降り積もる雪の中で、柔らかな温もりに抱かれて

「――あ、雪……」

 ふと見た灰色の空から緩やかに舞い降りてくる白。

 黒板を叩く先生のチョークの音だけが冬の厳しさとは程遠い穏やかな教室に響いていた。

 何年経っても変わらない冬の訪れを、今年も同じように特別な感慨も抱かぬまま、私は黒板を一瞥してからもう一度空を見上げた。

「……坂」

 ――え?

「美坂!」

「わ!」

 思わず反射的に声を上げ、恐る恐る窓から視線を戻すと……。

「全く……『わ』じゃないだろう」

「すみません」

 私は素直に頭を下げる。

 先生はやれやれと言った様子で、

「一応、今は授業中なんだから外を見るのは休み時間にでもしておけよ」

「はい」

「じゃあ、この部分、訳してみろ」

「はい……」

 黒板上に白いチョークで流暢な筆記体で書かれた教科書の一文を見て……、

 視界の隅にいよいよ本格的に降り始めた雪の姿を捕らえながら……、

 私はゆっくりと言葉を紡いだ。


Kanon Short Story

降り積もる雪の中で、

柔らかな温もりに抱かれて


 授業の終了を告げる鐘が鳴った。

 ――ふぅ。

 ほっと胸をなで下ろしながら私は静かに息を吐いた。

 今日の日程はこれで終了。

 周りを見れば早々に教室を立ち去ってる男の子、雑談に花を咲かせて冬の寒さを吹き飛ばすような明るさで笑い声を上げている女の子たちの姿。

 ――私は……。

「美坂さん、スゴイね!」

「え?」

 突然声をかけられて、はっと顔を上げる。

「さっきの授業! 結構難しい内容だったじゃない? あんなに簡単に答えられるなんてスゴイなーって、ホント尊敬しちゃうよ~」

 一息に言いたいことを言った彼女に、

「そんなことないですよ、きっと偶然です」

「え~? 偶然で答えられるなんてないでしょ~、やっぱり頭、いいんだね」

「そんなこと……」

「?」

「去年も習ったところですから……」

「あ!」

 私の言葉に、彼女は、

「ゴ、ゴメンね」

 本当に申し訳なさそうに、顔を伏せて呟くような小さな言葉で謝った。

「いえ、別に気にしてませんから」

 穏やかな語調のまま、私は彼女に顔を上げて貰う。

「そ、そう? ゴメンね、あたしったら……」

「本当に気にしてませんから」

 萎縮したままの彼女の姿に、私は苦笑して、

「去年はずっとひとりでしたから」

「病気、だったんだよね……?」

 遠慮がちに訊く彼女に、私は頬を緩ませ、

「はい、結局去年は入学してからほとんど学校には来れませんでした」

「うん」

 彼女は私と向かい合って――私の席の隣りの席に腰を降ろし、簡単な相槌で答えた。

「だから友達なんてほとんどできませんでした。外出もほとんどせず、だから勉強だけはクラスのみんなと同じようにしたくて、ずっとひとりで勉強してたんです。先生に訊くこともできなかったですから、あんまり出来は良くなかったと思いますけど」

 こうやって自分のことを他人に話すのなんていつ以来だろう?

 どうして彼女にこんな話をしてるんだろう?

 彼女が迷惑しているかもしれないのに……。

「でも、きっとテストだけ受けられても、出席日数が全然足りませんでしたから、どっちにしてもこうやってもう一回一年生をやることになったんでしょうけどね」

 笑顔で、私は言った。

「――美坂さんて、強いんだね……」

「そんなことないです」

 小さく首を横に振り、

「でも、そうですね……、あの頃に比べたら強くなれたかもしれません」

 きっとそれは、あの人に出会えたから。

「私にも、ちっぽけですけど楽しみにしてたことがあったんです」

「うん……」

「ひとつ上の姉がいるんです」

「お姉さんって、三年生の美坂先輩だよね?」

「はい、姉と同じ学校に通って一緒にお弁当を食べる。そんなことを楽しみにしていたんです。そんなささやかな願いも、あの時の私には精一杯の願いでした。叶うことがないっていうのも分かっていたんですけど、諦めることができませんでした」

