ふゆいろモラトリアム – 遥かに仰ぎ、麗しの ショートストーリー

ふゆいろモラトリアム

 僕が部屋に戻ると、そこには見慣れないものが鎮座していた。
「炬燵……?」
 ああ、見慣れないというのとは少し違うな。
 ないはずのものがある、そんな強烈な違和感に、僕は自分の目を疑ってしまったのだ。
「なんで、こんなものがここに?」
 そもそも、この凰華女学院分校の学院生兼教職員寮において、寒をしのぐために、わざわざ炬燵にお呼びがかかることなんてあり得ないのだから。
 けれど、それは、確かにここにある。
 この学院らしい、むやみやたらに高級そうで、暖かそうな掛布団に敷布団によって完成されたそれが、強烈な存在感を放っている。
 もう、見慣れてしまったはずの僕の部屋に、これまた見飽きるくらいに何度も冬を共にしてきた、ある意味懐かしい、相棒ともいうべき存在があるだけなのに、そのミスマッチな異様に、僕は困惑するしかなかった。
「いったい、誰が?」
 なんて、独りごちてしまうけれど、僕の自室に自由に出入りできる「誰か」なんて、僕以外には一人しかいないのはよく分かっている。
 そう、入り口に立つ僕からは見えないけれど、たぶん、向こう側で丸くなって眠っているんだろう。
 静けさが満ちているはずの室内に、穏やかなリズムで刻まれる寝息を立てている、その主が。
「やれやれ、なんだかどんどん遠慮がなくなっていっているんじゃないかい、梓乃?」
 苦笑を浮かべ、僕は頭をかいてみる。
 僕の言葉は眠っている彼女にはきっと届かない。
 そうして、僕は思い出すんだ。
 彼女がこんないたずらっぽいことを思いつく、そんな一面も持っていたということに。
 本人からしたら割と本気で、ちょっとしたサプライズのつもりで仕掛けたんだろうけれど、僕からしたら、その発想の突飛さに驚かされると同時に、あきれさせられるというか……。
 梓乃がどんな意図で、わざわざこんなかさばるものを用意したのかは、本人に聞いてみなければ分からない。
 けれど、まぁ、良いか。
 僕は入り口から歩を進め、部屋へと入る。
 行儀良く、炬燵のすぐ側に揃えられた彼女の靴。
 その隣で僕も靴を脱ぐ。
 どのくらい、僕を待っていたのやら。
 待ち疲れたのか。あるいは、炬燵の、あの抗いがたい魔力に負けてしまったのか。
 すやすやと気持ち良さそうに、すうすうと穏やかに、側に近づいても起きる気配を微塵もさせない梓乃の姿が目に映る。
 無防備であどけない、僕には見慣れた彼女の寝顔が。
 小さな子供のように、身体を丸めて眠る梓乃の姿が。
 ――今はこんな風に、僕の部屋で眠ることも当たり前になった梓乃。
 けれど、僕は覚えている。出逢ったばかりの頃の、近づこうとすれば逃げてしまう、子猫のように臆病だった彼女を、僕ははっきりと覚えている。
 教師と生徒という関係にすらたどり着けていなかった僕たち。そうやって出逢った僕たちは少しずつ関係を変えていくことができた。そう、僕は彼女を救うことができ、僕は彼女に救われたのだ。
 あのときの僕は想像だにしなかった。僕と梓乃がこうして同じ部屋で過ごすことが当たり前の関係になるなんて。
 新米教員と臆病な少女の出逢いから二年足らず。
 僕と梓乃が出逢ってから、二年に満たない時間の流れは、いくつかの傷を心に刻み、それからいくつかの傷を癒してくれた。
 そう。
 僕の傷も、痛みも、苦しみも、悲しみも。
 彼女の傷も、痛みも、苦しみも、悲しみも。
 僕の喜びも、幸せも、優しさも、慈しみも。
 彼女の喜びも、幸せも、優しさも、慈しみも。
 僕たちはそれらの何もかもを分け合い、与え合い、贈り、贈られて、今を過ごしている。
