微睡みに君を想う

微睡みに君を想う

 他人のベッドで寝ることになど、とうに慣れていた。
正確には違う。
柚原このみにとって、河野貴明は他人などではなかった。
隣に住む、一つ上の男の子。それは、最も近い家族でない誰かであり、そして最も遠い兄妹のようでもあった。
一緒に食事を取り、一緒に遊び、一緒にお風呂に入り、一緒に寝る。
当たり前と思っていた貴明との生活が、当たり前でないと気付かされたのはいつだっただろうか?
プライベートという言葉で分かたれた時間が増えるにつれて、少しずつ、二人の距離は開いていったように思えた。
貴明は言った。
「恥ずかしい」
と。
何が? と訊いても、かつて中学生だった貴明は、このみが納得できるような答えを返すことができなかった。
だからこそ、このような機会が減ったことを、このみは残念に思い、寂しくも思った。 貴明がいやがることは、このみのしたくはなかったし、それが理由で貴明に嫌われてしまうのはとても怖いと思った。
だから、少しだけ開いた二人の距離を寂しいと思いつつも我慢したし、わがままを言って困らせようなどとも考えたことはなかった。
結果として、貴明に迷惑をかけてしまうことは、何度もあったが、少しだけ真面目に怒ったあとに、きまって自分の頭を撫でてくれる貴明の手は、くすぐったくもあり、何よりも嬉しさと幸せの象徴でもあった。
得がたい温もりと、安心感を与えてくれる貴明は、兄のようでもあり、膨らみきっていない淡い恋心を向けられる、このみの想い人であったから。
未だ形を成していなかった想いを抱えつつ、貴明は上の学園へ進学し、このみも後を追うように入学が決定し──。

期せずして機会は訪れた。

長期の海外出張による貴明の両親の不在。
当然のように貴明の面倒をみるのは、長い付き合いを持つ柚原家の役目となった。
このみの母の春夏も快諾し、このみに至っては共に過ごす時間が単純に増えるであろうことを諸手を挙げて喜んだりして貴明を呆れさせた。
そんな生活が一週、二週と過ぎたある日。
春夏が家を空けると宣言したことは、このみにとっては毎月のように繰り返されるイベントのようなものだった。
そう、貴明の家で一夜を過ごすということは、このみにとっては一大イベントであり、また、日常の一つであった。
単身赴任でめったに自宅に帰ってこない夫に逢いに行くということも、春夏にとっては同様のことだったのかもしれない。
ただ一つ異なることといえば、やっかいになる隣の家には貴明しかいない。
二人っきり。
その言葉は、このみにとっては特別な、甘美な響きを持っていた。

念入りに準備を整えた。
数えるほどしかない料理のレパートリーの中から、その日の夕食を何にしようか迷っていたところ、春夏のアドバイスに従って、特製カレーのレシピを必死に頭に叩き込んだ。春夏曰く「必殺」の意味はこのみには理解できなかったけれど。
お泊まりセットの準備にも念を入れる。
寝間着に、替えの下着に、洗面用具エトセトラエトセトラ。たかが一日のお泊まりに気合いを入れすぎではないかと疑問に思っても、勢いで突き進んだ。
今さら何を意識するのかと笑われそうだけど、やっぱり初めてのことだから。
もうそれなりに着古している寝間着に着替えて、貴明はどう思うだろうかなどと要らぬ心配をしたり、もっと可愛い下着を買っておくんだったとか考 えて、赤面して慌ててバッグに詰め込んでみたり、一人でどたばたやってるこのみの様子を、春夏が階下から苦笑混じりに伺っていたことを彼女は知らない。
無事中学校を卒業し、貴明の春休みまで手持ちぶさたに過ごすしかないと思っていたこのみは、この日のお泊まりを、それこそ指折り数えて待ったりもした。
カレンダーに付けられた丸は、三月一九日を囲んでいた。

