~はじまりはきみのうた~

2007年2月17日

~はじまりはきみのうた~

桜が芽吹き始める季節。
降り注ぐ陽射しは今年になって一番の暖かさを。
初春の風はわたしの髪をゆるやかになびかせて吹き抜けていきました。
物心付いてから十数度目の春がもう少しでやって来ようとしていました。

わたしはこの時期になると不思議とある場所に足を運びたくなってしまいます。
それはこの時期に訪れるのはあまりに似つかわしくない墓石の並ぶ土地だったり。
わたしが過ごした学校だったり。
『どうして?』
そんな疑問が浮かぶよりも、その場所から見る様々な風景が、感じる風が、陽光の暖かさが、わたしの心を捉えて離さないんです。
中学校の頃からずっと一緒の学校でお勉強してきた友達は、そんなわたしを少しおかしそうに笑って、でも時間が許せばわたしに付き合ってくれたりしていました。
きっと何か大切なことがあるのに、それを思い出せない歯がゆさを感じながら、この場所にやって来るんです。
一年ぶりに訪れたかつて母校は、変わらぬ様子でわたしを受け入れてくれるようでした。

最初はこの学校に進学しようと思って受験に訪れたときのことでした。
この校舎を見た時、無性に懐かしい感慨に包まれたことを覚えています。
既視感とでも言うのでしょうか?
実際にこの場所を訪れたのは初めてのはずだったのに、ずっと以前からこの風景を見慣れていたかのような錯覚を覚えました。

進路選択の際に調べたときに進路指導の先生に伺ったところ、随分と伝統のある学校のようで明治の時代から続いていた名門だったそうです。
開設当初は女学校、そして共学となってからもこの街では知らない人がいないくらいの。
この学校を受けよう、そう言ったときは先生も驚かれたようでした。
成績は悪くはなかったとはいえ決して勉強を得手としたわけではありませんでしたから。
それでも、普段のわたしからは想像もつかないような熱意が伝わったのでしょうか、先生もわたし次第だと最後には仰ってくれました。
季節の移り変わりを忘れるくらいに勉強に打ち込んだのは初めてのことでした。
ひと並みの自由な時間を惜しむように受験勉強に注ぎ込んで、ようやくこの学校に訪れたときのことでした。
『あれ……?』
『どうかしたの?』
『何だかこの学校見たことがあるような気がして』
『それって学校にあった資料とかじゃないの? 普段からぽーっとしてたけど今日はいつになく変だよ? 緊張してるの?』
『うー』
短く唸るように彼女に答えたわたしを、おかしそうに笑いながら、
『うそうそ、でもそんなこと今日は気にしちゃダメだって』
名残惜しそうに校舎を見上げるわたしを彼女は強引に引きずりながら校舎へと向かっていきました。
校舎ごしに見えた空は、どこまでも青く青く、それまで見たどんな空よりも澄んでいました。
涙が出そうなくらいの心の奥底をさざめかせるような懐かしい、そんな青さでした。

§

その場所を訪れたのは小さな偶然だったと今でも思います。
あるいは気付かないうちにわたしの周りで生まれていたそんな偶然には小さな小さな必然が散りばめられていたのかもしれませんけど。
誰が植えたのか分からないけど、立派な桜があると聞いたのは入学して数日が過ぎた頃のことでした。
クラスメートたちはみんな適応性が高くて、今までにないくらいの早さでわたしもみんなと打ち解けていきました。
わたしと一緒に受験した彼女とは残念ながら離れ離れでしたが、良くわたしの教室へ遊びに来ていましたし、生来の人懐っこさからか別のクラスなのにまたたく間に馴染んでしまいました。
そんなある日のことでした。
『ね、聞いた?』
『?』
何のことか分からないという表情を作ったわたしに、
『ほら、あの桜』
『あぁ、あの立派な……』
『うん、そうそう』
『あの樹がどうかしたんですか?』
『なんかね、出るんだって』
『は?』
『いや、誰も見たことないんだけど出るんだってさ』
好奇心を抑えきれない、そんな笑顔でぐいぐいと詰め寄る彼女にわたしはわずかに椅子を引きながら苦笑を浮かべました。
『だから、ゆ・う・れ・い』
一言一句をはっきりと話しながら、このご時世に似つかわしくない言葉にわたしは引き続き苦笑を浮かべていました。
『あ、信じてないでしょ?』
『誰か見たんですか?』
何故か意固地にその噂を否定したい自分がいました。
『う~ん、それがね、噂だけなんだよね~』
困ったように眉根を寄せながら彼女が言葉を続けました。
『それがね、一番最初に出たのはもうずっと前なんだって』
聞けばそれはわたしの年齢の何倍にも値するくらいの過去の話。
『それから何十年かしてね、また出たんだって。その時はすぐにいなくなっちゃったらしいんだけど……。でね、今年くらいがその周期を考えると怪しいって、もっぱらの噂だよ』
突飛な話でした。
そんな彗星みたいに何年に一回現れるなんて幽霊がいるなんて普通は考えません。
『ね、ちょっと行ってみない?』
『え?』
『じゃ、今日の放課後あの樹の下でね』
返事も待たずに彼女はわたしのクラスメートに手を振りながら教室を出て行ってしまいました。
『……』
普段なら一笑に伏するようなありがちな七不思議の類い。
でも、気になりました。
それがこの学校の至る所で感じる奇妙な懐かしさと関係があったなんてそのときは思ってもいませんでした。