 そんなことを思いながら、僕は微睡みに揺れている梓乃の隣に腰を下ろし、炬燵に入る。
 この場所は、彼女にとっての僕の居場所であり、そして、それは僕にとっての彼女の居場所。
 言葉になんてしていないけれど、お互いが決めた二人だけの指定席だ。
 もう、すっかり慣れてしまった、この学院寮の暖かな空気よりも、なお暖かなぬくもりを近くに感じる。
 梓乃が僕を待つ間、感じていた温度を、僕も同じように感じる。
 懐かしいぬくもり。懐かしい微睡みの気配。
「くぁ……」
 少し前まで、全く感じていなかった眠気が唐突に襲ってくる。
 自分の腕を枕に、気持ち良さそうに眠る梓乃の姿に、僕もつられてしまったのだろうか。
 それとも、炬燵の魔性に僕もまたとらわれてしまったのだろうか。
 そんなことを考えても詮無いこと。眠いのなら眠るに限る。どうせ時間はいくらでもあるのだから。
 今年も残すところあとわずか。
 年越しの日を目前に控え、忙しさの峠も越えて、あとはただ今年という一年を見送れば良いのだから。
 間近に見える、梓乃の佳容は、普段のそれよりも少しだけ幼く見えて。
 そんな、あどけない表情も、また魅力的だなと、直接、梓乃に言ったら顔を染めてうつむいてしまいそうな歯の浮く台詞を思いついてしまう。
 感じ慣れた彼女の体温が伝わってきそうな至近の距離で、僕もまた、同じように眠ろうと思う。
 何もしないで、時間を送ることもまた、僕たちにとっては大切な時間だ。
 今はただ、この微睡みの誘いの手を、払うことなく取ろうと思う。
 部屋の扉を開けたときに言い忘れていた「ただいま」の言葉を思い出す。
 そしてこれから眠ろうとする僕が言うべきなのは「おやすみ」の言葉。
 睡郷にある梓乃には届かないかもしれないけれど、僕は告げるべき言葉を彼女へと告げた。
「ただいま」
 そして。
「おやすみ」
 僕の言葉に返事をするように、かすかに身体を震わせた、梓乃の仕草を愛おしく思う。
 そして、彼女の頬にかかった幾本かの髪を、壊れ物に触れるように優しく梳く。
 目を閉じた僕に感じられるのは、僕の大切な人が確かにそこにいるという暖かさと安心感。
 梓乃に慕われ、愛されながらも、僕もまた、彼女なしではもうどうしようもないくらいになってしまっていることを、こういう何気ない瞬間に実感させられる。
 僕がかつて失い、求めていたものを、再び与えてくれた彼女を、僕は決して離さない。
 他の何にも代え難い、愛おしい梓乃を、簡単に抱きしめられるくらいの間近で、僕もまた目を閉じる。
 目の前は暗くなっても恐れるものなど何もない。
 ただ、ただ。
 この穏やかな時間がどこまでも続いていけば良いなんて、いつまでも終わらない長期休暇をほしがる子供のような、そんな無邪気な願望を抱きつつ。
 僕は、眠りへと落ちていった。

§

 十二月もほとんど終わり。
 深まる冬の季節を実感させるように、もう夕方というには早い時間だけれど、窓の外に見える景色は薄暗く陰っていて。
 窓の向こうの木々たちが、身を震わせるように寒風に揺れている。
 空調の整った屋内では、外の寒さは伝わってくることはないけれど、寒々しい風景を眺めていると、だんだんと気持ちが滅入ってくる。
 そんなある日の午後のこと。
 梓乃を捜していたけれど、見つけられなかった私は、最後に司の部屋を訪れていた。
「司、いる?」
 コンコンコンと、ドアをノックするけれど、部屋の中からは応答はない。
 考えてみれば、昔と違って、今の梓乃には、司がいるのだから、彼女がいる確率が一番高いのはこの場所だということに疑いはないのだけれど。
 もう一度ドアをノックする。
 おかしいな?