帰宅前の貴明を待ち飽きて、先に上がることにした。
玄関の鍵の隠し場所は承知済み。不用心だなぁと思うこともあるけれど、隠し場所を変えないのは、自分を信用してくれている証のような気がして、嬉しいことも事実だった。
何をしようと迷うことはなかった。
だいたい、貴明が一人暮らしを満足にできるなど、思ってもいないこのみである。食事はインスタントだし、朝はたまに寝坊する──自分の方がもっ と寝坊するということはこの際問題ではない──し、ほら、予想通り洗濯物もため込んでるし、よく見れば細かい場所には埃もうっすらと積もって見えた。
いつ戻ってくるか分からない貴明を待つのは退屈である。
何もせずに時間を潰すくらいなら目の前の怠惰の証を片付けようと、このみが思うのは自然の流れだった。
しばらくして帰宅した貴明は、そんなこのみの意外な手際の良さに内心感心しつつ、そのまま買い出しへ付き合わされることになる。
夕食は自分が作ると張り切るこのみと、その自信に多少の不安を抱く貴明。
自信満々のこのみに押し切られるままに、貴明はこのみに手を引かれ近所のスーパーを目指す。
材料のメモは万端、時間的にももしかしたら安く買えるものもあるかも知れないと、このみは思う。
そして何よりも。
貴明に料理を食べさせることができるという期待に、自然、歩みも軽くなる。
そんな自分と貴明のことを「新婚さんみたいだね」と内心思ったけれど、さすがに恥ずかしくて口にはできなかった。

カレーといっても立派な料理である。
四苦八苦しながら完成した柚原このみ版必殺カレーは、概ね好評だったようである。
貴明にしてみれば、あのこのみが良くも、という半ば感慨に近いものもあったのだが、調理中の危なっかしさに反して、意外にまともな料理が出てきたことは素直に褒めてやりたい気分だった。
貴明にしてみれば、緩みきったこのみの笑顔を見るのは嫌いではないし、そもそも水を差すのは野暮だと、それくらいに気は利かせることができた。
自分の作り上げた料理の味に満足せず、さらなる精進を決意したこのみの意外な向上心に感心すると共に、次の機会を期待したりもした。
──もっとも、おだててつけあがられても困るので、このみには言わなかったが。

貴明と過ごす夜の時間は、ゆっくりに感じても、確実に過ぎていく。
テレビを見ながらも、ちらりちらりと貴明の様子を伺うこのみに、鈍感な貴明は気付かない。
先に風呂に入れと言われてから、その順番で揉めてみたり、およそこれまでの経験とは違った反応をしていると自分では思う。
遠慮してる? 緊張してる? それとも、期待してる?
何にとも何がとも分からない。
答えがあるのかも知れないし、ないのかも知れなかった。
結局、風呂の順番は、このみ、貴明の順になる。別に順番なんてどうでもよかった。こうやって、生活を共にするという実感が、ことあるごとに得られる、それが嬉しかっただけ。

気持ち念入りに身体を洗って、シャンプーを済ます。お気に入りのシャンプーの香りをかぐと、自然と笑顔になる。貴明は気に入ってくれるだろうか?
このみは湯船に浸かりながら、これからのことを考える。
といっても、入浴後は就寝するだけ。そもそも、それほど夜に強くないこのみが、睡魔に負けずに起きていられたのは、例外的といってもいい。
ぱしゃりとお湯をひとすくいして顔を洗う。お風呂を上がって寝るだけなんてもったいない。
タカくんともっとお話ししたい、タカくんをもっと見ていたい、タカくんにもっと触れたい。
ぐるぐると思考が回り、一つの解へ辿り着く。
かつてなら当たり前のようにしていたこと、けれど、最近はしてくれなくなったこと。多分、気付いている。自分は本当はいつでもこうしたかった。誰彼の目も気にすることがないのなら、自分も我慢する必要もないのではないか?
相好をだらしなく崩しながら、さっそく作戦を立てる。
勝負は貴明が入浴してる時間。多分三十分もないだろう。
素敵な作戦は、この上なく完璧で、失敗などあり得ないと、このみは確信していた。

