“「メリークリスマス」が言えなくて”

2007年2月17日

“「メリークリスマス」が言えなくて”

 はぁ。
もう、何度目か分からないため息が漏れる。
「こら、何ぼーっとしてるんだ?」
「そーだぜ、先生ぇ。ぼーっとしてんじゃねーよー」
「あ、ああ、ゴメンね」
っと、そうだ。
あたしは彼――花井春樹の差し出したタオルを受け取りつつ、そう答えた。
「周防。あんまりやる気のない姿をこいつらに見せるな。教える側が楽しくな
いと思われちゃ、こいつらだって稽古に身が入らんからな。考え事なら後にし
ろ」
至極もっともな正論だが、やはりこいつに言われると腹が立つことに代わり
はない。あたしだって、身が入らないこともあれば考え事をすることだってあ
る。
もっとも、花井が問題にしているのは、あたしが今、この場における自分の
役割を忘れていることだ。公私混同するな、つまりはそういうことだ。
「ん、そうだね、悪かったよ」
だから、あたしは今回は素直に折れてやる。
いつもだったらむかっ腹に任せてそのまま口論に突入してることだ。少しは
あたしも大人になってやらないとな。いつまでも中学生気分のままだなんて思
われちゃたまらない。
「おっし、お前ら、一休みしたら相手してやっぞ」
「えー、先生ぇ手加減しねーからやだよー」
「そーだよ、オレたち勝てないの分かってるくせに。少しは子どもをいたわれ
よー」
あたしだって、こんな子ども達に本気になるほどバカじゃない。
「ばーか、何甘えたこと言ってんだ。そんな気持ちじゃ強くなれねーぞ? 武
道ってのは身体だけ鍛えればいいってもんじゃねーんだぞ? 強くなりたかっ
たら頭も使え。それに負けたくないって気持ちがなくてどーする。そんなんじ
ゃあたしを負かすなんていつまで経ってもできねーぞ」
「うむ、こいつの言うとおりだ。常に鍛錬を怠らなければ、努力は必ず実るも
のだ。この僕を見たまえ!」
はっはっはっ、とさも自慢げに言う花井。
文武両道・品行方正・質実剛健、でもちょっとバカなこの幼馴染みのことは
とりあえず置いておくとして、
「ほら、じゃいつも通りで行くからね。あたしは攻撃しないから、好きなだけ
攻めていいぞ。あたしがガードできなかったらお前らの勝ち。時間切れならあ
たしの勝ち」
「うし、今日こそは一発当ててやるぜ、覚悟しろ、先生ぇ!」
「あはは、できるもんならやってみな! それじゃ花井、審判お願いね」
「分かった。それじゃ両名、位置に着け」
「おー!」
元気だけは一人前なんだから。
あたしも気を抜いてなんていられないね。
「うっし!」
ぱちん、と軽く両手で頬を叩き、気合いを入れる。
余計なことを考えるな。今は稽古に集中しなきゃ。
あのことで悩むのは今じゃない。
あたしは思考のスイッチを切り替える。
「さぁ、いつでもいいよ!」
気合いを入れたあたしの言葉に、一瞬だけ道場内の空気が緊張感を持つ。う
ん、いつもながらこの感じは悪くない。
「始め!」
開始の合図と同時に向かってきた小さな生徒の突きを捌きながら、あたしは
この緊張感に身を任せていった。

「ありがとうございましたー!」
「ましたー!」
「こら、『ありがとうございました』くらいちゃんと言え!」
「へへへ、またねー、先生ぇ~!」
「ああ、気を付けて帰るんだよ」
「僕のことは無視か!?」
「あ、ハナイもバイバイ~!」
「先生と呼ばんかーーー!」
毎度毎度、懲りもせず同じことを叫ぶ花井。
「花井~、アンタが嘗められてどうするんだよ」
「うるさい」
「さーて、今日の稽古はこれまで、っと」
軽く伸びをして冬の空気を吸い込む。
まだ火照った身体にはこの冷たさが心地よく感じられた。
「そうだな、お疲れ」
「お疲れ」
「さて、それでは僕は道場の掃除をするとしようか」
「あ、あたしも……」
「いや、今日は僕一人で十分だろう。半日しか使っていなかったし」
「え、でも」
「それに言っただろう、考え事は後にしろと。今日の稽古は終わり。後かたづ
けは一人で十分。だったら特に用事もない僕がするのが妥当だと思うが?」
「何カッコつけてんだよ、花井のくせに」
「ふん、気を利かせたつもりだったが余計なお世話だったようだな。それなら
周防一人に任せていいのか?」
「あー、うそうそ、ゴメン、今のなし。ありがと、花井サマ。ありがたくお言
葉に甘えさせていただきます!」
「最初からそう言え。せっかくの人の善意は無駄にするものじゃない」
「悪かったって……」
「うむ」
そう言って花井は背を向けて道場に向かう。
なんか悔しい。
恩着せがましい物言いがカンに障るわけじゃない。こいつはこんな言い方し
かできないけど基本的にいいヤツだ。ちっとばかし熱くなると周りが見えなく
なって暴走しがちなところが玉に瑕だけど、お人好しを絵に描いたらきっとこ
んなヤツになる、と思う。
でも、昔はもっと……。
もっと?
なんだっけ、もっとガキの頃はこいつもこんなんじゃなかったような気がす
るんだけど。
……そんなことはどうでもいいか。
ただ、あたしのことを何でも見透かしたような発言は、やっぱり悔しい。付
き合いはそりゃ、長いけどさ。
「花井」
一応、この言葉だけは言っておこっか。
悔しいけど、気を遣われて悪い気なんてしないから。
「ん?」
振り向くこともなく気のない返事。
「ありがと」
「何を今さら。気にするな」
「うん」
「……困ったときはお互い様だ」