 仕事を終えた司の姿が、学院のどこにも見当たらないから、ここへ戻ってきていると思ったのに。
 当てが外れたことを残念に思いながら、ふと、ドアノブを握り回してみる。
「あ……」
 鍵の外れたままのドアは、容易に開いて私を室内へと招き入れる。
 なんだ、やっぱり司はここにいたんだ。
 自分の行動が徒労に終わらなかったことに安堵を覚える。
 それと同時に、最近は彼の忙しげな様子に遠慮して、あまり会話を交わしていなかったことを思い出し、少しだけ世間話でもしていこうかなんて思いも生まれてくる。
「司、入るよ?」
 主人を見つけて駆け寄る飼い犬のように、自分の声が少し弾んでいることに私は気づく。困ったものだと内心思うけれど、努めて平静をよそおって、部屋の中へと足を踏み入れた。
「ねえ、司。梓乃を見なかっ……」
 まずは元々の用件を済ませようと、梓乃の所在を訪ねる言葉を、けれど、私は最後まで言い切ることができなかった。
 代わりに、目の前にある光景を見て、これをまさに「開いた口がふさがらない」というのだなと、そんなことを思ってしまう。
「え……?」
 実際に覗いたことがないから分からないけれど、たぶん他の学院生や教職員の部屋では、お目にかかることなどない、洋室風の部屋には似つかわしくない和風の調度。
「炬燵?」
 いきなりこんなものが視界に飛び込んできたら、私じゃなくても言葉を失うか、まずは自分の目を疑うんじゃないかと思う。
 まぁ、司の部屋だから、これくらいあってもおかしくないかもしれないな、とも思うのだけれど。
 いったい誰が持ち込んだのか、そんな疑問に対して、答えはすぐに私自身が用意する。
 仲良く聞こえてくる、リズムの違う二つの寝息の主は間違いなく司と梓乃。
「……お邪魔します」
 その言葉で二人を起こさないように気をつけながら断りを入れて、私は炬燵へと近づいていく。
 果たして、仲良く抱き合うように眠る二人の姿が見えてくる。
 入り口から見えない場所に陣取って、気持ちよさそうにうたた寝に興じている梓乃と司。
 仲むつまじいというのはこういうことをいうんだろう。幸せそうな寝顔の二人を見て思う。
 二人だけの秘密を、こっそりとのぞき見ることに対して、少しだけ居心地の悪さも感じるけれど、私が梓乃と司の関係を気にする権利は、きっと十分にあると思ってそんな迷いを打ち消しておく。
 そもそも、鍵をかけずに不用心に私の侵入を許した時点で、これは司の過失なんだ。
 そんな言い訳も用意して、私は目の前にある暖かさの御相伴に預かろうと腰を下ろす。
 二人の邪魔をしないように、私は梓乃の側の空いている一辺を占有させてもらうことにする。
 恐る恐る差し入れた足が、梓乃の足に少しだけ触れる。彼女の眠りを邪魔しないよう、私は足の位置を調整して落ち着く場所を探す。
 そうすると、空調で暖められたいつも感じる空気とは違った、染み込むような暖かさが、じわりと伝わってくる。
 それにしても。
「司、わざわざ、こんなもの持ち込んだの?」
 どういったつもりで炬燵なんて用意したんだろうか。
 相変わらず突飛なことをする人だ。
 普通であること、当たり前であることを受け入れるだけでなく、その上で自分の考えを曲げることなく貫く意志を持つ人。
 それが、こんな形で発揮されてしまうのは、正直、首をかしげるか、苦言を呈するかした方が良いのかもしれないけれど。
 こういう想像だにしないことをしてしまうからこそ、私は彼を他の人とは違うのだと、そう、感じているのだ。
 それに、梓乃にとっては、司は私が思う以上に……。
 あの春の騒動からまだ一年も経っていないのに、あの日の凛とした梓乃の姿を懐かしく思い出す。
 司と並び、八乙女の御爺様と御婆様に対して、毅然と自分の想いを告げた梓乃の姿を。
 私が守ろうとしてきた、弱々しい彼女の面影を微塵も感じさせない様子に驚かされると同時に、それ以上に、私はあのとき喜んでいたのだ。
 私の役目が終わるということ。
 梓乃にとっての一番が私ではなくなること。
 それは確かに寂しいことではあるけれど、そんなつまらない思い以上に、私は梓乃が幸福に満ちた顔で笑うことができるようになったことを喜んだのだ。
 だから、今では私はこう思っている。
 この二人の未来を、私はどこまでも祝福していくのだと。
 いつまでも、二人と共にいることはできないけれど、今、この学院にとどまっている残された時間の間だけでも、見ていたいのだ。
 その時がいつ訪れるのかは分からない。
 梓乃にしても、彼女の抱えている対人恐怖症という問題は、改善の兆しを見せているとはいえ、完治にはまだまだ時間がかかりそうだし。
 一方の司にしても、彼が夢を叶えてようやく手に入れた教師という職業を、あっさりと手放すことには大きな抵抗を感じているようだし。
 梓乃と将来を誓い合ったというのに、八乙女という家のことにまで考えが及ばないなんて、まったく司らしいと思うけれど。
「……ぷ、くすくす」
 今でも、あの時の狼狽しきった司の言動を思い出すと笑いを堪えることができない。
 思わずこぼれてしまう笑声を口元を手のひらで抑えて隠す。
 けれど……。あるいは、そんな司だからこそ、梓乃に愛されることができたのだろうし、私に対しても鷹月という、望まぬまま貼られてしまった札を抜きにして、接してくれているのだろうか。
 だから、私はこう思っている。
 願わくは、司や梓乃と過ごすこの日々が。いつまでも続きますようにと。
