その日を待ちながら

『夢を見ていた』

『とても仲のいい姉妹の夢』

『姉は、誰よりも妹のことを可愛がっていた』

『妹は、そんな姉が大好きだった』

『一緒の制服に身を包んで……』

『同じ学校に通って……』

『暖かい中庭でお弁当を広げて……』

『そして、楽しそうに話をしながら、同じ家に帰る』

『そんな些細な幸せが、ずっとずっと続くという……』

『……悲しい……夢だった』

『奇跡』

それは。

あたしの嫌いな言葉。
あたしには一番遠い言葉。
聞きたくない言葉。
口にしたくない言葉。

信じたくない言葉。

でも。

信じたい言葉。

『起きないから奇跡って言うのよ』

起きるはずがない。
分かっている。
それは、起こるはずのないものの象徴。

でも。
それでも。

滑稽に。
道化のように。

待ち続けて。
望み続けて。

諦め切れずに。
あがいて。

後悔を繰り返す。

『奇跡』が起きる……。

“Kanon” Short Story
その日を待ちながら

あの子と言葉を交わさなくなったのは、いつからだろう。
あの子の姿をこの目に映さなくなったのは、いつからだろう。

凍り付いた心。
欺瞞に満ちた笑顔。
今のあたしには本当のあたしが見えない。

本当のあたしを。
本当の心を。

あの子に見せたなら。
今よりも大きな悲しみが待つだけだと分かっているから。

それは聖なる夜。
クリスマスの夜。

あたしは、真実を告げた。
告げるべきではなかった真実。
絶望を撒くだけの真実。

逃げたかった。

その重みから。
この現実から。

寂しそうに。

でも、気丈に。

つくりものの笑顔で。

『そう、ですか……』

とだけ呟いた。

あの子の言葉が痛かった。

──何故。
何故?

分かっている。
分かっているはず。
あたしには耐えられない。
耐えることなどできない。

あの子を失うことなど。
あの子が消えてしまうことなど。
あの子のことを想い出に還すことなど。

できるはずがない。

運命なんて安っぽい言葉で片づけないで。
どうしてあの子がこんなに辛い生を背負わなければいけないの?
どうしてあたしがこんな言葉であの子を苦しめなければいけないの?

『奇跡でも起きれば』

気休めは言わないで。
分かっているでしょう?

『起きないから奇跡って言うのよ』

そう……。
起こるはずなんてない。
それは現実から逃れるための免罪符に過ぎないのだから。
硝子のように脆い心を守ろうとするための戯言に過ぎないのだから。

だから。
軽々しく。
『奇跡』なんて口にしないで。
その言葉の意味も分からずに。
軽々しく口にしないで。
あたしの心を。
あの子の心を。
これ以上掻き乱さないで。
苦しめないで。

──お願いだから。

時が止まれば。
何度そう思ったことだろう。
凍り付いたこの季節にでも。
あの子が笑顔でいられるなら。
寒さなど感じないのに。
きっと昔のように仲の良い姉妹でいられるのに。

時が止まれば。
何度そう思っても。
それは叶わぬ願い。
何度そう思っても。
雪解けの季節はゆっくりと。
確実に。
近づいてきている。

あの子との別れが。
確実に。
近づいてきている。

孤独。
絶望。
焦燥。

『お姉ちゃん』

時間が。
あの子の言葉が。
あたしの心を蝕む。

忘れよう。

望まなくても訪れる瞬間があるなら。
耐え難い悲しみがそこに待つのなら。

忘れよう。
何もかも。

あの子のことも。
あたしのことも。

何もかも。

あの子の心に深い影を落としたとしても。
あたしの心に深い傷跡を残したとしても。
その方がいい。

耐え難い悲しみがそこに待つのなら。

弱い。
狡い。
汚い。
醜い。
心。

あたしの心。
『他人』という仮面を被り、深く沈めた弱い心。
少しでも。
ほんの少しでも。
強さを持つことができたのなら。
あの子の心を救ってあげることができたかも知れないのに。
あの子の孤独を埋めてあげることができたかも知れないのに。
あの子の悲しみを背負ってあげることができたかも知れないのに。

赦して欲しいなんて言わない。
恨んでくれても構わない。

だから。
あなたにも忘れて欲しい。

こんな弱いあたしを。
こんな狡いあたしを。
こんな汚いあたしを。
こんな醜いあたしを。

忘れて。
お願い。

──栞……。

あたしには『奇跡』は起こせないから。
あなたの心を救ってあげられないから。
あなたのささやかな望みすら叶えてあげられないから。

あたしを、忘れてちょうだい。

──栞……。

あなたに笑い掛けられた昔のあたしはもういないのだから。

今日という日が昨日に変わり。
昨日までの日々が去年という言葉で括られ。
新しい日々が。
新しい一年が。
始まる。

残された時間。
残り少ない時間。
あなたはあたしのことをどう思って過ごすのだろう。

──恨んでいる?
それでもいい。
──憎んでいる?
それでもいい。

それとも、まだ。
あたしのことを姉として見てくれているのだとしたら。
悲しいけれど。
苦しいけれど。
辛いけれど。

嬉しい。

あたしもまだ。
あなたのことを忘れることができないから。
あたしにとってたったひとりの妹なのだから。

忘れたい。
でも。
忘れることなどできない。
矛盾した心を抱え。
それでも、時は待ってくれない。
無情に過ぎゆく時間と、過ぎ去った季節を想い。
何もできない自分の無力さを呪い。

また。
今日が終わりを告げる。

短かった冬の休暇が終わり、三学期が始まった。
今日もあの子を残してあたしは家を出た。
辛い現実から逃げるように。
あの子の視線から逃げるように。
見送るあの子と決して視線を合わせずに。

見送るあの子の視線が痛くて。
あたしは逃げるように家を出た。
あたしにとっての『現実』へ向かって。

学校はあたしにとって唯一の安息の時間だったかも知れない。
親友と呼べる名雪といられる時間はあたしにとってとても貴重だった。

――そして。

そしてあたしは。

――彼と出逢った。

『この人、誰?』

訊いたあたしの言葉に、名雪は。

『わたしのいとこの男の子だよ』

いつか聞いたいとこの話。
嬉しそうに、そして哀しみを裏に隠した名雪の言葉。

『俺は相沢祐一だ。えっと、美坂さん?』

彼。相沢君はそう言って自己紹介した。

彼の瞳の中に一瞬見えた光。
哀しみに閉ざされた心を持ったひとの瞳。
あの子と同じ光。
そして多分、あたしとも同じ。
哀しみに閉ざされた心の光を宿した瞳。

――それだけが印象的だった。

その夜。
低い嗚咽に気付いたのは偶然だったのだろうか?

妹の部屋から聞こえてきた泣き笑いに似た嗚咽。
その理由に気付くこともできず。
ドアを開け、妹の名を呼ぶこともできず。
あたしは。
ただドアの前で、声を殺し嗚咽を漏らす妹の姿を想い。
涙を流すことしかできなかった。

――栞?

――なぁに? お姉ちゃん。

――幸せだった……?

――おかしなこと、訊くんですね。

――そうかしら?

――そうですよ。幸せだったに決まってるじゃないですか。

――そう……。

――これからだってずっと幸せですよ。

――栞……?

