公開中の『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』見てきました。
事前情報として、公開直後から賛否両論の内容という部分だけは知っていましたが、ああ、なるほどという内容でしたね。
確かに、これを「ガンダムでやるな」という意見が出るのも納得はできますが、『ガンダム00』の完結編という位置づけにするなら、十分な内容だったと個人的には思いました。
24世紀初頭、突如として姿を現した私設武装組織「ソレスタルビーイング」。彼らはガンダムによる戦争根絶を掲げ武力介入を開始、一時は組織壊滅の危機を迎えながらも、争いの絶えなかった世界を急変させた。
地球連邦政府の成立。その後の独立治安維持部隊アロウズの専横による戦争状態を経て、武力に頼らない社会を選択するに至った人類だったが、西暦2314 年、再び危機が訪れる。130年前に廃船となっていた生体反応の無い木星探査船が地球圏に接近してきた。それは、人類の存亡をかけた戦いの始まりを告げる船だった……。
戦いの中、人類の水先案内人たる
完結編としての劇場版
のっけから劇中劇「ソレスタルビーイング」で何事かと思わせられましたが、そこはある意味TVシリーズを見てきたファンへのサービス的な内容なのかなあ。スーパーロボット過ぎるガンダムの活躍は、それはそれで見てみたいような。マイスターの面影が刹那以外残っていなくて、そして、沙慈の自分が登場しないことに対する一握の寂しさに苦笑いしてみたり。
まぁ、そんなオープニングシーン以降はシリアスムード満点。130年前の木星探査船の地球圏来訪から始まる原因不明の怪事件。この時点で、ガンダムというイメージからずいぶんとずれたストーリーなのだなと思わされますが、本当に人類に対する敵対勢力(?)が宇宙人だとは、お話のスケールが一気に宇宙規模にまで広がった印象。そりゃ、マクロスだ、トップだ言われても仕方ないかなあ。金属生命ってところで、私はARMS思い出したりしましたが。
内容的には、イオリアが想定していた、「来るべき対話」のあまりに早すぎる訪れに対して、全く準備のできていない人類側が一方的に振り回されるお話だったのかなあと。接触を試みてくるELSの、その手段が、対象との浸食・融合であり、人間側はたまったものではないから、それを敵対行為として認識して攻撃を仕掛けてしまうのは道理ではありますね。統一され、良い方向へ向かおうとしている地球連邦の存在意義は、人類にとっての平和を維持することであり、未知の存在との共存までは想定していなかったでしょうから。
ただ、その辺を想定していたイオリアの理想が、ヴェーダの恩恵がソレスタルビーイングだけでなく連邦側でも受けられるようになったのに、伝わっていなかったのが違和感かも。あるいは、その辺の情報は、まともに見える組織の中でも一部の勢力によって握りつぶされていたとか。デカルト大尉の扱いとか、地球が危機に陥ってるのに新型MS配備が進むことを喜ぶ幹部の発言とか、そこら辺を見るとやっぱり人間は人間だとしか。
中盤以降は戦闘戦闘の連続でメカものとして燃える展開ですね。動きが速すぎて何が何だか分からないシーンも多かったりしますが、戦力比一万対一というもはや戦闘になるのかどうかも分からない絶望的な状況下でも、活躍を見せるMSパイロットたちの戦いが見物です。マイスターである、ロックオンやアレルヤも新型で無双状態の大暴れ。連邦側もグラハムさんを始め、コーラサワーやアンドレイなどTVシリーズからのキャラもそれぞれ見せ場があったりと、これが最後とばかりにど派手な映像に圧倒されますね。細かいギミックも盛り込まれてるんですが、何しろ展開が早くて早くて、ゆっくりと画面の情報を読み取ってる暇がないので見るだけで精一杯だったりしますねえ。この辺は映像ソフト化されたときに、コマ送りで見たりしてしっかり確認したいところ。