風がそよいでいました。
青々とした若葉と桜の蕾。
風に抱かれながらわたしは樹の幹に身体を預け目を閉じていました。
闇。
そして見知らぬ手と冷たいような暖かいような不思議な温もり。
それはわたしであってわたしでない、奇妙な感覚でした。
白日夢のような非現実に満ちた感覚でした。
懐かしさと寂しさ、悲しさと嬉しさが入り交じったような、今まで感じたこともないような感覚に囚われていました。
『……ね……ば』
どこか遠くで聞こえるような声がわたしを現実に連れ戻しました。
『ねえっ!』
『……あ?』
『どしたの、ぼうっとして? こんなとこで立ったまま寝ないでよね、あたしが恥ずかしいんだから』
『え? あ、わたし……?』
『まったく、ちょっと遅くなったから急いで来たら気持良さそうに寝てるんだもん』
頬をぷっと膨らませて拗ねた口調で。
『でも、いい夢見てたのかな?』
『え?』
『なんか幸せそうだったから、ちょっと起こすの悪い気がしたんだよ』
『あ、ありがとうございます』
『ふふ、変なの、お礼なんて』
『あ……』
思わず口を突いて出た言葉にわたしは頬を染め俯いてしまいました。
『これだね、噂の桜って』
『そうみたいですね』
『ふ~ん、確かに随分と古くに植えられた樹みたいだけど、別におかしなところなんてないよねぇ』
訝しげに樹を見上げて、辺りをちらちらと見ながら観察を続ける彼女が、あるところで視線を止めました。
『ねえ、これって……』
『え?』
『ほら、見て見てっ』
少し興奮気味にわたしを手招きし、わたしもそれに応じて彼女の隣に立ちました。
『あ、これって、石碑?』
『そうみたいだね、誰も手入れしてないから苔むしちゃって気付きにくいけど』
『……』
『あ、ちょ、ちょっと?』
わたしは無言でその碑の表面の苔を削り取りました。
『なんて、読むのかな?』
後ろからぽそりと彼女の声が聞こえました。
もう、字もほとんど読みとれないくらいに古ぼけた碑文。
でも。
『近……衛』
『え?』
わたしがその文字を指でなぞりながら呟いた言葉に彼女は小さな驚きの声をあげました。
『……柚……』
『それが、幽霊の名前なのかな?』
わたしは無言で肯定を表しました。
『で、でも、なんで?』
『……?』
『あたしが聞いた話じゃ、その幽霊ってそんな悼まれるような亡くなり方じゃなかったってみんな言ってたよ?』
『……』
それは喜劇のような最期。
きっとマンガとかだったら笑いのネタにされてしまうような。
『食べ過ぎて柵を壊して転落なんて……随分変な最期だったって』
『きっと、その噂が間違ってるんですよ……』
『え、ちょ……分かるの? なんて書いてあるのか?』
『なんとなく、ですけど』
少なからず動揺を隠せない彼女を無視してわたしは碑に彫り込まれた文をなぞり言葉を紡ぎました。
悲しい物語の結末を自らの手で演出した彼女の話を。
『……』
ただ沈黙だけ。
そして。
隠された事実を伝えるひとがどうしていなかったのか。
わたしはなぜか分かった気がしました。
『忘れてほしかったんですね、きっと』
『え?』
『だから、その噂が広まったけど誰も否定しなかったんですよ』
わたしの口から漏れた言葉は誰の言葉だったのか。
『でも、忘れられるのは悲しいですよね……』
『……』
『きっとこのひとは忘れてほしかったけど、忘れられるのが恐かったんです。だからこの樹も、この碑もこのままなんですよ。このひとがいたという証としてずっとこの場所で全てを見つめ続けてきたんです。長い時間、ずっと』
『みんな知らないんだね、このこと』
『それがきっとこのひとが望んだことなんですよ』
『……かわいそう』
『だからわたしが覚えます。彼女のことも、彼女が好きだったひとも、温もりも思い出も』
『それってどういうこと?』
『分かりません、でも、わたしは忘れちゃいけないんです』
『そっか』
『はい』
静かに、風が流れました。
梢の揺れる音が優しく流れていました。
『ねぇっ、みんなに教えようよ、このこと。きっとここに眠っているひとも喜ぶんじゃないかな?』
名案とばかりにわたしの肩を揺する彼女に、わたしはゆっくりと首を横に振りました。
『もういいんですよ。この場所がこうなってるっていうことはきっと……』
『そ、そう?』
『きっと浮かばれていますよ。だからわたしたちだけが忘れなければいいんです』
『……うん。よく分かんないけどそう言うならそうしておくよ』
『ありがとうございます』
『だからお礼は変だって』
『あ……』
その言葉に、わたしはもう一度俯くしかありませんでした。