「はぁ~」
疲れた身体にお湯の熱さが染み込んでいく。
「気持ちいいな、と」
思わずそう呟いてしまう。うわ、なんか年寄りくさいぞ、あたし。
お風呂につかったまま、筋肉をほぐす。ふくらはぎから太ももまで両手でマ
ッサージを繰り返し、ほどよくほぐれたら次は両腕。心地よい気怠さについう
とうとしたくなる。
ほとんど日課となっている稽古も、決して楽なものではない。小さい頃から
ずっと続けてきたことだからこそ、甘えで手を抜きたくなる部分もときにはあ
る。でも、その辺は花井と一緒にいる限り許してくれそうにない。自分にだけ
じゃなくて他人にも厳しい性格だから、融通が利かないったらありゃしない。
ぶくぶくぶく……。
はっ!?
湯船に顔まで浸けてあたしななんであいつのことを考えてるんだ!
だいたい、あたしが悩んでいたのはもっと別のこと……。
「あ……」
そう、多分考えないようにしていたこと。
「明日、どうしよ……」
今月に入ってからずーっと考えてきたこと。まだまだ時間はあると思ってい
たのに、その日は目前に迫ってきてしまっている。
ぶくぶくぶく……。
いや、今さらになっても結論が出ないあたしが悪いんだけど。
生きるか死ぬか。
to be or not to be。
え~い、いつまでもうじうじ悩むな、情けない!
こうなったら覚悟を決めるしかないだろ、美琴!
そう、悩んでもしょうがない。
こうなったら当たって砕けろだ!
勢いよく湯船から立ち上がって浴室を出る。
この覚悟が消えてしまわないうちに……。
少しだけ急いで、あたしは着替えを済ませ、部屋へと向かった。

「え……?」
一瞬、我が耳を疑う。
「あ、はぁ……。そうだったんですか」
「ごめんなさいね、美琴ちゃん。せっかく電話いただいたのに」
「あ、いえ、そんなことないです」
慌てて言いつくろう。心中の失望を表に出さないように。不自然に思われな
いように。
「正弘もこんな師走の忙しいときに、わざわざ東京の模試を受けに行かなくて
もいいのに。無理はしないように言ってるんだけど、言うこと聞いてくれなく
て」
「いえ、神津先輩の志望校、レベル高いですから。きっと少しでも本番に備え
ておきたいと思ったんじゃないかと思いますっ」
「そうかしら……」
「はい」
「でも、せっかくお電話いただいたのに……。何か大事な用事なら、あの子に
伝えておくけれど?」
「えっ?」
「ほら、道場のお稽古も行けなくなってしばらく経つし、そっちの関係のお話
なんでしょ?」
「あ、ええ。で、でもいいですっ。そんなに急ぎの用事でもないですしっ」
「そう?」
「はい、ありがとうございました」
「えぇ。あの子には美琴ちゃんから電話があったって伝えておくから」
「すみません……」
「いいのよ。あの子のこともっと鍛えてあげて欲しかったくらいだし」
「はぁ……」
「運動苦手だった割には頑張ってたから、きっと楽しかったんだと思うわ。美
琴ちゃんや道場の皆さんに感謝してるってよく言ってたもの」
「あ……」
「だから、ごめんなさいね」
「いえ、そんな……。それじゃ、すみませんでした」
「また、電話してちょうだいね」
「はい。失礼します」
無機質な切断音が受話器から漏れる。
震える指で電話のスイッチを切る。
「そっか」
確かにその可能性はあった。
「先輩、東京なんだ……」
失念していたのはあたしのミスだ。
何よりも、今まで先輩のスケジュールを確認しようとしなかったうかつさに
泣きたくなる。
……でも。
「でも、クリスマスくらいはこっちにいてくれたっていいじゃねーかよっ!」
八つ当たりは百も承知。
「もうっ、先輩のバカヤロウ」
ベッドにうつぶせになって枕に顔をうずめる。
そのまま枕を抱きしめて、目を閉じた。
どうせ、あたしの気持ちなんて知らないんだろうけど、これは堪えた。
本当に、涙が出てきた。

