておきの場所なんだから」
得意げに言う志保に、
「今度ばかりは助かったぜ」
オレは素直に礼を言った。
「じゃ、準備するからちょっと待ってね」
言ってあかりは持って来たシートを地面の平らな辺りに敷いた。
オレ達の用意したシートはそれほど広いものではなかったが、志保は御丁寧にも自分達用のシートまで持参して来ていた。
全く、用意のいいヤツだ。
結局、2つのシートをくっつけて敷いて、オレ達4人が座るには十分な広さが確保できた。
適当に腰を下ろし、持ち寄った食い物を広げる。
「あ、浩之ちゃん、またお酒なんて持って来て」
「おう。お前も飲むか?」
適当な缶を手に取ってあかりに差し出す。
「う、ううん。遠慮しとく」
あかりはそう言って、ジュースを手に取った。
「それよりもあんまり飲み過ぎないでね」
心配そうに言う。
「そうそう、あんた思ったよりアルコールに強くないんだから。
アル中でぶっ倒れるなんて、みっともないからやめなさいよ」
志保がからかう。
「おめーらだって、そんなに大量に持って来て、全部飲めるのかよ?」
そんな下らない会話を交わしながら、オレ達は思い思いに食い物に手を付け、飲む。
――結局オレ達って、花より団子だよな……。
オレはそんな事をふと思った。
オレ達の馬鹿騒ぎは止まることを知らず、夜は更けて行った。それから何時間経っただろうか?
持ち寄った食い物もあらかた底を尽き、オレ達はやっと本来の目的である花見をすることができた。
あかりはオレ達に強引に酒を勧められ、『1本だけね』と言って仕方なく飲んだのだが、その1本で見事に酔ぱらい、ぽーっとしている。
志保は勢いに任せてがぶ飲みし、結局は自分が酔い潰れてしまった。今は、仰向けに寝転がり、苦しそうに呻き声を上げている。
雅史は……。全っ然、酔っているように見えない。普段から何を考えているのかわからない節があったが、ここまで変化がないとかえって無気味に思える。
オレは昔の苦い経験から一気に酒をあおるような事はせず、自分のペースで飲んでいた。
そのせいか、酔い潰れたりはしないでほろ酔い気分で花見をする事ができた。
「……ヒロぉ」
苦しそうにオレの名を呼ぶ志保。
「何だよ?」
「気持ち悪い……」
「当たり前だろ、あんなに一気に飲んだら気持ち悪くなって当然だ」
「……トイレ、行きたい。連れてって」
「それぐらい自分で行け」
「動けないよぉ。ここで戻しちゃってもいいの?」
――それは困る。
「しょーがねーな。ホレ、立てるか?」
「立てない……」
全く世話の焼ける……。
オレは駄々をこねる志保を背負うと、公園の方へ引き返して行った。
薄暗い夜道。月明かりだけがオレたちの足元を照らし出している。
「ったく、加減てもんを知らねーのか、おめーは。人に『ぶっ倒れるな』なんて言っておいて、自分が潰れちゃしょーがねーぞ。
ぶちぶちと毒づくオレ。
「――少しは楽になったのか?」
訊くオレに、
「ヒロ」
背中の志保が答える。
「何だ? 吐きそうなんだったら言えよ。
間違ってもオレの背中には吐くな」
「違うわよ。――あかりの事よ」
いつになく真剣な口調。
酔っ払ってたんじゃないのか?