 優しかった姉の笑顔。

 身体のことを気遣っている姉の気持ちが私には痛いほどよく分かっていた。優しいから、傷つきやすい心を 持っていた姉だから、あの時の私の状態が絶望的だったことが分かっていたから、姉の態度がだんだんと硬くなっていくのを見ても、姉の私を見る目が妹から赤 の他人に変わっていくのを見ても、それは私の責任だと思ったから何も言うことはできなかった。

 ただただ自分が情けなくて、悔しくて……。

「大丈夫? 無理に話してくれなくてもいいよ……。なんだか今の美坂さん辛そうだもん」

「大丈夫です。ごめんなさい、そんなに暗い顔してました?」

「暗いっていうか、すごく辛そうだから……。私なんかに話していい話じゃないでしょ?」

「――いいんです。なんとなく聞いてもらいたい気分なんです、迷惑でしたか?」

「ううん、そんなことないよ! あたしなんかでいいんだったらいくらでも話してよ、美坂さんがイヤじゃないんだったら」

 かぶりを振りながら、慌てて私の言葉を否定する彼女を見て、どことなくあの人と似た優しさを感じた。

 ――だから……?

 いつになく饒舌になっている自分に少しだけ戸惑いながらも、人気の減り始めた教室で、それでも帰ろうとせずに私の言葉を待ってくれている彼女に向けて口を開いた。

「言われたんです。『奇跡でも起こらなければ回復しない』って」

 姉の口から聞いた、お医者様の言葉。

 私の最後の希望を刈り取った言葉。

「だから、生徒として通うことができないなら、せめて自分がこの学校の生徒だったという思い出だけでも残そうと、こっそりと家を抜けだしてこの学校にひとりで通ってたんです。三学期が始まったその日からのことでした……」

「……」

 無言で、それでも私から視線を逸らさずに彼女は話を聞いてくれている。

「こんなことしても意味はない、っていうのも分かっていました。クラスメートたちも私のことを知っている人なんてほとんどいませんでしたから、教室に入ることはもちろん、誰にも話しかけることもできず、話し掛けられもせず、それでもいいんだって自分に言い聞かせて……」

「――具合、悪くなったりしなかったの?」

 信じられないといった様子で、当然な疑問を口にする彼女。

「はい。家でじっとしているよりずっと体調は良かったんです――あるいはそう思っていたのは単に自分をごまかしていただけかもしれませんけれど、不思議と辛いということはなかったんです」

「ずっとひとりで……?」

 いいえ、と言いながらゆっくりと私は頭を横に振る。

「最初はひとりでした。それが当然で、他の人が私に話し掛けてくるなんて考えてもいませんでした」

 舞い落ちる雪の中、凍てつく冬の風に吹かれながら佇んでいた私に声をかけてくれたあの人。

「ある人がお昼休みに私の所へ来たんです。人気のない、雪の積もっているような中庭に。その人も転校して来たばかりで、だからでしょうか? 少しだけ気兼ねなく、普通に私に接してくれたんです。もっとも、私は『風邪で休んでいる』って嘘をついちゃったんですけどね」

 ちょっとだけ笑みを浮かべていたずらっぽい表情で言う。

「それから毎日私は学校へ来ました。その人も私のことを心配してくれてるのか、毎日お昼休みになるとわざわざ中庭まで私に会いに来てくれました。『アイスクリームが食べたい』なんて私のわがままにも苦笑しながら付き合ってくれましたし」

