ありがとう、をあなたへ

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ありがとう、をあなたへ

 燦々と降り注ぐ暖かな陽の光に抱かれて、私たちはのんびりと、ようやく訪れた季節の匂いを楽しんでいた。
穏やかな風にのせて運ばれる、柔らかさに満たされた春の匂いはただ緩やかに、私たちを包み込むようにゆっくりと流れて行った。
何度こんな感覚を味わったのだろうか。
私はやっぱり春が好きなんだと、この季節を感じる度に思う。
ゆっくりと季節の移ろいを感じながら、だんだんと寒くなる一年の終わりを過ごし、そして迎えた新しい一年を雪や木枯らしと共に過ごし、雪解けの水溜まりや芽吹き始めた若葉たちや木々の蕾、こうして感じる暖かなそよ風。
そして何度も思う。
またこうして新しい季節の始まりを感じることができる事に。
こうして隣にいてくれる私の大切なひとに。
『ありがとう』
と。

§

風が舞う。
木々の梢を揺らして、若葉を優しく撫でながら。
私たちの髪を緩やかに揺らしながら。
「ん……」
私は小さく息を吐いた。
「どうした?」
眩しそうに空を見上げていた浩之ちゃんが私に訊いてきた。
「ううん」
優しげな笑顔のまま、私を見つめてくれる浩之ちゃんの笑顔に、私もありったけの笑顔で答える。
「気持ちいい陽気だなぁって」
「そうだな」
私も浩之ちゃんと同じように青い青い空を見上げた。
ときどき聞こえる小鳥達の囀りは、遠く近く私たちの周りでまるで輪唱のように響いて、雲の白は降り積もっていた雪を思い出させた。
雪解けの季節は少し前まで。
至る所に見えていた雪解けの水溜まりもほとんどその姿を消して、日陰にわずかに見られるくらいにまで減っていた。
寒さに震えていたつい先日までの出来事を思い出す。
コートに身を包んで、ともすれば滑りそうになる足元に気を付けて歩いたこの道。
足を滑らせて体勢を崩した私を慌てて支えながら苦笑した浩之ちゃんの笑顔が脳裏に浮かんだ。
「やっぱり寒いのよりはこっちの方がずっといいな」
「うん、そうだね」
「でも春休みもあと少しってのがちょっとな……」
「もう、高校の頃から言うことは一緒だね」
くすりと笑みを零しながら私は浩之ちゃんのグチに言葉を返した。
毎年言ってる口癖にも似たその言葉は、やっぱり私にとっては大切な、大好きなひとの言葉だから、こうして今年も浩之ちゃんの言葉が聞けた事が嬉しかった。
「私はでも、冬も好きだよ」
ホントは浩之ちゃんと過ごす季節が好きなんだけどね。
喉元に出かかった言葉を笑顔で飲み込みながら浩之ちゃんに言った。
「寒いのは苦手だけど、やっぱり雪って奇麗だからね」
「お前がドジをしなければオレだって嫌いってほど嫌いでもないぜ?」
してやったりの笑顔で私の台詞にツッコミを入れる浩之ちゃん。
「う……」
「毎年毎年飽きないよな」
「しょうがないよ。道路凍っちゃったら滑っちゃうもん」
「来年は何回お前が滑ったか数えてみようか?」
「意地悪だね」
「いつもの事だろ?」
「うん」
さり気なく私も反撃。
「言うようになったな」
「えへへ。毎度の事だもん」
「そっか」
「うん」
言って笑い合って。
こんな何気ない会話も、毎日を輝かせるための大切なかけらたち。
小さな小さな思い出も、きっとこんな日常から生まれるものだから。
だから浩之ちゃんの意地悪さも、優しさも、怒りも、哀しみも、全部同じくらい大切に思う。
私が好きなのは、そんな浩之ちゃん全部だから。
「学校、もうすぐだね」
「ようやく一年か。結構苦労したなぁ……」
「そんな事ないでしょ?」
「う~ん、まだ専門的な講義をやってないからそんなでもないけど、やっぱキツいわ」
「怠けちゃダメだよ」
「はいはい、お互いにな」
大学生になってもう少しで一年が経とうとしていた。
浩之ちゃんの頑張りもあって私たちは同じ学校へ進学することができた。