個人的には、これまで電池扱い(笑)されてたアレルヤ+マリーの駆るハルートの活躍がスゴかったなあ。もはやあれはMSの動きじゃない(笑) フリーダムも真っ青なサバーニャのマルチロックオンぶりもすさまじかったですが。割とあっさり退場してしまったティエリアのラファエルガンダムは急造機体みたいだから仕方ないけど、ふたりの新型ガンダムの活躍はすばらしかったですね。
グラハムさんも憑き物が落ちたかのようにまともな上官に戻ってましたが、ガンダムタイプと戦うことに喜びを感じたりと、やっぱりどこかアブない性格なのは健在でしたね。まぁ、そんな変態チックなところ以上に、彼の見せ場は本編の至る所にあって、彼が戦っているシーンはどれも盛り上がりましたねえ。まさにウルトラエース。最初から最後まで、自分の信念に生きた熱い漢でした。
逆に刹那は序盤から暗いムードで未知の敵から受け取る理解不能なメッセージに戸惑ってばかり。自分と他者の違いに戸惑いながらも、彼が求めた力は、対話をするための機体、ダブルオークアンタである辺りが、TVシリーズを通じて、戦うことの意味と目的が変わってきたことの証なのかなと思わされます。ただ、そんな彼も対人関係の希薄さが際立っててどうにも取っつきが悪くなっていますね。フェルトの気持ちとかも気づかないわけがないのに素っ気ないし、お前は壮大な対話に備える前に、まず周囲の人間との対話をしっかりしろと言いたくなる雰囲気。それでも、俺がガンダムだとか言ってた頃に比べればずいぶんと大人になったんだというのは外見だけでなく、その内面からも伝わってきますね。最終決戦においても、彼はあくまで対話をする存在として戦場に在って、だから、逆に主人公機であるダブルオークアンタの活躍もそれほど多くないのが残念。ダブルオーライザーと同様反則的なスペックを備えているのはそこかしこの描写で伝わってきましたが、それが存分に発揮されるのは今後発売される様々なゲームでなのかな。
最後のELSとの対話は抽象的な描写に終始しているので、正確なところは把握し切れてないのですが、お互いの行っていることが対話ではなく戦闘であること、ELS側も人間側も戦うことではなくわかり合うことを望んでいること、それが伝わり、理解されたからこそ、言葉を持たないELSがあのような姿を見せたのだと理解しています。あの形の意味が理解できたのはきっと、地上から宇宙を見上げていたマリナ姫だけだったんだろうな。そういう点でも00という物語でつかず離れず交わらずで、それぞれの生き方を貫いてきた刹那とマリナの理想がようやく同じ答えに辿り着いたという象徴的なシーンとも思えました。いや、いきなりアレ見せられてポカーンとしなかったと言えば嘘になりますが、過去のストーリーを思い出してみるとそうなんだろうなあとしか。
そして、スタッフロールの後のエピローグ。物語の始まりと結末を描くシーンが印象的ですね。イオリアの若かりし頃、友人らしきE・A・レイなる人物との会話。彼が未来における人類以外の種との対話をどこまで予測していたのか、ただただ知性を持ちながらそれを正しく使うこともできず幸せを失っていくことへの悲しみから、行動を起こしたのだとしたら、彼のその理想はあまりにも遠大で壮大で夢物語と一笑に付されたものでしょう。が、それを長い時間をかけて実現し、イノベイターへの革新を導いたという結末は、彼が予想していた対話より数世紀早かったというその事実をもって、イオリアの予想を良い意味で上回って見せたということでしょうか。
その象徴となった刹那とマリナの会話で締められる物語。あのラストシーンは美しい以上に、分かたれてしまった悲しみや寂しさを感じてしまいますが、二人の相互理解がようやく成ったという意味において、決して無駄ではない時間をお互いに積み重ねたのだとそう思えるのですね。刹那の言う「正しかった者」とマリナの言う「間違ってなかった者」、同じようで異なる二人が、この長い時間の果てにようやく理解し合えたという結果こそが、この作品世界における「対話」の成功の証なのかもしれません。
だらだらと感想書いてみましたが。面白かったですね。もう何回か見直してみたい作品です。映像ソフト化されるのも楽しみですね。
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