神津正弘。
生真面目な性格と柔らかな物腰で、とても二コ上の男とは思えないくらいの、
おとなしい先輩。
あたしの高校受験を機に短い間だけど家庭教師をお願いしたことが縁で、な
ぜかウチの道場にまで入門してしまった。
思い返せばホントにムチャクチャな理由であたしが強引に引っ張り込んだん
だけど、イヤな顔もせずに稽古に顔を出したときは正直驚いた。
ゼッタイ長く続かないと思った。あたしも無理に続けて欲しいなんと思って
いなかったし、そもそもあたしの発言自体イライラから来る嫌がらせに近いも
のだったのだから。
でも、結局一年近く、受験のために道場に通い続けることができなくなるま
で、先輩は休むことなく顔を出し続けてしまった。
なんで、って訊いたことがある。
「ねね、先輩? 無理に稽古出なくてもいいんだぜ。学校の勉強だって大変だ
ろ」
「うん、そうだね」
「もともとあたしが強引に入門させちゃったんだし」
「でも、美琴ちゃんの言うことも一理あったし。少しは鍛えられたと思うんだ
けどどうかな?」
力こぶを見せるポーズを取った先輩は気持ちよく笑った。
「まだまだだよー。せめて花井くらいにならないと強そうに見えないよ」
「そりゃ無理だよ。春樹くんみたいになろうと思ったら何年かかるか」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと続ければ強くなるって!」
「う~ん、そうかな」
気弱に笑う先輩の、そんな笑顔があたしは好きだった。

「あ、美琴ちゃん!?」
「先輩、これからよろしくねっ」
驚いた先輩が次の言葉を探しているうちに、あたしは機先を制すべく矢継ぎ
早に言葉を紡いだ。
「あー、でも先輩今年受験だもんねぇ、せっかくいい家庭教師がいたのに、も
うお願いできないと思うと残念だな。ま、分かんねーとこあったら訊くから、
そんときはよろしくね」
「う、うん。あの、美琴ちゃん?」
「何? あたしの制服姿、どー?」
「あ、それは、うん、似合ってると思うけど、その……」
おそるおそるといった感じで、先輩は訊いた。
「髪の毛、切っちゃったの?」
「あー、これ? 別に大したことじゃねーんだけどさ」
まだ慣れない髪型がくすぐったくて、指先で遊びつつ答えた。
ホントは大したことある。だって、髪切ったのだって……。
「どう……、かな?」
「うん、似合ってると思う。大人っぽくなったんじゃないかな」
「へへー、あたしだってもう高校生なんだからね」
先輩に、そういって欲しかったからなんだから。

生徒と先生じゃ、あたしはイヤだった。
本当は女の子として見て欲しかった。
ガサツで全然女らしくないあたしだけど。
先輩には女の子として見て欲しかった。
小さい頃から変えたことのなかった髪型を変えたのだって、少しは女らしく
なれるかと思ったから。
先輩が褒めてくれるのが嬉しかった。
いつからそう思うようになったのかなんて忘れちゃってた。
ただ、先輩と同じ場所で同じ時間を過ごせたことが嬉しかった。

これからも一緒にいられればいいなんて、そんな甘い夢を見ていた。

「え? あ、そうなんだ……先輩やっぱ頭いーね」
東京、か。
「そんなことないけど。でも、勉強したいことがあるんだ」
「へー、あたしはまだ大学受験なんて考えたくないなー。だって、高校受験で
あんな苦労したんだよ? しばらくは忘れさせてよ~」
「あはは……美琴ちゃんなら今からしっかり勉強してればそんなに慌てなくて
も大丈夫」
「えー? あたしこの学校入れたのだって最初は信じられなかったんだよ?
はっきり言ってバカだよバカ」
「ううん、そんなことないよ」
「なんか信じらんないなー」
「大丈夫、僕が保証するよ」
どきり、とした。
まっすぐな眼。
疑いすら入り込む隙のない言葉。
「あ、ありがと」
あたしの方が先輩を見てられない。
自分の気持ちを持て余してしまうなんて、初めての経験だった。
「それじゃ、あたし、次の時間の準備あるから行くね!」
少し朱に染まった頬を見られたくなくて、あたしは先輩の前から逃げるよう
に駆け出していた。

先輩が好き。
あたしには先輩が必要なの。
言いたい。
この気持ちを言ってしまいたい。
こんな苦しい思いさせないでよ。何とかしてよ。
先輩はあたしのことどう思ってるの……?