――だって……。

続く妹の言葉を待たず。
そこで夢は終わった。

枕を濡らす雫と。
気怠さだけを残して。

あれから。
彼と、相沢君と出逢ってから妹は変わった。
変わったと言うよりも、かつての自分を取り戻したかのように、元気に笑うようになっていった。
雪の降り積もった中庭で、楽しそうに笑う妹を見て。
あたしは胸が痛んだ。
彼の顔を覗き込みながら、屈託なく笑う妹を見て。
あたしは胸が痛んだ。
毎日。
毎日。
繰返し訪れる日常の中、妹の隣に居るのがあたしではないこと。
それだけがあの子の望みと違った。
それでも、それがあの子の望んだ日常であることに変わりはなかった。

『相沢君……』

訊きたかった。

『……ひとつだけ答えて』

彼の本当の心が。

『……その子のこと……好きなの?』

本当に妹を選んで後悔しないのか。
あたしと逆の選択をしようとしている彼に。
妹と共に残り少ない時間を過ごすことを選んだ彼に。
雪に包まれた中庭で佇む妹を見つめながら。
彼の言葉を待つあたしに。
彼は。

『たぶん、好きなんだと思う』

寂しそうに。
そう、小さく呟いただけだった。

『……そう』

瞳に湛えた悲しい光は、妹に向けたものか。
それともあたしに向けたものだったのか。
あたしには分からない。

『じゃあ、俺も行くから』

ただ。
彼の言葉。
それだけは信じたい。
元気に手を振り、嬉しそうに笑う妹の姿が。
硝子越しに滲んで見えた。

――お姉ちゃん?

――どうしたの、栞?

――私、とっても幸せです。

――そう……。

――はいっ。

――彼のおかげかしら?

――えっ? そ、そ、そんなことないですーっ。

――ふふふ、照れなくてもいいじゃない。幸せなんでしょ?

――そ、そうですね。幸せですっ。

――良かったわね。

――あ……。

――どうかした?

――やっと、笑ってくれましたー。

――え?

――お姉ちゃんが笑ってくれて、私も嬉しいですー。

――学校へ行きたくない。
正直、彼と妹の姿を見ることに耐えられなくなってきていた。
食事も喉を通らなくなってきている。
身体が怠い。
頭が重い。

『何やってんだ、こんなところで?』

昨日、あんなところに出たから……。

『……寒いわね、ここ』

あなたのせいよ、相沢君。

『こんな所、人の来る場所じゃないぞ』

でも、あの子は待っていたのよ……。

『ほんと、そうよね……』

あたしが来るのを……。

――学校へ行きたくない。
この日、初めて。
あたしは学校を休んだ。

カーテンを閉め切った部屋の中。
ただ、目をつぶり、眠りに身を任せた。
夢は見なかった。
それはかえって良かったのかも知れない。
最近、見る夢は。
幸せで。
暖かで。
でも、それは余りに悲しすぎるから。

重い瞼を開けると、部屋は既に闇に包まれていた。
枕元の時計の文字盤が、蛍光塗料の光で微かに今の時刻を教えてくれた。
頭が重い。
――でも……。
何とか身体を起こしベッドから出る。
――行かないと……。
寝汗で肌に張り付いたパジャマを脱ぎ、ハンガーに掛けたままになっていた制服を纏う。
――彼に、伝えないと……。
乱れた髪をブラシで梳き、簡単に整える。
――真実を……。
階段を下りて。
――あたしは逃げることしかできなかった……。
玄関で靴を履く。
――あの子の……。
扉を開けた向こうは。
――残された時間を……。
いつの間にか雪が舞い降り始めていた。

学校へ向かう途中、彼の、――名雪の家に電話を掛けた。
二言三言、簡単な会話をした後に、あたしは本題を切り出す。

『ちょっと話があるんだけど……今から出てこれない?』

『何時に、どこに行けばいいんだ?』

『……今すぐ、学校で』

『分かった』

『じゃあ、待ってるから』

そう言ってあたしは受話器を下ろす。
いつの間にか雪は止み、真冬の風が肌を切るような冷たさで吹いている。
頼りない街灯の明かりに照らされた雪道を。
あたしは学校へ向かって歩きだした。

街灯の下で佇むあたしの所へ、彼は思ったよりも早くやって来た。

『ちゃんと来てやったぞ』

白い息を吐き、肩を上下に揺らしながら来る彼に。

『……遅いわ』

栞が好きになった彼に。

『それで、話ってなんだ?』

栞に束の間の幸せを与えてくれた彼に。

『……』

栞のささやかな願いを叶えてくれた彼に。

『栞のことか?』

あたしとは逆の選択をした。

『……妹のこと』

強さを持った。

『……』

優しさを持った。

『あたしの、たったひとりの妹のこと』

栞の選んだひとに。

『……続けてくれ』

あたしは……。

『あと一週間で、あの子の誕生日』

真実を伝えた。

『次の誕生日まで生きられないだろうと言われた、あの子の誕生日』

遅すぎた決断。

『……どういうことだ』

強ばった表情を貼り付かせ、かすれた声で訊く彼への。
今まで拒絶し、傷付け、認めてあげられなかった、たったひとりの妹への。
遅すぎた贖罪が始まった。

『……そのことを、栞は知ってるのか?』

『どうして、そんな話を俺にするんだ……?』

『どうして、栞に本当のことを教えたんだ?』

彼の質問に機械のように答える。
嘘は付けない。
これは贖罪なのだから。
たとえ。
彼が怒り、なじり、あたしのことを憎んだとしても。
受け入れよう。
これは、自分を偽り、妹を傷付け、幸せを奪った。
あたしへの罰なのだから……。

そして……。

『どうして、栞のことを拒絶したんだ?』

……っ!
あたしは……。
あたし……は……。

心が、乱れる。
気持ちが、溢れる。
視界が。
目の前の雪が。
彼の姿が。
彼の瞳が。
霞む。

目から溢れる涙と共に、抑えていた言葉が流れ出た。
辛い現実から目を背けていたこと。
自分の弱さが栞を傷付けていたこと。
それでもそれを認めることができなかったこと。
栞を失う悲しさに、恐さに、耐え切れなかったこと
何もかも。
全てを。
嗚咽混じりに。
言葉を詰まらせながら。

――そして……。

『あの子、なんのために生まれてきたの……』

最後に訊いたあたしの問いに。

栞が愛したひとは答を持たなかった。

一月二五日。
最後の一週間が始まった。
あの子の誕生日まであと一週間。
あと、一週間……。

『あ、おはようございますっ』

――え?
元気良く挨拶したのは。

『栞……?』

あたしとお揃いの、色違いのリボンの制服を身に付けた栞だった。

『はいっ』

嬉しそうに、真新しい制服に身を包み。

『今日から学校へ行こうかと思って』

栞がそう言った。

『……そう』

『……』

あたしの視線に一瞬悲しそうな表情を浮かべた栞が、何も言わずに玄関に向かう。
その背中に言葉をかけることもできず、あたしも玄関に向かう。
食欲は、ない。
何も食べたくなかった。
降り積もった雪に真新しい足跡だけを残し、栞の姿はもう、見えなくなっていた。

一月二六日
昼休み。
あの子があたしの教室に来た。
名雪と一緒にお弁当を食べようとしていた時に、ふと聞こえたあの子の声。
相沢君を探して教室を訪れたあの子。
クラスの男の子たちの冷やかしの中で、泣きそうな表情で。
腕にお弁当を抱え。
彼の姿を見付けると、嬉しそうに微笑んで。
彼と一緒に姿を消した。