もちろん学部は違うけれど。
でも、やっぱり最初のうちは教養の講義とかで一緒になる事が多くて、そう気付いてからの後期では、示し合わせて一緒の講義を受けたりした。
隣り合ってノートを広げて、難しい話に耳を傾けていても、やっぱり私は隣の浩之ちゃんを意識してしまっていた。
うつらうつらと居眠りしそうになる浩之ちゃんをつついて起こしたり、ちょっとだけ退屈な時間はその日の夕食の話をしたり、休日の予定を打ち合わせたり、少し前までは考えもしなかった毎日がそこにあった。
考えてみれば高校の頃までは遠巻きに見つめていた事も多かったと思う。
朝の登校や、お昼、たまに一緒にした試験勉強とか。
でも、浩之ちゃんと一緒に過ごすようになって、毎日いろいろな表情を見せてくれる事が嬉しかった。
分かっていたつもりでもまだまだ分からない事も多くて、見えなかった浩之ちゃんの一面を見れた事がちょっと意外で、それ以上に嬉しかった。
もっともっと浩之ちゃんのことが知りたくて、私のことも知ってほしくて。
そう思って一緒の学校に進んで、ちょっとした頃に言ってくれた言葉。
『一緒に暮らさないか?』
唐突に、でも真剣にそう言われたのは真っ赤な夕日が空を焦がし始めるそんな時間。
夕日の紅さが目に染みて。
ただ頷く事しかできない私がそこにいた。
『今すぐ結婚、て訳じゃないけど。――ずっと一緒にいてほしいから』
『う……ん。うんっ!』
精一杯の笑顔で頷いた私を抱き締めてくれた浩之ちゃんの腕は、今までよりもずっとずっと大きく感じられた。
お父さんもお母さんも、最初はびっくりしていた。当然だけど。
結局、私の方から切り出して半ば強引に説得をしてしまった。
意外なところもあるもんだ、なんて驚きながら言った浩之ちゃんの表情がちょっと可笑しかったのを覚えてる。
浩之ちゃんのご両親は、ずいぶん前から浩之ちゃんの方から話があったらしくて、
『ようやくか、うちの浩之をよろしく頼むね、あかりちゃん』
なんて言われてしまった。
ちょっと照れ臭くて、でもとても嬉しくて。
私のことをずっと考えていてくれたんだって思ったら涙が溢れて。
困りながらも嬉しそうに笑い掛けてくれたおじさん、おばさんの笑顔は、多分私が知っている中でも一番輝いていたものだったと思う。
ずっと憧れていた浩之ちゃんとの生活。
変わった事も変わらなかった事も、たくさん、たくさん。
もともと一人暮らしに近かった浩之ちゃんと過ごした時間が長かったから一緒に暮らすっていう感覚に慣れるのもすぐだった。
さすがに最初の夜は緊張したけれど。
その分嬉しさとか、浩之ちゃんのために頑張れる私でいれる事の満足感も今まで以上に感じることができた。
ときどきは私の家で家族で食事したり、浩之ちゃんの家族が揃った時はみんなでお出かけしたり。本当にままごとみたいな楽しい生活。
辛かった事が全くなかったわけじゃないけど、その度に浩之ちゃんの優しさを感じることができた。
たまにはわがままを言って困らせたり、怒らせたり、その逆も。
でも、そんな事の度にお互いの想いの強さとかを実感できた。
少しずつ見えてきたいろいろな浩之ちゃん。
一緒にいれる事の楽しさや辛さ、本当にいろいろな事を感じた一年だった。
「早かったかなぁ?」
訊いてみる。
「ん?」
「この一年」
「まぁ、いろいろあったからな」
苦笑がちに浩之ちゃんが答える。
今でもあの事を話そうとすると照れて護魔化して、恥ずかしい思い出になっているようで。
「私にはいい思い出ばかりだよ」
「そっか」
「浩之ちゃんの本気も見れたしね」
くすくすと笑いが零れてくる。
「ばっ……」
浩之ちゃんは言葉を詰まらせて外方を向いてしまう。
照れた時、困った時に決まって見せる浩之ちゃんのクセ。
「ふふ」
「その時の話はするなって」
「私にとっては一番嬉しかった事だもん。忘れろって言っても忘れられないよ~」
「だからその話をするなって」