「──って言えたらどんなに楽か……」
ごろりと半回転して天井を見つめる。
なんだか昔のコトばかり思い出してしまった。
「ホント美琴さんらしくないったらありゃしない」
せっかく意気込んで、覚悟決めて電話したのに、ホント肩すかし。
先輩も家空けるならちゃんと言ってから出かけろってんだ!
明日が何の日か知らないんじゃねーのか?
「あ~……、ありえる。あのヒトなら」
一層、気持ちが重くなった。
「ったくさ、せっかくあたしも気持ちの整理付けて頑張ろうと思ったのに、こ
れじゃ」
一人でバカみたい。
さっきまでの意気込みもどこへやら。
もう、どうでも良くなった。
勝手にしろ!
東京でもどこでも勝手に行っちまえばいいんだ。
人の気も知らないで。
「バカヤロウ……」
その言葉は、あのヒトに対してなのか、それともあたし自身に対してなのか。

自分でも分からなくなっていた。

「やべっ、寝ちまった!?」
慌てて跳ね起きる。
携帯電話に着信通知。
「ん?」
見慣れた名前。
でも、珍しーな、こいつから電話なんて。
とりあえず、電話をかけてみる。何回かのコールの後、
「もしもし?」
「あ、美琴?」
聞き慣れた彼女の声。
「おう、どしたの? アンタから電話なんて珍しーよね」
「そう? ま、それはどうでもいいんだけど。アナタ明日は何か予定ある?」
「うーん……」
「あ、何かあるならいいの」
「まだ何も言ってねーだろ」
「だって、悩むくらいなんだから何かあったんじゃないの?」
何かあるつもりだったんだよ、とは言えない。
だいたい沢近には先輩のことなんて欠けらも話したことねーんだから。
「ん、別に何もねーよ。いつも通り稽古やって午後からはフリー」
「そ、じゃ、付き合えるわね?」
「あ、あぁ、別にいいけど……」
「わたしも予定が空いちゃって困ってたところなの」
「へぇ、アンタん家はパーティくらいするもんだと思ってた」
「いいでしょ、お父様の都合が付かないんじゃパーティどころじゃないもの」
「ふーん」
何とはなしに聞き流して、逆にあたしから問いかける。
「んじゃ、どーする?」
「そうよね……わたしたちだけってのは寂しすぎるわよね」
「あー……、そんじゃこーする? ウチの道場の連中集めてクリスマスパーテ
ィ! 野郎ばかりで悪ぃけど、盛り上がるんじゃね?」
「え?」
あ、少し引きやがった。
前のことを根に持ってやがるな?
「あ、前みたいに絡まれたりはしないと思うから心配しなさんな。ガキどもも
結構いるからやかましいかも知れないけどね」
「それは別に、かまわないけど」
「んじゃ、そーいうことで」
「ええ、じゃ、明日適当な時間にそっち行くから」
「ん」
簡単に答えて電話を切る。
勢いで約束しちゃったけど……。
「ま、いっか」
しょうがねーもんはしょーがねー。
だいたいあたしがいつまでもうじうじしてるなんて気持ち悪いよね。
道場のみんなと過ごすクリスマスだって、決して悪くはないはずだ。
うん、きっと楽しい。
それに沢近だって来てくれる。
お嬢さま然としてるくせに、地は結構あたしに似てる変なヤツ。でもいいヤ
ツだ。
そうと決まれば早速準備をしておかなくちゃ。
どうせだから花井に任せちまおう。
アイツならこういう仕切はうまいだろうし、どうせ道場を借りるお願いもし
なきゃいけない。
花井の携帯の番号を呼び出す前に、先輩の名前が一瞬表示され流れ去った。
「神津先輩もいればよかったのにね……」
あきらめが悪いと思う。
伝えたい言葉があった。
きっと明日なら言えたと思うのに、あのヒトがいないなんて、何かの嫌がら
せみたい。
でも、先輩が帰ってきたら勇気を出そう。
言えるかどうか分からないけど、この気持ちに決着を付けなきゃ多分あたし
はダメになる。
「あ、花井? 今いい?」

ね、直接は言えないけど、心の中だけでも言わせて。
「メリークリスマス」
この言葉といっしょに、あのヒトへの想いを。
「好きです」
ね、先輩。
他には何も要らないから。
そう言える勇気だけ、あたしにください。

──了──