 私の個人的な理由、個人的な願望だけれど、彼らが卒業を決める、その日まで。
 私にとっての安らぎを奪わないでくださいと。
 司によって変えられてしまったのは梓乃だけじゃないのだと思い知らされる。
 私もまた、こんな甘い夢を見るようになってしまった。望むようになってしまった。
 それくらい、彼が来てからの、梓乃が救われてからの日々は、夢のように穏やかで暖かなものだったから。
 そして、夢はいつか覚めてしまう。そのことも痛いくらいに分かっている。
 だからこそ、その時までに私ももっと変わっていかなければならないのだと思うのだ。
 私という存在が。梓乃にとっての、司にとっての、重しになるなんて、私自身が許せそうにないから。
 あの時、笑顔で言えた「おめでとう」を、いつかもう一度言うその時のために。
 私も変わっていかなければならないのだ。
 けれど。
 そんなことに悩むのは、この場所ではふさわしくないのかもしれない。
 いつ訪れるかわからない、不確かな未来のことを、あれこれ考えたって、答えなんて出てこないから。
 何よりも、隣りで脳天気に眠っている二人を見ていると、一人で煩悶していることが何とも馬鹿らしくなってくる。
 私は私らしくあれば良い。
 それに、どうしようもないことがあったとしても、それを一人で抱え込む必要なんてきっとない。
 きっと、私が望みさえすれば、手を差し伸べてくれる人は、ここにいるのだ。
 ここで眠る、彼や彼女がそうであるように。
「その時は、頼りにさせてもらって、良い?」
 私にとって最も信頼できる二人は夢の中。
 三人の息づかいだけが響く部屋で私は思う。
 今、私は、何をしたいんだろう?
 炬燵の天板にだらしなく頬を預け、その冷たさを感じながら、梓乃たちを見やる。
 ――うん、とりあえず。
 私も少し眠ってみようか。
「お休みなさい。梓乃、司」
 そう言って、目を閉じる。
 身体から力を抜いて、暖かさに意識をゆだねる。
 そうしてから睡魔が訪れるまで、それほど時間は必要としなかった。
 ――気持ち良い。
 炬燵の持ち主が、これをわざわざ持ち込んだ、その理由が私にも分かった気がした。

§

 どれくらい眠っていたのだろうか。
「ん……んん」
 誰かに呼ばれた気がして、わたくしは眠りから目を覚ました。
 司さんを待つ間、少しだけと思って横になってしまったのがいけなかったのかもしれない。
 師走という言葉通りに忙しそうにする司さんと、特にすることもなく、ただ時間を送るだけのわたくし。
 疲れているだろう司さんを、少しでも労ってあげたくて。
 それと、少しだけ驚かせてあげたくて。
 慣れないことをしてみたのだけれど、やっぱり、わたくしには荷が重かったのかもしれない。
 どうしてこうも詰めが甘いのだろうと、何度となく繰り返した自省をまたしてみても、結局のところ、わたくしには、こういう悪巧みめいたことは、さっぱり向いていないんだろうと思う。
 そんな自分を心の中で笑いながら、わたくしは身体を起こそうと目を開いた。
「……え?」
 司さん……?
「ど、どうして?」
 言ってみて、その疑問のばからしさにすぐに気づく。
 この部屋が誰の部屋なのか?
 寝起きのわたくしの頭は、混乱していたのかすぐに答えを出せなかったのだ。
 司さんは、腕こそ私の身体へと回していないものの、わたくしを胸に抱きしめるように、間近で寝息を立てている。
 見慣れた彼の寝顔だけれど、部屋の明かりの加減かどうか、いつもと違う陰影で見える。
 身をすくめているわたくしと、そんなわたくしを守ってくれている司さん。
 平時のわたくしたちの関係は、こんな時でも変わりがないんだと、安心すると同時に、少し申し訳なくなってしまう。
 けれど、やっぱり、大切にされていることが分かって嬉しくて。
「ふふ」
 思わず、笑いがこぼれてしまう。
 こんなに近い距離で、司さんの顔を見つめるのは久しぶりだから。
「司さん……」
 わたくしは、いつもそうするように、彼の名をささやく。
 わたくしにとって、唯一で無二の大切な人の名前を。
 わたくしにとって、今やこの学院にいる意味そのものでもある人の名前を。
「司さん」
 わたくしもすっかり司さんに依存してしまっている。というより、むしろ、その度合いを深めていると言った方が良いのかもしれない。
 時間が経つにつれて、わたくしの、司さんへの想いは深まるばかりでいるのだから。
 想いを通い合わせ、おじいさまとおばあさまにわたくしたちの関係を認めてもらってから季節は移ろい、また春が訪れるまであと数ヶ月。
 あの日から、ことあるごとに繰り返し考えることがある。
 あとどれくらい、こんな日々を送れるのだろうかと。
 きっと、望めば望むだけと、優しい祖父と祖母は言ってくれる。
 それは、わたくしたちにとっては本当にありがたいことだと思う。
 おじいさまは少しだけせっかちで、その、電話の度に、面会の度に、司さんを急かして「孫を」なんて言ってくるのは困りものだけれど。
 ただ、その時の司さんの、照れくさそうな、困ったような表情は、ちょっと可愛いとも思ってしまう。
 そんな、事件というにはほんとうに些細な出来事を繰り返しながら、わたくしたちは穏やかな毎日を、この場所で送ってきている。
 わたくしが、司さんと出逢ったこの場所で。
 そうして思う。あとどれくらい、こんな日々を送れるのだろうか?