「あかりが、どうしたって?」
オレは視線を宙にさ迷わせながら、何気なく訊き返す。
「あんた達、付き合ってるんでしょ?」
「……気付いてたのか?」
自分でも驚くほど、オレは志保の言葉に冷静に答えることが出来た。
――ま、予想しなかったわけじゃないからな。
「去年の修学旅行のあたりから、薄々ね……。
多分雅史だって気付いてるわよ。
あのころからあんた達、それまで以上に一緒にいるようになったじゃない。学校の行き帰りはもちろん、お昼まで一緒に食べるようになれば、誰だって気付くわよ」
「そっか……」
志保は言葉を続ける。
「それに、あかり。あんたの隣にいる時のあのコの顔見た事ある? ホントに幸せそうな顔してるわよ。
こっちが恥ずかしくなるくらい、いい顔してるんだから。
――あんたは気付いてないんでしょうけど」
公園の通りに出る。電灯に照らされた桜の花々が輝いて見える。
「降ろして……。もう、大丈夫」
オレは何も言わず志保を降ろした。
志保はオレを見詰めて言う。
「いい? 絶対にあかりを悲しませたりしちゃダメよ。
あんた、意外とお節介なヤツだから、他人が困ってたりするとすぐに首突っ込んじゃうけど、程々にしときなさいよ。
ま、そこがあんたのいい所だっていうのは、あかりもあたしも分かってるんだけどね。
――これはあかりの親友としてだけじゃなく、あんたの友人としての忠告よ。
分かった?」
「ああ、分かってる。
オレもあかりに約束したからな……」
オレは真剣な眼差しで志保を見ながらはっきりと言った。
「――そう。あたしが言いたかったのはこれだけ。
ここまで連れて来てくれてありがと。
しばらくここで休んでいくわ。先に戻ってて」
志保は少しほっとしたような口調で言って、近くのベンチに腰を下ろした。
「分かった。先に行ってるからな」
「ん」
そう言い残してオレはあかり達の待つあの場所へ戻って行った。オレが戻ると雅史が声を掛けて来た。
「遅かったね、浩之。
あかりちゃん、酔っ払って今寝ちゃってるけど」
見ると、確かにあかりは静かな寝息を立てていた。気を利かせた雅史が自分の上着を掛けてくれたようだ。
「――ところで志保は?」
いつも通りの口調で訊いて来る。
「志保なら公園のベンチで少し休むって。
オレだけ先に戻って来たってわけ」
「そう。それじゃ、僕も向こうに行ってるよ。
ホントはあかりちゃんと二人で来るはずだったのに僕達が邪魔しちゃったし」
済まなそうに言う雅史。
「そんなことないぜ。こうやって4人で飲むのも結構楽しかったし」
「ありがとう。
――浩之」
「ん?」
「あかりちゃん大切にしてあげなよ?
あかりちゃん、小さい頃から浩之のことずっと好きだったんだから。泣かせたりしたら、いくら浩之でも許さないからね」
「お前に言われなくても分かってるよ」
ったく、こいつら示し合わせたように言いやがって。
お前らに言われなくても、オレは自分で『あかりを大切にする』って決めてたんだからな。
「生意気なこと言ってゴメンね。
――そろそろ向こうに行くよ。じゃ、あかりちゃんによろしく」
そう言って雅史はあかりに掛けた自分の上着を取ると、オレが来た道を戻って行った。
オレは眠っているあかりに自分の上着を掛けようとあかりに近付いた。
「――浩之ちゃん」
突然オレの名を呼ぶあかり。
「あ、悪ぃ。起こしちまったか?」
「ううん、さっきから起きてたから……」
――って事は……?
「……今の話、聞いてたのか?」
「ごめん。盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど、なんか起きづらくて」
「別に謝らなくてもいいけど」
「――やっぱり、雅史ちゃん気が付いてたんだね?」
「志保も気付いてたらしいぞ」
「そっか。……志保、怒ってた?」
「何で?」
「私、志保に何にも話してなかったから……」
「いや、全然。雅史と似たような事は言ってたけどな」
「そう、良かった……」
ほっと胸を撫で下ろすあかり。
辺りに再び沈黙が降りた。
オレ達は何も言わず、舞い散る桜の花を眺めていた。
「――桜、奇麗だね」
うっとりとしながらあかりが呟いた。
「ああ」
「今年も浩之ちゃんと来れて良かった……」
風に揺れる自分の髪を手で押さえながら、潤んだ瞳で桜を見詰める。