『栞……』

『え? どうかしたの、香里?』

『あ、ううん。何でもない。ホラ、お弁当早く食べましょ』

『そうだね』

結局、あたしと栞は目を合わせなかった。

一月二七日
栞の帰りは毎日遅い。
きっと相沢君と一緒なんだろう。
でも、分かっているの?
残された時間は、もう、ないの。
楽しければ楽しかっただけ、幸せな想いをすればしただけ。
哀しみがどれだけ深くなるか分かっているの?
全ては想い出に還る。
それでも、あなたたちは幸せなの?
栞……。

一月二八日
今日も相沢君は、授業が終わると急いで教室を後にする。
その姿が、あたしとダブって見えて。
それ以上彼の姿を追うことができない。

一月二九日
空を見上げている彼に、後ろから話し掛けた。
最近、相沢君は空を見ている時間が多くなった。
授業中も。
休み時間も。
それが何を意味するのか。
あたしには良く分かっていた。

『なぁ、香里……』

『……まだ栞のことを避けてるのか?』

『あいつは、今を精一杯生きてるんだ』

『残された時間があとどれだけか、なんて関係ない』

『最後まで、栞のことを妹とは認めてやらないのか……?』

分かっているわよ。
あの子がどれだけ辛い思いをしているかなんて、あなたに言われなくても。
でも……。
今さら。
どんな顔をしてあの子に謝ればいいの?
認めてあげたいわよ。
けれど……。

『あたしは……栞なんて子、知らないわ……』

低く、絞り出した声は、あたしの本心とは逆に。
冷たい言葉を返していた。

『……分かった』

長い沈黙の後、言った彼の言葉が。
耳に入る前にあたしは背を向け、自分の席に着いた。
始業を告げるチャイムの音が、空しく響いていた。
時間が止まればいいのに……。
そう願わずにはいられなかった。

『ねぇ、香里?』

『何よ?』

『イチゴサンデー』

『また?』

『うんっ』

『あたし、そんな気分じゃないのよ』

『香里……』

『何?』

『わたしで良ければ相談に乗るよ』

『名雪……』

『ひとりで何もかも抱え込んじゃうの、香里の悪い癖だよ』

『……』

『香里はひとりじゃないんだよ。わたしだって、祐一だっているんだよ。ひとりで悩むなんて止めようよ。わたし、そんな香里、見たくないよ』

『ありがと。でも、大丈夫よ。ホラ、それじゃ行きましょうか』

『香里……』

『行かないの?』

『わ、行くよー』

御免なさい、名雪……。
もう少し。
もう少しで答が出せそうなの……。
もう少しで……。

まさか。
百花屋で。
ふたりに逢うなんて……。
慌てて出ようとするあたしと、泣きそうな顔でごねる名雪。
結局、名雪に負けて入ることにしたけれど……。

『おーいっ、名雪』

やっぱり……。
あたしのイヤな予感が的中した。
栞があたしを見る。
複雑な表情を浮かべて。
あたしと名雪がふたりの向かいに座る様子を、静かに見つめていた。

『イチゴサンデー』

嬉々とした口調で名雪が注文する。

『オレンジジュース』

程なくあたしたち四人の頼んだ品がテーブルの上に並んだ。
すっかり打ち解けた名雪と妹の姿をぼんやりと見ながら、頼んだジュースを口に含む。
味は分からなかった。

栞はあたしを見ない。
あたしも栞を見ない。
初対面だから。
初対面のように振る舞っているから。
嬉しそうな栞と相沢君。
栞の笑顔は今まで見たどの笑顔よりも輝いていた。

――お姉ちゃん?

――どうしたの、栞?

――私、とっても幸せです。

――そう……。

――はいっ。

――彼のおかげかしら?

――えっ? そ、そ、そんなことないですーっ。

――ふふふ、照れなくてもいいじゃない。幸せなんでしょ?

――そ、そうですね。幸せですっ。

――良かったわね。

――あ……。

――どうかした?

――やっと、笑ってくれましたー。

――え?

――お姉ちゃんが笑ってくれて、私も嬉しいですー。

いつか見た夢が蘇る。
幸せそうなあたしたち。
あたしも。
あなたみたいにまた笑えるのかしら……?

ねぇ、栞……?

グラスに注がれたジュースの水面を見つめながらストローで何気なく掻き混ぜる。
グラスと氷のぶつかる澄んだ音だけが、あたしの耳に届いていた。

相沢君の隣りで、幸せそうに微笑む栞がいる。
穏やかな微笑みで佇む栞が。

『大丈夫、栞ちゃん?』

名雪が苦しそうにしている栞に声を掛ける。

『ちょっと苦しいです…』

普段からあまり食べないものね、あなたは。

『食い過ぎだ』

そういうことよ、嬉しいからってはしゃいじゃって……。

『でも、楽しかったです』

そう……。

『みんなで一緒に食事できて、本当に嬉しかったです』

――そうよね……。

『そうだ、今度一緒にお昼食べようよ』

それがあなたの望みだったものね。

『私でもいいんですか?』

あたしには言えない言葉だから。

『もちろんだよ。だって、祐一の大切な人だもん』

名雪もそういう所は妙に鋭いのね。

『……え』

真っ赤になって俯く栞と。

『何なんだ、その大切な人っていうのは……』

言葉を失う相沢君と。

『え? だって、祐一の彼女でしょ?』

相変わらずマイペースの名雪が可笑しくて。

『え、えっと……』

栞……。

『可愛い子だよね。祐一にはもったいないよ』

あたしの大切な妹……。

『ほんと』

たったひとりの大切な妹……。

『見る目がないわね』

待たせて御免ね……。

『余計なお世話だ』

あたし、やっと……。

『余計なお世話じゃないわよ……』

やっと……。

『だって、栞は……』

『あたしの妹なんだから……』

あなたの姉に戻れそうよ……。

『え……』

思わずあたしを見ようとする栞に構わず。
あたしは名雪を促して、その場を去る。

『それじゃあね、ふたりとも』

言ったあたしの背から聞こえた栞の声。

『……ばいばい、お姉ちゃん』

それは、あたしの気のせいだったのだろうか……?

隣を歩く不思議そうな顔の名雪。

『知らなかったよ』

『何?』

『香里に妹がいただなんて全然知らなかったよ』

『そう、ね』

『香里?』

『あたしも永い間忘れていたみたいだから……』

『え?』

『ありがと、名雪』

『え? え?』

『何でもないわ。今からはあたしに付き合って貰うからね』

『う、うん……』

釈然としない表情を浮かべながらもあたしの隣を歩く名雪。

家に帰ったら。
久しぶりに。
本当に久しぶりに、あの子と話そう。
あたしのこと、栞のこと、相沢君のこと、名雪のこと。
色々と。本当に色々と。
姉妹らしい会話をしよう……。
夢の中のあたしたちのように……。

――栞……?