 少なからぬ愛着を、確かに覚えてしまったこの学院での生活を、あとどれくらい送れるのだろう?
 はじめの頃は、何もこれまでと変わりがないと思っていた。
 わたくしが逃げるようにやってきた、この学院でも、自分自身と殿ちゃん以外の他者は、誰もがわたくしにとっては恐れ以外の感情を抱くことはできなかったから。
 そして、いつしか諦めるようになっていたのだと思う。何もかもに。
 ただ、いたずらに時間を過ごすことを受け入れるようになっていたのだと思う。
 周囲を満足に見渡すこともできない、今よりもずっと子供だったわたくしには、そうするしかできなかったのだと思う。
 わたくしと、殿ちゃんの、狭い狭い世界を、わたくしたちの全てだと思い込み、ほんの少し手を伸ばせば触れられたかもしれない、暖かな何かに気づくことさえできないままに。
 ほんとうに。
 今、思えばほんとうに。
 わたくしは、わたくしの周りにある、ありとあらゆるものを恐れることしかできなかったのだと思う。
 近づくことも、近づかれることも。
 そして、触れることも、触れられることも。
 ほんの少し、考えれば、差し伸べられた手の意味に、気づくことができたはずなのに。
 ただただ、怖いという気持ちが、何もかもを飲み込んでしまい、その恐れのままに、手を取ることができず、あまつさえ、その手を振り払うことさえしてしまったのだ。
 そうして、開いてしまったわたくしと、わたくし以外の人たちとの距離。その距離の隔たりに、少なからずの安堵を覚えていたわたくしは、ほんとうにばかだったと思う。
 心は、気持ちは、目に見えないそれらは、もっともっと遠くへ行ってしまっていたのかもしれないのだから。
 他者を傷つけることがなければ、自分が傷つけられることもない?
 そんな言葉を言い訳に、開いてしまった皆との距離を仕方ないものとして諦め、次第に鈍感になっていったのはいったい誰なのだろう?
 自分の心のほんとうのことにさえ気づけなかったわたくしが、自覚ないままに誰かを傷つけていなかったとなぜ言えるのだろう?
 ほんとうに、わたくしは、ばかだ。
 こんなわたくしが、この学院で、昔のような拒絶をされることがなかったのがどうしてなのか。
 こんなわたくしが、どうして、自分が傷つけられてしまったのと同じ方法で、他の人たちを傷つけようとしてしまったのか。
 ずっとずっと、そこにあった、さまざまなものの暖かさに、わたくしは守られていたのに。
「司さん……」
 間近で見つめるわたくしの視線など、まだ夢の中の彼には届かないけれど。
 分かってくれていますか、わたくしの感謝を?
 何度も何度も伝えた言葉でも、それでもまだ足りないくらいに、わたくしは貴方に救われていることを。
 届いていますか、わたくしの想いが?