§

『もう、最後だね、この樹を見るのも』
『……そうですね』
三年間はあっという間でした。
勉強も、部活動も、きっとひと並みに充実した時間だったと思いました。
卒業証書を納めた筒を抱えながら、袴姿のわたしたちは万感の思いでこの樹を眺めました。
『ねぇ、結局誰とも付き合わなかったね』
『もう、そればっかり……』
からかい半分の言葉にわたしは小さく視線を逸らして答えました。
『ね、どうして? あんた、ちょっと変だけど、美人だし付き合いたいってあたしに言ってきた連中いっぱいいたんだよ、勿体ないな~』
『どうしてでしょうね? 勿体ないと言われればそうかもしれませんけど』
『でしょ? なんでだろうね? 少しはあたしに回してほしいくらいだったのに』
ぶーたれる彼女を羨ましく思いながら、
『なんとなく、ですよ。わたしが好きになれそうなひとがいなかっただけです』
『ふーん、で、あんたのタイプって結局不明のままなんですけど~』
『あ……』
『さあさあきりきり白状しなさいな』
芝居がかった口調で愉しそうにわたしに詰め寄る彼女。
『い、言わないとだめなんですか……?』
『ダ・メ』
きっぱりと言われてしまいました。
『うー』
『今日くらいは言いなさいよ、ずっと気になってたんだからね』
気持ち真面目な口調で問い質す彼女に。
『約束したんですよ』
『誰と?』
『覚えてません。いつだったのか、昔のようだけど、ずっと忘れていたような気もするんです』
『変なの……』
そうですね、と少し苦笑して、でも、と言葉を繋ぐ。
『きっとそのひとじゃないとダメなんです』
『って、どこの誰かも分かんないんでしょ? 顔は? 名前は?』
『分かりません』
にっこりと笑顔で答えました。
『はぁぁ~~~~』
思いっきり呆れたようなため息に、わたしも少しだけご機嫌斜めになりました。
『うー』
『あんたがそんな少女趣味だったとはねぇ。もっと早く気付くべきだったわ』
『そんなことないですよ』
『だってそうでしょ? そんな誰かも分からないひと待ち続けたら売れ残っちゃうわよ!』
『売れ残りって……』
『で、そのままひとり寂しい老後に突入しちゃうわよっ? いいの? それでもっ?』
『でも、わたしは……』
『……』
じっとわたしを見つめる視線が。
ふ、と柔らかくなりました。
『な~んてね、まぁ、あんたらしいわよ、やっぱり』
『は?』
あっけらかんとしたそんな言葉にわたしは拍子抜けした返事をしてしまいました。
『あんたの場合、どっか遠くを見てる感じがしたからね~、理由がそんなんだとは思わなかったけど。見た目も古風だけど、中身も古風だったとは』
からからと笑いながら彼女が背を向けました。
『ま、あんたならきっといいひとと逢えるよ。あたしが保証するから、ね』
『あ、ちょっと』
『ほら、あたしも彼氏待たせてるから、そろそろ行くね』
『あ……ごめんなさい』
『いいっていいって』
ひらひらと手を振りながら彼女が言いました。
『じゃ、ガンバんなさいよ』
わたしはその言葉に、ただ笑顔で答えるだけでした。