――なぁに? お姉ちゃん。

――あたしのこと、恨んでるでしょうね……。

――おかしなこと、訊くんですね。

――どれだけ謝っても償い切れないほどの罪を、あたしは犯したから……。

――そんなことないですよ……。

――でも……っ。

――だって。

――栞……。

――お姉ちゃんのこと、ずっと大好きですから……。

――……。

――こうして、またお姉ちゃんとお話しできて、嬉しかったです。

――本当に、ありがとうございました。お姉ちゃん……。

一月三十日
いい天気ね……。
本当に。
カーテン越しに柔らかに差し込む陽射し。
目覚めは、悪くなかった。

『おはようございます、お姉ちゃん』

『おはよう……』

着替えを済ませテーブルに着く。

『今日も、お弁当作ってるの?』

『はいっ』

元気に頷く。

『相沢君も気の毒にね……』

『わっ、どういう意味ですか?』

『そのままの意味だけど?』

『うー……。そんなこと言うひと、嫌いですっ』

ころころと表情を変える栞。
残された時間の短さなど微塵も感じさせない様子で嬉しそうに話す栞。

『デートもいいけど、あんまり遅くならないようにしなさいね』

『はいっ、お姉ちゃん』

テーブルに並べられた食事を手短に済ます。
ブラックの苦みが今日はやけに心地好かった。

学校は楽しいわけでもつまらないわけでもなかった。
名雪も、相沢君も。
いつもと変わらぬ様子でそこにいてくれた。

――ただ……。
彼の、平静を装う表情の奥に潜む隠し切れない焦燥だけが。
『その日』の訪れを、嫌が応にも思い起こさせた。

あの子の誕生日まで後、一日……。

時間があの子を連れ去るまで。
後、一日。

夕闇が舞い降りる。
また今日が終わろうとしている。

『ただいまー』

『お帰り……』

『あ……』

あたしの顔を見るなり、視線を逸らす栞。

『どうかした?』

その仕草に言い知れぬ不安を覚える。

『栞っ?』

口調がきつくなる。
あたしの問い質す言葉に、栞が身を竦ませる。

『あ、あのー』

上目遣いにあたしを見上げ、落ち着かない様子で手前で組んだ指をせわしなく動かす。
『え、えーと』

『相沢君に何かされたの?』

『そ、その……』

真っ赤な顔で俯く栞。
恥ずかしさと、嬉しさの入り交じった表情。
そして、何より幸せそうだったから……。

『――外、寒かったでしょう? お風呂入って早く休みなさい』

それ以上、あたしには何も訊くことはできなかった。

『うん』

『……お休み、栞』

『お休みなさい、お姉ちゃん』

栞の幸せそうな表情が。
余りに幸せすぎて、それがどうしようもなく儚く見えて。
言葉をそれ以上紡ぐこともできず。
あたしはそのまま自分の部屋へ駆け上がっていった。

暗がりの中、明りを点けずにベッドにうつ伏せに倒れ込む。
涙が溢れて来た。
栞の笑顔が痛い。
幸せそうな表情が痛い。

今頃になって後悔するなんて。
遅すぎる。
遅すぎたのよ。
今になって後悔するなんて。

交わるのが遅すぎたふたりの心。
今になってやっと昔のふたりに戻れたのに。
あの子の心をほんの少しだけれど救ってあげることができたのに。

全てはあたしの弱さが招いたこと。
今になって後悔するなんて。

遅すぎたのよ……。

栞……。
御免なさい……。

後悔と自責の海に溺れ。
あたしの意識は深い闇の中へ落ちて行った。

御免ね、栞……。

――お姉ちゃん?

――どうしたの、栞?

――明日、私の誕生日ですー。

――そうね。でも、まだ年を取るのが嫌だって年齢でもないでしょう?

――うーっ、そういうことじゃないですっ。

――冗談よ。

――そんなこと言うひと、嫌いですー。

――ふぅ、どうせ誕生日のプレゼントが待ち切れなくなった、ってところでしょう?

――えへへ、ばれちゃいました。

――全く、しょうがない子ね……。本当は明日あげるつもりだったけど。特別だからね?

――わー、嬉しいですー。

――開けてみる?

――もちろんです。

――……。

――わー、可愛いストール。

――気に入った?

――はいっ! ありがとう、お姉ちゃん。大好きですー。

――良く似合ってるわよ。

――えへへ……。

――お姉ちゃん、ありがとう……。

夢を見た。
懐かしい夢。
幸せだった頃の夢。
あの子が笑顔でいられた頃の夢。
あたしが笑顔でいられた頃の夢。

たった一年前の出来事なのに。
夢に見るなんて。

そんな夢を『懐かしい』なんて思うなんて。
悲しすぎるじゃない。

まだ、想い出にしたいわけじゃないんだから。
まだ、あの子はあの子なんだから。
まだ、あたしはあたしなんだから。

まだ、時間は残されているんだから。
まだ……。

だから。

お願い。

もっと。

あの子に時間を与えて……。

誰でもいいから。

『奇跡』を。

あの子に『奇跡』を。

ひと並みの幸せをようやく得られたあの子に。
ひとを好きになることがようやくできたあの子に。

『奇跡』を……。

起こして……。

一月三一日
今年の最初の月の最後の日。
あの子に残された最後の日。

また。
夢を見て泣いていた。

言いようのない焦燥と喪失感の中で。

今日という時間が。

全てを想い出へと還すために。

――静かに流れ始めた――

『おはよう、栞』

あたしは、笑えているのだろうか?
自分では分からない。
栞には余計な気を遣わせたくない。
いつもと同じように。
これまでと同じように。
そして。
これからも変わらずに。
この風景が続くと思いたいから。