「真冬にアイスなんて食べてたの? 中庭で?」

「はい。暑い時に食べるのも美味しいですけど、冬に食べても美味しいんですよ」

「そ、そう……」

 さすがに目を丸くして驚いてる彼女に、くすっ、と微笑んでから、

「あの人のおかげでちょっとだけ私の願いが叶ったんです。昼休みだけの短い時間でしたがその時間だけ、願いが叶ったんです」

「うん……」

「それからもあの人はイヤな顔一つせずに私を普通の女の子として扱ってくれました」

「その人も、すごく強くて、優しい人だったんだね……」

「はい。もしあの頃に比べて私が強くなったとすれば、あの人のおかげです。あの人がいなければ、今の私はきっとなかったんですから……」

「――美坂さん」

「はい?」

「その人と会えて良かったね」

 まるで自分のことのように、静かに言った彼女の、両の瞳に微かに揺れるものが見えた。

「はい」

 そう、きっとあの人と出会えたことが……。

「――すみません」

 謝る私に彼女は意外そうな声で、

「え?」

「何だか暗い話になってしまいましたね」

 言いながら彼女に軽く頭を下げる。

「あ、そんな、頭なんて下げないでよ~。あたしの方こそあんまり親しいってわけでもないのに不躾にあれこれ訊いちゃって。気、悪くしなかった?」

「はい」

「良かった~」

「私の方こそありがとうございました。えっと、白……澤さん?」

「あ、ゴメンね~。今までほとんどお話しなかったからね。白澤唯凪、唯凪でいいよ」

「ゆいな、さん?」

「うん、改めてよろしくね、美坂さん」

「はい、こちらこそ」

 暗く重い、この街の冬の空。

 窓の外は一面の雪景色。

 静かに街を埋めてゆく白を見ながら、

「唯凪さん」

「なに?」

「奇跡、ってどう思います」

「――奇跡?」

「はい。これまで私は起こらないから奇跡っていうんだと思ってました」

 小首を傾げて少しだけ視線を彷徨わせた後、彼女は、

「奇跡は起きるんだと思うよ」

 はっきりと、迷いのない言葉。あの日あの人が私に言ってくれたように……、

「ほら、美坂さんは今、こんなに元気でしょ? だから奇跡っていうのは起きるものなんだよ。どんなに可能性が低くても、それが起きるから奇跡っていうんだと、あたしは思うな」

 …………。

 奇跡は起きるから奇跡……。

「そうですね……、きっと、そうなんですよね」

「うん」

 だから、あの人と出会えたこともきっと奇跡。

 数々の出会いの中で、誰よりも大切に思える人に出会えたこと、彼女とこうして話ができたこと、すべてが無数の可能性の中で起きた小さな奇跡。

「ありがとうございます、唯凪さん。あなたとお話しできて良かったです……」

 そう言って涙混じりの微笑みを浮かべた私に、彼女は嬉しそうに微笑み返してくれた。

 窓の外は一面の雪景色。

 静かに街を埋めてゆく白を眺め続ける。

 この「巡り合い」という小さな奇跡に心から感謝しながら……。

「遅~い」

 昇降口に佇む人影が、私の姿を認めてからの第一声。

「ごめんなさい、お待たせしちゃいました」

 彼のもとに駆け寄って、弾む息を整えながら言う。

「『しちゃいました』じゃないぜ~。こんな寒いところでずっと待たせて……、何度先に帰ろうと思ったことか」

「……そんなことする人、嫌いです」

「だったら、ホラ、そろそろ行こうぜ? 雪もかなり積もって来たし急がないと面倒になりそうだからな」

「あ、そうですね」

 靴を履き替え並んで昇降口を後にする。

 肌に突き刺さるような冬の風が私たちの間を吹き抜ける。

「うぅ、いきなり寒くなってきたな……」

 白い息を吐きながら、ぶるぶると身震いをしながら呟きを漏らす。

「そうですね……。でも……」

 言いながら私は彼の腕に自分の腕を絡ませる。

「栞……?」

「ほら、こうすれば暖かいでしょう?」

「ああ」

 言って照れ隠しの苦笑を浮かべながら、空いた方の手で傘を開く。

 ――バサッ

 勢いよく開いたふたりが入るには少しだけ小さな傘の下、ゆっくりと歩を進める。

「今日、新しい友達ができたんです」

「へぇ、どんなヤツ?」

「ヤツって言うのは失礼ですよ。ちょっとだけ誰かに似た雰囲気のとっても優しい人です」

「へー、さぞかしいいヤツなんだろうな」

「自画自賛って言葉、御存知ですか?」

「ぐっ、さり気なくキツいこと言うな」

「冗談ですよ」

 笑顔で彼の苦い顔を見返す。

「――ところで、そいつって男なのか?」

「違いますよ、女の子です。――あ? もしかして妬きました?」

「そんなんじゃねーよ」

 顔を覗き込んだ私から視線を逸らしてぶっきらぼうに言い放つ。

「あ、そんなこと言う人、嫌いですー」

「――でも、良かったじゃん。いい友達になれそうなんだろ?」

「はい」

「そっか」

「はい」

 しんしんと降り積もる新雪に、ふたり分の足跡を残して、

「今日も帰りどっか寄ってくか?」

 彼の温もりに抱かれながら、

「もちろんですよ」

 私の想い全てを込めて、彼の名を呼んだ。

「祐一さん」