§

あれから一年。
「もう、一年……」
こっそりとわたしはこの樹を訪れていました。
本当にいいお天気です。
卒業してからずっと、大学の方が忙しくて、なかなか訪れる機会がありませんでした。
今日は講義の休講を口実にして、やって来たんです。
本当は午後の講義があるんですけど、今日くらいは大目に見てください。
随分と汚れてしまった碑石に水を掛けて簡単に掃除をします。
やっぱり誰もここには気付かないんでしょうか?
少し寂しい気がして、わたしは一生懸命碑を磨きます。
桜が咲くにはもう少し時間が掛かりそうです。
蕾をつけ始めた大きな樹は何事もなかったかのようにわたしを見おろしています。
そっと樹の幹に手を触れてみます。
不思議な懐かしさを与えてくれるこの桜の樹に。
なんなんでしょう?
記憶のどこかにしまわれている大切な思い出があるはずなのに。
そのことしかわたしには分かりません。
その思い出がなんだったのか。
温もりと幸せを与えてくれたひとが誰だったのか。
ひとりでいる寂しさが、この一年とても大きくなりました。
この樹と離れたせいなのか。
どうしてこんなに心が安らぐのか、誰か、教えてください。

気持ちいい風です。
青い空に吸い込まれそうです。
「……」
ちょっと辺りを見回します。
誰もいないのを確認して。
ゆっくりと口ずさみます。
ずっと忘れていた唄を。
「うーうーうーうーうううー」
ずっと彼女に『人前で唄っちゃダメだよ』なんて言われてましたけど、今日は唄いたいんです。
「うーううううううー」
心の底から浮かんで来るメロディを、不器用だけど音にして風に載せます。
詞のない唄。
伴奏も何もないけれど、わたしだけの大切な唄。
――がさがさっ
突然聞こえた葉擦れの音にわたしは身を固くします。
「あ、誰……?」
恐る恐る、音の聞こえた方向へ問い掛けます。
「どこかから首を絞められているような苦悶の声がッ!?」
聞こえた返事は返事とは程遠いものでした。
「……あれ?」
ひょっこりと顔を覗かせたのはわたしより少し年下くらいの男の子でした。
生徒さんでしょうか? 見慣れていたはずの制服姿が、少しだけ新鮮にわたしの目に映りました。
彼はばつが悪そうに頭を掻きながらわたしの元にやって来ます。
「……うー」
「今の唄、あんたが?」
恐る恐る、といった感じで彼が訊いてきます。
「……そうです」
そう答えたわたしに、彼は一転して破顔して、
「びっくりした、噂の幽霊かと思った」
なんて、失礼なことをいけしゃあしゃあと言います。
そんな態度に少しだけムッとしたわたしは、不満げに彼を睨みます。
「うー」
「あ、そ、その悪かったって」
「……」
「あ、あのさ……」
しどろもどろになる彼の姿がおかしくて、
「うふー」
わたしは我慢できず笑ってしまいました。
「うわッ」
後ずさる彼を見てわたしはくすりと小さくもう一度笑います。
「あなたは?」
「ん、ちょっと懐かしかったから、この場所が」
「え?」
「ほら、この碑石、あんただろ、いっつも掃除してたのって?」
「あ、はい……。でも、どうしてわたしだって?」
「ん~、なんでだろ。ただ、さっきの唄聴いたらそんな気がしてさ」
屈託なく笑う彼の笑顔に。
なぜが涙が零れそうになりました。
「ほら、この碑の伝説って結構悲しいだろ? 遠くからだったけど、ここ、たまに見てたんだ」
そう言って少しはにかみながら、
「いつも誰かいたけど、あんただったんだ」
彼が樹を懐かしそうな視線で見上げます。
誰かと被るようなその仕草と横顔に。
一瞬、何かが浮かびました。
学校。
空。
小さな女の子。
人形。
青。
夜。
そして。
優しい笑顔。
暖かな背中。
「あ……?」
「な、なんでッ!?」
「あ、あれ……?」
「泣かしたッ、俺が泣かしてしまったのかッ!?」
「ご、ごめんなさい」
慌てて涙を拭いながら、
「なんだか、懐かしい感じがしたから……」
「え?」
少しずつ蘇る懐かしい記憶。
思い出の中の面影。
違うけど。
やっぱり、そうなんだ。
約束って、願ってれば守られるものなんですね。
「あの、名前、訊いてもいいですか?」
わたしは覚えてます。
だから分かります。
あなただって。
ねぇ、志郎君。
「あ、別にいいけど」
ちょっと照れ臭そうに、彼が口を開きます。
「あっ、待って」
「?」
「やっぱりわたしから名乗りますね」
「あ、うん」
思い出さなくても、きっと分かってくれると思うから。
わたしのこと。
昔のわたしのこと。
ずっと巡り逢うことを夢見て、そして願いが叶って。
だからこれからはわたしが。
もう、離れないでいて、いいですか?
「わたしは……」
ねぇ、志郎君?

-了-