ささやかでも『運命』に逆らいたいから。
ささやかでも『奇跡』を信じたいから。

『起きないから奇跡って言うのよ』

そうかも知れない。

けれど、今のあたしにはこの言葉にすがるしか術がない。

この風景が。
いつまでも続くと信じたいから。

『おはよう、お姉ちゃん』

だから……。

『今日もいい天気ね』

あたしはあたしでいようと思う。
戻らない過去は振り返らず。
ほんの僅かでも、その可能性を信じて。

栞の笑顔を信じて……。

『今日はこれから祐一さんとデートですー』

『大丈夫?』

『はいっ』

『あんまり無理しちゃダメよ』

『大丈夫ですよ、今日はとっても調子がいいですから』

『そう。気を付けてね……』

『はい。それじゃ、行って来ます』

『行ってらっしゃい』

言えなかった言葉。

――今日、プレゼント買って待ってるからね。
――必ず、帰ってくるのよ。

あたしは。
最後の最後まで自分の気持ちを伝え切れなかった……。

家でただ待つことはどうしてもできなかった。
不安に押しつぶされそうで。

『あ、名雪?』

『香里? どうかしたの?』

『今日、空いてるかな?』

『えっと、うん、大丈夫だよ』

『ちょっと付き合って欲しいんだけど……』

『うん、分かったよ』

『じゃあ、商店街の……』

『イチゴサンデー』

『……百花屋ね』

『うんっ』

『それじゃ、一時間後に』

『うん、分かったよ。それじゃね、香里』

『それじゃ』

『前は楽しかったね』

『そうね……』

『イチゴサンデー美味しいよ。香里も何か頼めばよかったのに』

『そうね……』

『……香里?』

『何?』

『まだ、悩んでるの?』

『……』

『――もしかして、祐一と栞ちゃんのこと?』

『……』

『香里……』

『……』

『……香里』

『名雪』

『何?』

『明日、栞の誕生日なの』

『わ、そうだったんだ。じゃあ、わたしも何かプレゼント用意しないとだね』

『……』

『今日呼び出したのってそのことだったんだね』

『……うん』

『それじゃ、こうしちゃいられないよ』

『え?』

『ほら、香里。そういうことなら早くしないとダメだよ』

『……』

『わたしも一緒に考えるから、色々見て回ろうよ』

『そうね……』

『ほらほら、行こうよ』

『……名雪』

『?』

『ありがとう……』

『お礼を言われるほどのことじゃないよ。わたしにとっては香里も、栞ちゃんも、祐一も、みんな大切だからね』

『……うん』

『それで、栞ちゃんって何が欲しいのかな?』

『そうね……、去年はストールをあげたわ』

『二年連続で、服って言うのもね……』

『そうね……』

『栞ちゃんの趣味とかって何かな?』

『全然上手じゃないけど、絵を描くのが好きだったわ』

『そうなんだ。どんな絵描くのかな? 今度見せてよ』

『――止めといたほうがいいわよ』

『え? どうして?』

『どうしてもよ』

『えー。見たいよ』

『――春が来て、あの子がいいって言ったら見せてあげるわ』

『うん、約束だよ』

『……分かったわ』

『じゃあ、プレゼントは決まりだね』

『?』

『ホラ、あそこで探そうよ、栞ちゃんへのプレゼント』

『名雪、今日はありがとう』

『ううん、これくらいお安い御用だよ』

『ありがとう』

『やだなー、改まっちゃって』

『そうね』

『栞ちゃん、喜んでくれるといいね』

『……うん』

『それじゃ、わたしも遅くなるかも知れないけど、何かプレゼント考えておくから』

『ありがとう』

『栞ちゃんによろしくね、誕生日おめでとう、って』

『……伝えておくわ』

『それじゃ、ばいばい』

『じゃあね、名雪』

夕暮れの空を鈍色の雲が覆っていた。
暗い黄昏。
そして。
雪。
静かに。
静かに。
白く。
緩やかに。
黒い闇を、塗り潰すように。
想い出を、塗り潰すように。
粉雪が舞い降り始めていた。

夕食の席に、栞の姿はなかった。
並べられた食器と、冷め始めた料理。
栞のために、と用意されたケーキ。

それは、主役のいない無言の舞台。
それぞれの役を演じることから逃げ。
観客を演じ続けたあたしたちには。
似合いの舞台かも知れない。

時間だけが過ぎ去る。

時を刻む針の音。
残された時間の秒読みが始まる。

闇に閉ざされた部屋でひとり。
あの子の帰りを待つ。
あの子へのプレゼントと共に。
ささやかな罪ほろぼしと共に。

栞……。
早く帰って来て。
あたし、もう待つのは嫌。

来るかどうか分からない明日を。
来るかどうか分からない幸せな日常を。
待つのは嫌。

戻るかどうか分からないあなたの笑顔。
戻るかどうか分からないあたしの笑顔。

戻れるかどうか分からない昔のあたしたち。
戻れるかどうか分からない昔の暖かな家庭。

不安なのよ。
あなたがいないと。

恐いのよ。
あなたがいなくなることが。

赦してほしいのよ。
今までのあたしを。

だから。
早く帰って来て……。

止まらない時計の針。
針の音があたしの心に傷を刻み込みながら進む。

あの子はどこにいるのだろう。
きっと相沢君と一緒。
だから少しだけ安心できる。
あの子の選んだひとだから。
あの子の心を救ってくれたひとだから。

逃げ出したあたしにできなかったことだけれど。
あの子の心からの笑顔が見れたことを少しは感謝しないとね。
――相沢君。

止まらない時計の針。

あと、数分で日が変わる……。
新しい時間。
新しい月。

あの子にとっての新しい一年。

そして……。

言葉をかけるあの子はいないけれど。
この言葉が届くことを願って。
あたしは。

透き通るほど。
悲しいほど。
真っ白な。
寂しい。
儚い。
雪。

闇の中、螺旋を描き舞い続けるそんな雪に。

『……栞』

『誕生日、おめでとう……』

すべての針が零を指し。
新たな一日が。
雪に閉ざされた闇の中で。
静かに。
静かに。
始まりを告げた。

祝福の言葉を捧げる相手もなく。
あたしの呟きは、深い闇に溶け。
あの子に渡すはずだったプレゼントに。
小さな雫が生み出した幾つもの染み。
零れ落ち、流れゆく涙と時間、そして希望。
沈黙が支配するこの部屋で。
無情に時を刻み続ける音が。
心の底に暗く重い影を落とした。

白い世界。

雪のように。

光のように。

霧のように。

全てを埋めつくすのは白。

綺麗な。

でも。

寂しい色。

視界を。

全身を。

包み込む白い世界の中に。

あたしはいた。

――お姉ちゃん。

え?

――怒ってるかな?

……栞?

――でも、少しだけ怒ってほしいです。

何、言ってるの……?

――私たち、姉妹なんですから。

ちょっと……っ。

――無視されるなんて悲しすぎます。

栞っ!

――私たち、姉妹なんですから。

待ってよ……。

――お姉ちゃん……。

栞っ!

――ありがとうございました。

伝えなきゃいけないのに。

――それから。

謝らなきゃいけないのに。

――さようなら。

待ってよっ!

――……。

――……。

栞っ!

――……。

答えてよ……。

――……。

返事をしてよ……っ。

――……。

ねぇっ。

――……。

栞……?

――……。

答えてよ……っ。

――……。

お願い、だから……。

――……。

ねぇっ!

栞っ!

不安。
そして。
予感。
嫌な。
確信にも似た予感。

朦朧とした意識を払い。
視界を揺らす涙を拭い。

部屋を飛び出した。

無意識に手に持ったあの子への贈り物。
それが。
あたしに残された最後の希望だった。

栞っ。

ねぇっ!

答えてっ!

何も言わないなんて……。

何も言わせないなんて……。

そんなのないわよっ!

それが夢なら。
どんなに良かったろう。

でも。

あたしの目の前にあったそれは。

紛れもない。

現実。

白い世界の中。
儚く微笑み。
穏やかに。
静かに。
眠る。
栞。

夢のような。
余りに綺麗な。
そして。
余りに悲しい。
風景。

でも。

抱き起こした栞の重み。
冷え切った。
けれど微かに残された。
温もり。
鼓動。
それは……。

『栞っ!』

『ねぇっ!』

『答えてっ!』

『何も言わないなんて……』

『何も言わせないなんて……』

『そんなのないわよっ!』

紛れもない現実だった。

雪が。
舞い続けていた。
頬を濡らす涙も。
栞への贈り物も。
全て埋めつくされ。
塗り潰され。

あたしは。

栞の命を。
繋ぎ止めるために。
栞の名を。
叫び続け。

栞の温もりを。
繋ぎ止めるために。
その小さな。
細い身体を。
抱きしめて。

ただ。
泣き続けることしか出来なかった。

白く染まり行く。
景色の中で。

白く染まり行く。
現実の中で。

夢。

夢を見ていた。

それは忘れていたと思っていた光景。

それは忘れようと思っていた光景。

それは忘れられない光景。

それは……。

ある姉妹の悲しい記憶。

――おねえちゃん。

――どうしたの、しおり?

――いっしょにあそぼう。

――うん、いいよ。なにしようか?