ため息混じりにぽつりと呟いて、もう一度さらに深いため息。
「私は幸せだよ? こうして一緒にいられるのも浩之ちゃんのおかげだから」
「う」
「浩之ちゃんは違うの?」
分かってて訊いてしまう私。
私も随分浩之ちゃんに対して意地悪できるようになったと思う。
「はぁ……」
さっきよりも深いため息。
「ね?」
「言わないとダメなのか?」
「う~ん、どうしようかなぁ」
浩之ちゃんの顔が少しだけ赤くなってるような気がするのは錯覚?
多分、ホント。
照れ屋さんな浩之ちゃんだから。
「やっぱり、言ってほしいな」
優しくそよ風が吹き抜ける。
太陽は雲に隠れ、そしてまたすぐに顔を覗かせる。
さっきよりも眩しさを増したような陽射しが辺りを白く彩った。
「ダメ、かな?」
声のトーンを少し落としてもう一度訊いてみる。
弱ったような浩之ちゃんの表情。
でも、訊きたいから。
お願いだよ、浩之ちゃん。
「しょうがねーな」
「ふふふ……」
頭に手をやって掻く振りをしながら一言ぽつりと。
地面に落ちた若葉の影が静かに音もなく揺れた。
「オレもお前と一緒にいれて幸せだ」
「――うん」
「だから……」
「? 浩之ちゃん……?」
予想外の展開に私の心に疑問符が浮かんだ。
辺りから音が消えたような不思議な感覚。
浩之ちゃんの表情に、言葉を紡ぐ唇に、私の神経が集中した。
「これからも一緒にいてくれ。オレからのお願いだ。お前がいてくれれば、オレも頑張れるから」
滅多に聞けない浩之ちゃんの本心。
言葉にしてくれなくても伝わる事もある。
でも、こうして言ってくれる事がどんなに嬉しいか、考えた事ある?
ねぇ、浩之ちゃん?
ホラ、私も……。
「――うんっ」
こんなに、嬉しいよ。
涙が溢れてくるよ、嬉しさと幸せで。
春風にのせて流れる小鳥たち歌声、そよ風の囁き、木々のざわめき、小川のせせらぎ。
「私も……っ」
「あかり……」
「ずっと……一緒にいてね、浩之ちゃん」
素直になれた私がいた。
いつもよりもずっと自然に、わがままを、でもこれだけは叶えてほしいと思う、たったひとつの願いを口にして。
浩之ちゃんを信じてる。
「ったく、何度も言ってるだろーが」
くしゃりと私の頭に手を乗せて優しく撫でる。
一年前よりも少しだけ伸ばした髪の毛が、さらさらと浩之ちゃんの指を流れ零れた。
「うん……。でも……うれし……よっ」
心の中に広がる浩之ちゃんへの想い。
暖かな思い出と、これからのふたりの未来への希望。
ずっと信じている事ができると思う。
確証じゃないけれど。
でも、私たちふたりの願いだから。
きっと大丈夫。
信じてるから。
「これでいいか? ったく恥ずかしい事言わせやがって」
「う、うん。ゴメンね、でも嬉しいよ……やっぱり」
こつん、と浩之ちゃんが優しくこづく。
「あっ」
「滅多な事言わせるなよな、あかり」
「えへへ、また嬉しい思い出ができちゃったよ」
頬を濡らした涙を、私はそっと手の甲で拭った。
涙の跡は少し冷たくて、でも、陽射しに溶けて暖かさに変わった。
微笑む浩之ちゃんがいる。
大好きな大好きな、私の大切なひと。
そんなひとと歩いた眩しい季節が始まった日、私の心に新しい思い出が刻まれた。
それは甘くて切ない、涙色の言葉と情景。
こんな日常の風景さえも、色づいて私の中にいつまでも残るのだろう。
だから。
「じゃあ、私からも」
ずっと信じてるね。
私も一緒にいるって約束するから。
そう言って私は浩之ちゃんの両肩に手を添えて、つま先立ちで背伸びした。
「ん……」
優しく触れる互いの唇。
暖かさと陽の匂い。
そして大好きなひとの温もりと。
『愛してる』
伝わる気持ちが嬉しかった。
それは。
春の訪れを心から感じた。
そんなある日の出来事。
浩之ちゃんへの想いがさらに深まった。
そんなある日の出来事。
ありがとう、ね。

──了──

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