 強いようでいて、わたくしと同じように、消し去ることのできない弱さを持っている貴方が、それでもわたくしを救おうとしてくれたように。
 わたくしも貴方を誰よりも近くで支えてあげたいと思っていることを。
 好きです。
 愛しています。
 他の誰よりも誰よりも。
 これまで数え切れないくらいに与え、与えられた言葉でも、まだ伝えきれないくらいに、いっそ溶けてひとつになってしまいたいくらいに、わたくしは貴方なしではもう生きていけないくらいになってしまっていることを。
 それは人によっては「弱さ」と呼ぶものかもしれないけれど。
 わたくしは、それを「強さ」と呼びたい。
 わたくしにとっては貴方と生きる日々は希望そのものだから。
 いつか貴方とふたりで、いろいろな場所へと行ってみたいという、言葉にすると笑われてしまうかもしれない、ささやかな事を夢見ているから。
 かつてのわたくしなら、夢にも思わなかった絵空事。
 けれど、今のわたくしには、それはいつの日か、必ず叶えたいと思える夢。
 それは。
 貴方に触れることで。
 貴方に触れられることで。
 貴方を想うことで。
 貴方に想われることで。
 貴方を愛することで。
 貴方に愛されることで。
 貴方から与えられた、わたくしだけの大切な夢。
 そして、わたしくも、また変わっていくことができるのだ。
 そんな当たり前のことを、当たり前じゃなかったわたくしに、思い出させてくれた、貴方と。
 いつまでもいつまでも、ともに長い未来を歩んでいきたいのだと、生きていきたいのだと。
 思っていることを。
 祈っていることを。
 願っていることを。
 誓っていることを。
 わたくしが、わたくしで決めた、たった一人の大切な貴方へ。
 精いっぱいに伝えていくことが、わたくしが貴方にできる、たったひとつの方法なのだと。
 だから、お願いです。
 離さないでください。
 もう二度と、離れないでください。
 貴方なしでは息をすることも忘れてしまいそうな、わたくしを。
 貴方におぼれてしまっているわたくしが、呼吸を忘れて死んでしまわないように。
 貴方の呼吸を、鼓動を、感じさせていてください。
 少しの間、ほんの数日、触れ合うことができなかっただけでこんなにも寂しくなる。
 あり得ないと理性が告げるけれど、ふとした時にしてしまう、「もしも」の恐怖に心が揺さぶられてしまう。
「司さん」
 わたくしの愛しい人。
「司さん」
 愛しています。
「司さん」
 愛してほしいです。
「司さん」
 目の前にある司さんの寝顔に惹きつけられてしまう。その前髪に。その瞼に。その耳に。その頬に。その鼻梁に。その唇に。その息吹に。貴方という貴方の全てに、わたくしは惹きつけられています。
「司、さん……」
 呼んでも呼んでも返事をしない彼に、わたくしは引きよせられていく。
「キス、したいです」
 目を覚まさないと、しちゃいますよ?
 目を覚まさないでと、脳裏ではもう一人のわたくしが言う。
 あと、少し。触れ合うまで、あと少し。
 わたくしだけが触れることを許されている、彼の唇と、彼だけに許しているわたくしの唇が触れるまで、あと少し。
「……ん」
 彼の優しい寝息がわたくしの肌をくすぐる。
 乾いてしまってはいないかと、慌てて舌先で自分の唇を湿らせる。
 あと少しで直接伝わる彼のぬくもりを思い、胸の鼓動がとくんと高鳴る。
 身体の芯がじんと熱くなる。
 口づけてしまったら止まらなくなるかもしれない。止められないかもしれない。
 そうなったら、責任取ってくださいね?
 こうなってしまったのは貴方のせいではないけれど、わたくしにこんな想いをさせておいて、寝たままなのは鈍感すぎます。ひどすぎます。
 そう思いながら、わたくしは目を閉じて……。
「や、梓乃。おはよう」
 その言葉で動くことができなくなった。
「……」
 え? 司さん? 寝ていたんじゃ?
 頭の中を駆け巡るのは意味を成さない言葉の破片と疑問符ばかり。
「梓乃? おーい」
 司さん、起きて? え、いつから?