――えっとね……。

懐かしい声。
懐かしい色。
懐かしい景色。
懐かしい記憶。

それは忘れていたと思っていた光景。
小さかった頃の幸せなある姉妹の姿。

あたしの心に直接響く声。
あたしの心は暖かな光に満たされた。

――お姉ちゃん。

――どうしたの、栞?

――明日から中学校だね。

――そうね。栞、ひとりで学校行けるの?

――大丈夫だよ。もう、子共じゃないもん。

――そうね。

――でも、お姉ちゃんと一緒に学校行けなくなるのはちょっと寂しいよ……。

――そうね。

――でも、また一年経てば一緒に行けるよね。

――そうに決まってるじゃない。

――うん……。

幸せな声。
幸せな色。
幸せな景色。
幸せな記憶。

それは忘れようと思っていた光景。
記憶の隅に大事にしまわれていたある姉妹の姿。

あたしの心に直接響く声。
あたしの心に小さな波紋が生まれた。

――お姉ちゃん。

――どうしたの、栞?

――明日、入学式だね……。

――心配……?

――うん……。

――大丈夫よ。

――うん……。

――ホラ、元気出しなさい。一緒に学校行こうって約束したでしょう?

――うん、そうですね。約束しましたっ。

――そうよ。だから、ね?

――はいっ。

偽りの声。
偽りの色。
偽りの景色。
偽りの記憶。

それは忘れられない光景。
記憶の隅に追いやろうとして出来なかったある姉妹の姿。

あたしの心に直接響く声。
あたしの心に暗い影が生まれた。

――お姉ちゃん……。

――どうしたの、栞?

――教えて欲しいんです……。

――何……?

――私の、身体のこと……。

――どういうこと……?

――知ってるんじゃないですか? 私に残された時間が後どれ位か……。

――栞……。

――お願いします。

――栞……。

――お姉ちゃん……っ!

絶望の声。
絶望の色。
絶望の景色。
絶望の記憶。

それは全てを失った瞬間。
残された時間を他人として歩むことを決めたある姉妹の姿。

あたしの心に直接響く声。
あたしの心に深い傷痕が生まれた。

全ては。
懐かしい記憶。
今のあたしに繋がる光景。
今のあの子に繋がる光景。

そして……。

――お姉ちゃん。

――どうしたの、栞?

――今日、嬉しかったです。

――ううん、あたしの方こそ……。

――祐一さんも、少しだけ嬉しそうに笑っていました。

――名雪は、少しだけびっくりしてたわよ。

――ふふふ、変ですね、私たち。

――ホント、変よね……。

――お姉ちゃん……。

――何?

――ありがとうございます。

――何言ってるの……。あなたは……、あたしの妹なんだから……。

――お姉ちゃん……。

――ね……?

――はいっ!

希望の声。
希望の色。
希望の景色。
希望の記憶。

それは全てを取り戻した瞬間。
すれ違っていた心が少しだけ交わったある姉妹の姿。

あたしの心に直接響く声。

あたしの心の傷痕が少しだけ癒された。

あの子の心の傷痕も少しだけ癒された。

そう、思いたい。

――ねぇ、栞?

あたし、悪い姉だったね。

あなたを忘れようとして。
裏切って。
傷付けて。
悲しませて。
支えてあげられなくて。

本当。
悪い姉だったわ。

――ねぇ、栞?

聞こえてる?

――ううん。

聞こえなくてもいいの。

遅すぎたけど。

今さらこんなこと言ってもしょうがないけれど。

――御免ね。

最後の最後まで、姉らしいことしてあげられなくて……。

夢が終わる。

永かった夢。
それでいて。
一瞬に近しい夢。

想い出の中のあたしたち。
色とりどりの風景。
色とりどりの記憶。

舞い散る粉雪と。
輝きを放つ……。

――光――

瞼を通して伝わる暖かな光に。
あたしはゆっくりと目を開いた。

眩しさで視界が真っ白に染まる。
雪のような。
でも、暖かい色。

白い天井。
眩しさにようやく目が慣れたあたしが。
最初に見た光景。
あたしの部屋ではない何処か。

ゆっくりと身体を起こす。
力が入らない。
身体が妙に怠い。
ゆっくりと。
あたしは。
自身の存在をゆっくりと確認しながら。
身体を起こした。

「ここは……?」

やけに違和感のある自分の声。
今までぼやけていたような記憶。

「目が覚めた……?」

「……母さん?」

疲れた表情で。
少しだけ安堵を含んだ言葉で。
訊いた母に、言葉が続かない。

泣き腫らした瞼。
赤く滲んだ瞳。

「母さん……」

ただ母の名を呼ぶ。
言葉を詰まらせ。
ともすれば溢れそうになる涙をこらえ。

「しお……り……」

ようやく絞り出した妹の名。

蘇る記憶。

白い世界。
儚い微笑。

「栞……は……?」

「香里……」

分からない。

夢なのか。

現実なのか。

あの時。
確かに。
あたしは。
確かに感じた。

雪の冷たさを。
栞の温もりを。

でも。

全部が夢なら。
悪い夢だったなら……。

「ねぇ、母さん……?」

すがるような思いで言葉を紡ぐ。
心の何処かで。
起きるはずのない『奇跡』を望み。

「母さん……」

かすれた声。

長い。
沈黙。
静寂。

「――起きれる……?」

そう、訊いた母の言葉に。

あたしはただ頷くしかなかった。

病室を出る。

清潔な匂い。
薬品と。
そして……。

思わず浮かんだ絶望的な言葉を飲み込み母に続く。

リノリウムの床。
響く足音。
せわしなく行き交う。
看護婦と。
白衣の医師。
生気を感じさせない人々が。
入り交じった波。

清潔な色。
無機的なまでに。
ただただ白い壁。
生きるためのはずのこの場が。
あたしには……。
ただ終わりの時を待つだけの。
それだけの空間にしか思えなかった。

母が立ち止まる。
あたしが出て来た病室と違わぬ扉。
部屋の番号が書かれたプレートの下に。
見慣れた妹の名。

――コンコン

母が小さく二回扉をノックする。
一呼吸置いてから。

『どうぞ』

父の声。

母と同じく。

疲れ。
憔悴。

扉越しに聞こえた声は。
それでも。
あたしの心に絶望を刻むのに。
十分過ぎるほど響いた。

ドアノブに手を掛け回す。

カチャリ、と小さな小さな音が耳に届く。

視界が光で染まった。
思わず目を細め、視線を逸らす。

「香里……」

父の声。

「香里……」

母の声。

眩しさに慣れ。
瞳に映るのは。

窓の外は。
雪を積もらせた裸の木々。
白に染め上げられた遠くの街並。

少しやつれたような父の姿。
白い部屋。
白いベッド。

そして……。

「栞……」

静かに。
本当に。
静かに。

眠っている妹の姿。

そう。
眠っている……。

「栞……?」

妹の名を呼ぶ。

起きて……。
ねぇ、もうこんな時間なのよ?
いつまでも寝てちゃ駄目でしょう?
起きて……。
起きてよ……。

「栞……っ」

ほら。
一緒に学校へ行くって約束したでしょう?
一緒にお弁当食べるって約束したでしょう?
ねえ?
相沢君、待っているのよ?
名雪にだってあなたの絵を見せるって言ったのよ?
あたしもずっと待ってたのよ?
父さんだって、母さんだって。