風呂が空いたことを告げると、貴明は寝具の準備をすると言い出す。
ここまでは予想通り。良かった、まだ何も準備してないのならかえってやりやすい。
自分で干した布団くらい自分で敷ける。理由付けもばっちりである。
このことを見越していたわけではないけれど、昼間の善行がさっそく返ってきた。まさに情けは人のためならず。
さっきまでのこのみの活躍のせいか、深く考えることもなく、就寝の準備をこのみに一任する。元々、このみが泊まりに来たときに、寝具の準備をするのは貴明ではなかったので、不審に思うということすらない。
「了解でありますよ」
と少しだけふざけて敬礼をしたこのみの笑顔に、イタズラを企む子どものような表情が混じっていたことに、貴明は気付いたが、深く考えずにリビングを出る。
この時点で、このみの作戦は、ほとんど成就したといって良かった。
浴室のドアが閉められるのを音で確認し、極力足音を忍ばせて二階へ上がる。
向かうは貴明の自室。
干された布団は自分のものと貴明のものの二つ。取り込んだときに面倒くさがって、この部屋に置きっぱなしにしたことが今はありがたい。
貴明のベッドメイクを済ませてから、自分の布団を床に敷く。
あっさりと最終段階は完了し、その達成感から布団にダイブしたい気持ちを何とか抑えつけ、再びリビングへ戻る。
せめて、貴明が戻ってくるまでは起きていなければ。
先に眠ってしまって、この貴重な時間を無駄にすることは、一分一秒でも避けたいと思った。

疑いの余地もなく、このみの作戦は成功した。

貴明と同じ部屋で一緒に寝るのは、本当に久しぶりだった。
同じ家にいるということも、このみの気持ちを高揚させはしたが、今、すぐ近くで貴明が横になっているという事実は、それ以上だった。
本当はもっと話をしてからとも思っていたけれど、健康きわまりないこのみの身体は、すでに睡眠を欲している。夜に弱い自分が今日ばかりは恨めしい。
だから、迷うことなく最後の行動に移る。
「寒い?」
と貴明に問う。
「寒いのか?」
と逆に訊き返される。
布団を持ってこようかと、要らぬ気を遣う貴明の言葉を遮って、このみは貴明のベッドへと潜り込む。
驚きがほとんどの表情に、わずかばかりの非難の色を混ぜながらも、貴明はこのみの同衾をしぶしぶ了承する。
もとよりこのみの進行目標である貴明自身が、彼女を本気で拒絶することなど、端からできないわけであるから、このみの進入を許した時点で勝敗は決していた。
確信を持ちながらも、貴明に追い出されるという万一の事態を恐れもしたけれど、そんな心配など杞憂に過ぎないことを思い知る。
貴明は、変わらない。
このみが抱いた憧憬のまま、彼女を思い、大切にしてくれる。
それが、今はまだ家族に対する愛情だとしても、十分だった。
この温もりだけは嘘ではないと、間近に貴明の息遣いを感じながら思う。
これからどうしよう?
あとはもう眠るだけ。他の選択肢などないはずである。
それでも、このみはこの時間を少しでも感じていたいと願う。
抗いようのない眠気を感じながらも、貴明を呼び、言葉を交わそうと努める。
たわいもない会話をしばらく交わして、いよいよ睡魔に飲まれる直前、貴明は言い訳めいた約束をしてしまう。
「また今度」
その言葉の真偽はこのみにとってさほど重要でもない。
今の貴明が、今のこのみを受け入れてくれる、そう信じさせてくれる魔法の言葉。
今日のこの一日は、本当に夢のような一日だった。
日付が変わると同時に魔法も切れる。眠ってしまえば一日が終わるから。
けれど、貴明の言葉はこのみに魔法をかける。
こんな一日は今日だけではない、もしかしたら明日も、その先も、ずっと続くかも知れないと。
だから、今日はこれで満足しよう。すぐにお腹いっぱいになるようじゃ、これから待っている無数の幸せたちに申し訳ないから。
でも、せめて。
せめて、今日見る夢の中では、この幸せの残滓を味わわせて欲しい。
微睡みの中そう願い、貴明の顔を見つめ続ける。
「おやすみなさい……タカくん……」
その言葉が貴明に届いたか、確かめる術はない。
意識が眠りに飲まれるその直前まで、このみの心に満たされていたのは、間違いなく幸せだった。

──了──

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