 凍結してしまったかのように動かない身体と、反対に羞恥に一気に熱くなる頬。自分が何をしようとしていたのか、冷え始めた頭が再認識し始める。
「あ、あぅ……」
 わ、わたくしったら、なんてことを……。
「つ、司さん……その、これは」
 自分のはしたない行動に、上手い言い訳をしようとしても言葉は上手く出てこない。
「あ、あの……いつから?」
 せめて、これが夢だと思ってくれたなら。
 そんな都合の良い願いは、敢えなく彼に否定される。
「梓乃が、僕の名前を呼んでいたあたりから」
「そ、それって最初から……!?」
 かぁっ、と血が頭に上ってくる感覚。
「うん? どこからが最初からかは分からないけれどね。で、さすがに君からキスしようって時に、寝たふりするのは申し訳ないから、ね」
 あ、あああ……。
「梓乃? おーい、梓乃? ほら、そっぽ向かない。すぐに起きなかったのは悪かったからさ」
 真っ赤になった顔を背けようとするけれど、司さんはそんなささやかなわたくしの抵抗も許さない。
 視界を少しにじませる、涙の理由は恥ずかしさなのか悔しさなのか、わたくしにはもう分からなくて。
 ああ。わたくしはばかだ。
 つい、忘れていました。
 うっかり、忘れていました。
 貴方のそんないたずらっ子のような性格を。
「うーん、困ったなあ。そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないか。ここは僕の部屋なんだし。梓乃は僕の恋人なんだし」
「うー……」
「ほらほら、怒らない怒らない。これで勘弁してくれないかな?」
 そう言って、司さんはわたくしとの距離を零にする。茹だった思考に、熱い頬。けれど、それらよりも確かに、はっきりと伝わる唇のぬくもり。
「ぁ……はぁ」
 たったそれだけで身体から力が抜ける。触れた部分に意識が集中して、他のことがどうでも良くなってしまう。
「ご、ごまかされませんよ?」
「それは、寝ている間に、梓乃が僕に何をしようとしたのか、説明してくれるということかい?」
 ああ、また、こんな意地悪を言う。
 ほんとうは誰よりも優しいくせに、時々、こんな意地悪をしてくる司さん。
 大好きだけれど、大好きだから。わたくしは意地悪な貴方はこう返すと決めているのだ。
「……もう。貴方なんて、大っ嫌いです」
 そして、わたくしのこの台詞に、司さんが返す言葉も決まっているのだ。
「そうかい? 僕は梓乃のこと大好きだぞ」
 はい。知っています。
 わたくしも、大好きです。

§

「……もう。貴方なんて、大っ嫌いです」
 その梓乃の言葉は僕たちにとっては額面通りの意味を持たない。
 普段は素直なくせに、機嫌を損ねて、拗ねてしまうと、梓乃はすぐに子供みたいなことを言う。
 まぁ、それだけ僕に対して、甘えてくれているということだから、むしろ、それをこそ喜ぶべきだと思っているのだけれど。
 だから、彼女の可愛い憎まれ口に言葉を返す。
「そうかい? 僕は梓乃のこと大好きだぞ」
 言わなくても分かっているけれど、だからこそ、いつでも伝えたいと思っている気持ちを言葉に。
 僕がそう言うたびに、安心と喜びと愛おしさの混じった笑みをささやかにこぼしてくれる梓乃。
 微笑を浮かべる彼女の頬には、うっすらと朱が差している。
 先ほどの、触れるだけで済ませた口づけが、恥ずかしかったからなのか。あるいはその先を期待しているからなのか。
 僕には判断が付かないけれど、ここは都合良く解釈しても間違いではないと思う。
「梓乃」
 囁くように密やかに、けれど目の前で何かを期待しているかのように次の言葉を待つ彼女にははっきりと届くように、僕は梓乃の名前を呼ぶ。
「はい……」
 それだけで十分。
 たった一言、言葉を交わすだけで十分。
 僕の望みと、彼女の期待が、ぴったりと重なる感覚。
 そうして僕たちは、お互いの気持ちをお互いで満たすために少しずつ顔を寄せていく。
 僕はそっと梓乃の手を握り、少し高くなっている彼女の体温を肌で感じる。
 ふわりと香る優しい彼女のにおい。
 うすく開いた小さな梓乃の唇に、僕は自分の唇を重ねようと目を閉じて……。
「……え?」
 けれど、僕はそこで動きを止める。
 ちょっと待て?
 見てはいけないものを見てしまった気がするぞ。
 ここにいるはずのない人物の姿が目に映ってしまった気がするぞ。
「……?」
 硬直してしまった僕を、梓乃はいぶかしげに見上げてくるけれど、ごめん、今の僕は君の後ろにいる人に、声をかけなければいけない気がするんだ。
「あの、司さん?」
 期待が裏切られたのか、少し不満げに何かをねだる、そんな蕩ける甘さを言外ににじませ梓乃が訊く。
 落ち着け僕。ここで狼狽えては教師の名折れ。まして、梓乃の目の前で慌てふためくわけには……。
「と、とと、殿子ーー!?」
 ――無理でした。
「……は?」
 瞬間、梓乃も固まる。
 僕の視線が焦点を結ぶのは、梓乃の少し後方。
 かちこち、かちこち。
 時計の針の進む音が空気さえ固まったように思える室内に響く。ええい、これは幻聴だろう!?