「栞ぃ……」

起きて。
お願い。
また笑って。
ねえ。
『お姉ちゃん』
そう、呼んでよ。

「目を覚ましてよ……」

あんなに学校楽しそうにしてたじゃない?
なのにどうして起きないの?
ねえ?
起きてよ。
目を覚ましてよ。
栞。

「栞……。ほら、起きてよ。聞こえてるでしょう?」

「香里……」
「香里っ!」

栞の顔を覗き込む。
白い。
透き通った白い肌。
まるで雪のような。
そんな儚い白さ。

微かに聞こえる息遣い。
ゆるやかに上下する胸。

ほら、やっぱり……。

「寝てるだけなんでしょう?」

「ねえ、起きなさいよ」

「一緒に学校行くって言ったじゃない……」

「一緒にお弁当食べるって言ったじゃない……」

「栞……」

「ねえ、栞……」

「栞……?」

「ほら……、起きなさいよ、栞……」

堪りかねたような押し殺した低い声があたしの言葉を遮る。

「香里……、止しなさい……」

死人のような顔。
どちらが生きてるかなんて分からないじゃない……。

「どうして?」

「栞、眠ってるだけなんでしょう?」

「聞こえる? ほら、いつまでも寝てないで起きなさいよ」

「栞……。栞っ!」

栞の体を揺さぶる。
弱く、強く。
小さかった頃。
寝坊したあの子を起こした時のように。

「――ね? 起きてよ、栞」

無心に栞の名を呼ぶ。

「香里っ!」

両肩を押さえられる。
大きな手。
父の。

強さと。
暖かさ。
そして。
優しさ。

小さな頃そう感じたはずの父の両の手が。
今は余りに弱々しくて……。

「どうしてよっ!?」

「眠ってるだけなんでしょ?」

「ねぇっ!?」

父の手を振り払い。
向き直り。
父を見上げ。

「どうしてっ!」

激昂。

「ねぇっ!」

「どうして何も言わないのよっ!?」

「栞は家族でしょうっ!」

「あたしの妹なのよっ!」

「父さんっ! 母さんもっ!」

父が言葉を失う。
母が口元を押さえ目を伏せる。

「あたし……っ」

「何もできなかったのよ?」

「栞に何もしてあげられなかったのよっ?」

「やっと……」

「やっと、栞のこと前みたいに見れるようになったっていうのに……」

「どうしてよっ!?」

「ねぇっ! 栞!」

「起きてよ……っ!」

「起きなさいよっ!」

「栞……。栞っ! ねぇっ!!」

「香里っ!」

――っ!

高い音。

呆然と。
左の頬に手を当てる。

「……父さん……?」

「……」

「どう……して……?」

ぽつりと漏れた言葉。
何が、『どうして』なのか?
分からない。
ただ、何もかも。
この現実が。
信じられなくて。
信じたくなくて。

この現実を
否定したくて。
否定して欲しくて。

「どうしてよぉ……?」

涙で言葉が詰まる。

視界が揺れ、光が全てを包む。

「ねぇ……」

「どうして何も言わないのよ……?」

「香里……」

何も見たくない。

目を開けていたら。
涙が溢れそうで。

涙で何も見えないのなら。
目を開けていても無意味だから。

あたしは目を閉じ。

「今、お前に話しても……」

「どうして……?」

叱られた駄々っ子のように『どうして』を繰り返す。

「いいからっ!」

怒気をはらんだ声。

「お前も、疲れてるんだ……。覚えてないだろうが……」

「少し……、休みなさい。今日いっぱいは、お前も大事を取って入院するように言われてるんだからな」

感情を噛み殺したような。
生気を感じさせない口調。

「香里……、ね?」

子供をあやすような口調で母があたしを抱きしめる。

「どうして……? どうしてよぉ……?」

「あなたが落ち着いたら、必ず話すから……。今はゆっくり休んで……」

「……母さん」

「私たちだって……。分かるでしょう……?」

血を吐く思いが滲む声。

「ほら……」

肩を抱かれ、扉へとゆっくりと導かれる。

「私は香里を部屋に連れて行きますから……」

「ああ」

たどたどしい足取りで、あたしも部屋を出る。

「――ここまででいいわ……。ひとりで行けるから……」

「香里……」

「お願い……。ひとりにして……」

母の言葉を待たずにあたしは歩き出す。

「……」

後ろで何か言われたような気がしたけれど。
何も聞きたくない。
何も見たくない。

ふらふらと、あたしは自分の病室を目指す。

人の流れに流され。

溢れる涙を床に落とし。
声を殺し泣きながら。

白い廊下を。
ゆっくりと。

叩かれた頬が鈍い痛みと熱を持ち始めていた。

夜闇の中。

見上げた天井の白さ。
淡い光を放つ雪の白さ。

栞の……。

思い出したくない。
考えたくない。
認めたくない。

恐れていた。

この日が来ることを。

栞が。
永い。
永い。
眠りに就く日が来ることを。

永遠に。
そして。
孤独に。
あたしたちの元から。
去る日が来ることを。

嫌。
そんなの嫌よ。

どうして……。
あの子が……。

この悲しみが。
この苦しみが。

あの子を拒絶したあたしへの罰だと。
そう思っていた。

でも。

今は……。

耐えられない。

あの子を認めたあたしだから。
あの子の姉に戻ったあたしだから。

こんな。
心の壊れそうな悲しみに。
心の壊れそうな苦しみに。

だから。

お願い。
助けて。
赦して。

誰か。
誰でもいいから。

『奇跡』を。

あの子に『奇跡』を。

もう、いいでしょう……?

あの子を苦しめるのは、もう、いいでしょう……?

お願い。

せめて。
最後に。

ささやかな。
あたしたちの願いを。

あたしには。
それを望む資格すらないかも知れないけれど。

お願い。
これがたった一つの願いだから。

あたしに。
あの子に。

あたしたちが望んでいた。
待ち続けていた。

『日常』という名の。
小さな『奇跡』を……。

たった一つの……。
『奇跡』を起こして……。

部屋を出た。
消灯の時刻を過ぎ。
微かに灯った薄暗い廊下。
昼間の喧騒が嘘のように。
静まり返った薄暗い廊下。

あたしは歩く。
栞の元へ。

何も出来ないけれど。
何もしてあげられないけれど。

今となっては。
遅過ぎた答だけれど。

せめて。

あたしは。

あなたの側にいてあげたい。

今となっては。
遅過ぎた気持ちだけれど。

やっぱり。

あたしは。

あなたのことが大好きだから。

今のあたしに出来ることは。

待つこと。

栞……。

あなたが。

もう一度あたしに笑い掛けてくれる時を。
その時を。

信じて……。

願って……。

待つことだけだから。

「栞……」

栞の病室。

変わらぬ穏やかな表情で眠り続ける妹に。
あたしは静かに語り掛ける。

「ねぇ……。あたし、いい姉でいられた?」

「多分、あなたにとっては悪い姉だったわね」

静謐に満たされた。
月の光に満たされた。
現実の中の非現実。
そんな言葉が相応しい光景。

けれど。

それは現実。

あたしが逃げ出した。
否定したかった。
恐れていた。
現実。

なのに。

どうして……?

「でも、少しだけの間だったけれど」

今は……。

「あたしは幸せだった」

恐くない……。

「あなたの姉でいられたこと」

どうして……?

「あなたと姉妹でいられたこと」

月の光のせい……?

「あなたともう一度話ができたこと」

それとも淡雪の光のせい……?