「――約束したからな」
「え?」
「去年来た時。
『また一緒に来よう』って約束しただろ? あの時」
「覚えてて、くれたんだ……」
言うあかりの声が揺れる。
大きなあかりの瞳に浮かぶ、珠の涙。
オレはそれをそっと指ですくった。
「――ほら、またすぐに泣く。
志保や雅史に見られてみろ、オレが半殺しにされちまうぜ」
苦笑して言うオレを見て、あかりは服の袖で自分の涙をごしごしと拭った。
「ご、ごめん。でも嬉しくて泣いたんなら、きっと許してくれるよね?」
そう言ってぎこちない微笑みを浮かべるあかり。
「だといいけど……」
そんなあかりの仕草が、オレにはたまらなく可愛く思えた。
静かに、ゆっくりと星が瞬く夜空に舞う花びら。
吹き抜ける春の風に揺れる木々のざわめき。
オレに寄り添って座っていたあかりが囁く。
「また、一緒に来ようね……」
あかりの言葉に、オレは視線をあかりに移し、
「ああ。来年も、その次も、そのまた次もいくらでも行ってやるよ。
――お前と一緒ならな」
最後の一言は恥ずかしくて目を逸らしてしまった。
顔が熱くなるのを感じる。
「うん。約束だよ……」
あかりは潤んだ瞳でオレを見詰めながら、そっとそう言った。
桜の花びらはそんなオレ達を包み込むように、風に舞い続けていた……。

§
――4月8日――
長いようで短かった春休みも昨日で終わり、とうとう始業式の朝を迎えてしまった。
オレは久し振りの学生服に袖を通し、クイック洗顔、クイック歯磨き、焼きたてのトーストをくわえ、玄関の鍵を開ける。
「おはよう。浩之ちゃん」
いつも通り、あかりがオレを家の前で待っていた。
「よし、行くぞ」
オレはくわえていたトーストを右手に持ちそう言うと、鞄を小脇に抱え家を出た。
「行って来まーす」
鍵を掛けた事を確認すると、オレはあかりと一緒に高校へと向かった。
公園を抜け、いつもの坂道を登る。
いくら2年間通い続けたとはいえ、久し振りに登るこの坂は少しキツイ。
オレはあかりのペースに合わせ、ゆっくりと歩いた。
「ねぇ、浩之ちゃん」
オレの隣りを歩くあかりが話し掛ける。
「何だ?」
「新しいクラス、どうなるかな?」
「そうだな……。去年はお前と雅史が一緒だったから楽しかったな」
「うん、今年も一緒のクラスになれるといいね」
「まーな。でも志保と同じクラスだけは勘弁して欲しいぜ」
苦笑しながら言うオレ。
「またまたぁ、志保が聞いたら怒るよ?」
「ま、どうなるかは行ってみてのお楽しみだな」
「うん」
話しながら歩いているうちに、高台にあるオレ達の高校が見えて来た。
校庭に入ると生徒会役員が新しいクラスの名簿を配っていた。
その周りにあふれる生徒達。名簿を見て喜ぶ者、がっかりする者、悲喜こもごもで見ていて面白い。
オレ達はどっちの方になるんだろう。
オレは役員から名簿を2部受け取りあかりに1つ手渡した。
「ほら」
「ありがと」
ぱらぱらとページをめくる。3年、3年、と。
お、あった。
早速オレは自分の名前を探す。
うー、毎度のこととはいえ、結構緊張するな……。
3―A、無い。
3―B、ここにも無い。
3―C……。
――あった! 今年はC組か……。
あかりは……。
続いてオレはあかりの名を探す。C組の女子の名簿欄を見る。
神岸、神岸……。
「あった!」
突然あかりが大声を上げる。
「見た! ? 浩之ちゃん。また一緒のクラスだよ!」
「何! ホントか?」
慌てて名簿に目を通す。
――ホントだ!
オレはC組の名簿の中に見間違うはずの無いあかりの名を見付けた。
「嬉しい! また一緒のクラスになれるなんて、夢みたいだね」
瞳に涙さえ浮かべながら、言って破顔するあかり。
「浩之ちゃん。今年1年もよろしくね!」
「ああ、こちらこそ、よろしくな」
――今年もいい1年になりそうだ。
オレは心の中でそう呟いた。――また、春が来た。
これから始まるあかりとの新しい1年に思いを馳せながら、オレは降り注ぐ眩しい春の日差しに目を細めた。
オレの側で微笑みを浮かべるあかり。
オレを見詰めるそんなあかりの笑顔が、いつもよりも眩しく見えた。
――了――

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