 実際にはほんの短い時間だろうとも、僕たちにとっては果てしなく感じられる苦行に等しい時間。
 なんとか、硬直から脱した梓乃が、僕の視線を追って、ぎぎぎと音がしそうなぎこちない動きで首を回して背後を振り返る。
 瞬間。
「と、殿ちゃん!?」
 悲鳴じみた驚愕の声を梓乃が上げる。
「うん、おはよう。二人とも。もうすぐ夜だけれど」
 相変わらずマイペースな口調で殿子が言う。
 けれど、そんな殿子も、少しだけばつが悪そうにしているように僕には見える。
 ぼんやりとした表情をよそおっているように見えるけど、ほんのりと頬が赤くなっているような?
「ごめん、邪魔しちゃった?」
「邪魔だなんてそんな!」
「そんなことはないぞ殿子僕はお前ならいつでも歓迎だ」
「司さん! それってどういう意味ですか!?」
「ぐあ、梓乃、そんなところに食いつくな!」
「司さん、やっぱり殿ちゃんのこと……」
「違う違う誤解するな梓乃」
「そうなの? 司?」
「殿子もさらりと事態を悪化させるようなこと言うなー!?」
 静けさも二人きりの良い雰囲気も、一瞬のうちに吹き飛ばされてしまった。後に残るのは狂騒のみ。
「司さん!」
「司?」
 二人の言葉の矛先が、僕だけに向けられているのに理不尽さを感じてしまうが、ここは耐えろ滝沢司。詰めが甘くてうっかりしてしまったのはきっと僕の責任だ。ああ、今度からドアの鍵はしっかりとかけるようにしよう。気をつけよう。
「あのな、落ち着け梓乃? 怒ったってさっきまでのを殿子に見られてた事実は消えないぞ?」
「言わないでください!」
「大丈夫だよ、梓乃。みんな知っているから」
「何をですか、殿ちゃん!?」
 そこで視線を逸らさないでくれ、殿子。いったい何がどこまで知れ渡ってるのか不安だぞ、僕は。
「あああ、わたくしったら、わたくしったら……」
 羞恥に耐えきれなくなったのか、梓乃が炬燵に突っ伏すようにして顔を隠す。
 さすがにかわいそうになったので、僕は彼女の頭をなでて慰める。
「ふふふ。やっぱりお似合いだね、二人は」
 言う殿子はまぶしげに目を細める。
「羨ましかろう? お前にも梓乃は渡さないぞ?」
「良い。私は梓乃と司を見ているのが楽しいから」
 そう言って言葉を継ぐ殿子。
「だから。この学院を出る、その時が来るまで、二人が幸せでいてくれたら、それで良い」
「と、殿ちゃん?」
 梓乃が顔を上げ殿子を見る。殿子は笑う。
「梓乃が私なしでも大丈夫になったみたいに、私も一人で大丈夫なようになるから」
 それまでは一緒にいて欲しい。
 それは殿子のささやかな願いで、僕たちがそれに異を唱えることなどあり得ない願いだ。
「安心しろ。僕はここで好きなだけ教師生活を満喫するつもりだからな!」
「わ、わたくしもっ! ここで好きなだけ学院生生活を満喫しますからっ!」
 異口同音に僕たちは殿子にそう告げる。
「……でも、結婚は良いの?」
 そんな当然の疑問にも。
「それはそれ!」「それはそれです!」
 僕たちは声をそろえて即答する。
「ふふ、ふふふ。あはは!」
 そんな僕らを見て殿子は笑う。楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。
 自然と僕らもつられて笑う。楽しいから、嬉しいから、幸せだから。
 僕と梓乃が結ばれてから約一年。まだたったの一年だ。何も変わっていないような気がするけれど、少しずつ何かが変わってきているような気もする。
 僕は相変わらず教師のままだし、梓乃は変わらず僕の教え子のままだ。そして、この関係は僕たちがこの学院を巣立つ時までずっと続いていくのだろう。
 それがいつ訪れるのかを、僕たちはまだ知らない。
 足りないものだらけの僕たちが、大人として新しい世界へと進むには、まだまだ時間がかかりそうだから。
 だから、僕は精いっぱいに今を楽しもうと思う。
 愛しい恋人と共に、彼女の親友と共に、そしてたくさんの僕の教え子たちと共に。
 この凰華女学院分校で。
 時に笑い、喜び、時には悲しみ、泣いて、そうやって僕たちは幸せを積み重ねていくのだ。
 かけがえのない幸せを。
 そして学んでいくのだ。成長していくのだ。
 だから祈る。だから願う。
 ――この幸せが、ずっとずっと続きますように。
 笑い合う二人の姿を見ながら。僕はそう願う。


このSSは2010年12月頒布の同人誌「Winter Days ~ふゆのひび~」収録の拙作を一部修正したものです。