「あなたがもう一度『お姉ちゃん』って呼んでくれたこと」

緩み始めたこの季節のせい……?

「もう一度あなたの名前を呼べたこと」

それとも……。

「だから」

栞の頬に手を添える。
確かな温もり。
緩やかな息遣い。

「あたしは幸せだった」

栞。
眠りの中で。
どんな夢を見ているの……?

幸せな夢?
恐い夢?
楽しい夢?
悲しい夢?

「ほんの短い、夢のような一瞬だったけれど」

あたしも夢を見たの。

「幸せだった」

あなたの夢を。

「ありがとう……」

悲しくて、辛くて。
涙が出るような。

「それと」

でも。

「御免ね」

暖かで、幸せで。
涙が出るような。

「栞」

そんな夢を。

ねぇ、栞?

夢から。

その眠りから。

目が覚めたら……。

『お姉ちゃん』

また。

そう呼んでくれる?

それだけであたしは救われる。

それだけがあたしの願い。

悪い姉からの。

最初で。

最後の。

わがまま。

聞いてくれる?

栞……。

頬を濡らす涙の冷たさと。
繋いだ手から伝わる温もり。

闇に沈む意識の中で。
それだけがあたしの中に。
いつまでも残っていた。

そして。

白。

ただ。

広がるのは果てない空間。
果てない白い空間。

上も。
下も。
右も。
左も。

意味をなさない空間。

ただ。
あたしだけが存在する空間。

夢……?

不安。

安心。

喜び。

悲しみ。

幸福。

孤独。

様々な感情が混じり合った不思議な感覚。

そして。

安らぎ……?

『おねえちゃん』

『なぁに、しおり?』

『お姉ちゃん』

『どうしたの、栞?』

『えへへ、お姉ちゃん、ありがとう』

『良く似合ってるわよ』

『教えて欲しいんです、私の、身体のこと……』

『栞……』

『今日、嬉しかったです』

『何言ってるの……。あなたは……、あたしの妹なんだから……』

心の海から浮かび上がる懐かしい記憶。
心の海へと沈み行く悲しい記憶。

涙が舞った。
あたしの目から零れた小さな雫が。
小さな光を生んだ。

光がたゆたう。
弱い。
儚い。
輝きを生みながら。

光がたゆたう。
緩やかに。
穏やかに。
舞い上がり。
舞い降り。
輝きを生みながら。

そして。

光が広がる。

ゆっくりと。

でも。

確実に。

この世界の白が。

この虚無の世界が。

白とは違う。

輝きで満たされ始めていた。

『お姉ちゃん』

『栞』

『お姉ちゃん、幸せでしたか?』

『そうね……。栞は、幸せだった……?』

『おかしなこと、訊くんですね』

『そうかしら?』

『そうですよ。幸せだったに決まってるじゃないですか』

『そう……』

『これからだってずっと幸せですよ』

『栞……?』

『だって……。お姉ちゃんがいてくれますから』

『……』

『だから、お姉ちゃんも笑ってください。私、幸せですから』

『うん……。御免ね、本当に』

『謝らないでください』

『でも……』

『そんなこと言うと、嫌いになっちゃいますよ?』

『……』

『嫌いになっちゃいますよ?』

『――それは……、ちょっと……、困るわね……』

『だから、笑ってください』

『……そうね』

『えへへ……』

『ふふ……』

『お姉ちゃん、大好きです』

『ありがとう……、栞……』

光が。
舞っていた。
短い季節を儚く生きる蛍のように。
短い季節に儚く舞う粉雪のように。

冷たくて。
暖かくて。
寂しくて。
幸せな光。

あたしを包み込むように。
緩やかな円舞を続ける光に抱かれながら。

あたしの身体は。
あたしの意識は。
あたしの存在は。

水に溶けるように。
空に舞うように。

霧散した。

不思議と。
恐怖はなかった。
不安も。

栞に逢えるのなら。
このまま消えてしまっても構わない。
この光の向こうに栞がいるのなら。
この夢の向こうに栞がいるのなら。

――お姉ちゃん。

あたしの意識の最後の一片が。
光に溶けて消える直前。

栞の。
優しい声が聞こえたような気がした。

――大好きです。

――お姉ちゃん。

『夢を見ていた』

――泣かないで……。

――悲しまないで……。

――何がそんなに悲しいの?

――何がそんなに苦しいの?

『とても仲のいい姉妹の夢』

――辛いことがあったんだね。

――とても苦しかったんだね。

『姉は、誰よりも妹のことを可愛がっていた』

――でも、諦めないで。

――でも、希望を捨てないで。

――信じていて。

――願っていて。

『妹は、そんな姉が大好きだった』

――きっと。

――願いは叶うから。

『一緒の制服に身を包んで……』

――奇跡だって。

――起こせるよ。

『同じ学校に通って……』

――だから。

――諦めないで。

『暖かい中庭でお弁当を広げて……』

――キミの願い。

――きっと叶うから。

『そして、楽しそうに話をしながら、同じ家に帰る』

――夢じゃないから。

――きっと叶えるから。

『そんな些細な幸せが、ずっとずっと続くという……』

――だから。

――もう、泣かないで。

『……悲しい……夢だった』

――……くん……。

――きっと叶えるから。

――たったひとつの願いで……。

――ボクの、願いで……。

永い。

本当に永い。

夢が。

今。

終わる。

登らない朝日を望み。

夢と現の交差する場所で。

永遠の白に包まれた世界で。

ただひたすらに。

夜明けを待ち続けた。

誰かの。

悲しい夢が。

あたしの。

絶望が。

弱い心が産み出した。

この悲しい夢が。

たったひとつの。

小さな。

でも。

大きな。

輝きを残して。

夜が、明ける。

それは。

永かった夢の終わり。

そして……。

そして……。

声。

「……ちゃ……ん」

懐かしい声。

「おねえ……ちゃん」

ずっと、聴きたかった声。

「お姉ちゃん……」

妹の。
声。

光が。
部屋の中を満たしていた。

「……え……?」

「お姉ちゃん」

声の主が微笑んでいた。

「しお……り……?」

少しだけ痩せた姿で。
白い衣を纏い。
身体を横たえ。
瞳を潤ませ。

「……うん」

「栞ぃ……」

「お姉ちゃん」

「夢……かな……? お姉ちゃん、泣いてるよ……」

「栞っ!」

「――く、苦しいよ……」

「栞っ!」

「――お姉ちゃん」

「うっ……、うぐっ……」

「私のこと、また呼んでくれたね」

「うぅっ……、栞ぃ……」

「うれしいよ……、お姉……ちゃん……っ」

凍っていた時間が流れ始めた。

ゆっくりと。

でも。

確実に。

暖かな涙と、陽射しに包まれたこの部屋で。

待ち続けた現実がここにあった。

夢じゃない。

確かな温もりとして。

今。

あたしの腕の中に。

望み続けた『奇跡』のかたちが。

あたしは、笑えているのだろうか?

きっと笑えているね。

くしゃくしゃの。

涙で濡れた不格好な笑顔だけれど。

あの子のように。

きっと笑えているね。

だから。

言えなかった言葉を言おう。

心からの笑顔で。

大切な。

たった一人の。

あたしの妹へ。

言えなかった言葉を。

伝えたかった言葉を。

「――おはよう……、栞……」

「それから……」

「誕生日、おめでとう」