遥かに仰ぎ、麗しの SS ~たいせつなよる~(前)

2008年6月6日

ぐろ~いんぐ あっぷ! さんの更新を見て、殿子の誕生日が6月7日であることを思い出しました。

ということで、殿子SS。みやびーなSSも止まってますが、それはそれで。

前半を書いて力尽きたのですが、とりあえずある程度まとまったので公開です。当日公開とはいきませんでしたが、お楽しみいただければ幸いです。

たいせつなよる (前)

「それじゃ、行ってくるよ、殿子」
「行ってらっしゃい、司」
 そう言葉を交わしてからたった一日しか経ってないのに、こんなに彼がいないのを寂しく感じてしまうなんて、以前の私ならきっと想像もできなかったに違いない。
 彼、滝沢司は、私の先生であり、もう一人の──ううん、きっと実父よりも父らしい──父親であり、そしてたった一人の誰にも代え難い大切な恋人だ。
 半ば幽閉されるような形で放り込まれたこの学院での大部分の時間を、無気力に過ごしてきた私にとって、司との出会いは多くのものを与えてくれた。
 友人とも肉親とも違った関係。
 与えられる愛情と、与える愛情。
 それは今まで考えることもなかったような、けれど誰でも望めば手に届くような当たり前のしあわせだったのだということが今ならわかる。
 彼から投げかけられる言葉も視線も、絡めた指先と手のひらの温もりも、全身で感じる彼の暖かさと優しさも、すべてが私を捕らえて、溶かして、どこまでも溺れさせて行く甘い甘い蜜。
 私はきっと彼から離れることができないくらいに、彼に絡め取られてしまっているのだ。
 そう、私の半身と言っても言い過ぎでないくらいに司は私の全て。そして彼にとっての私がそうであるように、強く強く願っているのだ。
 だから、私が司をこんなに焦がれて思っていることも、彼にはきっとお見通しなんだと思う。
 わがままを言って彼を困らせることは私の本意でもないし、今さらこんな子供じみた感情に自分が翻弄されているのは癪だから、少しだけ──そう、少しだけ強がって笑顔を作って送り出してあげたのに。
 司の隣で過ごすことができないだけで、時間の流れがこんなに遅くなってしまうことに気付き、そして、今、私はそれをとても寂しく思っているのだ。

§

 数日前に彼からそのことを聞かされたときには大したことはないと思った。
 もともと、彼がこの学院を訪れる前までは、私の時間の過ごし方は、無目的も良いところで、敷地内の散策をしたり海を眺めたり、ひとりだったり梓乃と一緒だったりの違いはあるけれど、賑やかに過ごすという事からは無縁だった。そして、それを苦痛だとも寂しいとも感じることはなかったのだから。
「……と、いうわけでだ、理事長の代理で渉外なんてのは荷が勝つと思うんだけど、仕事だからね」
 言外にやれやれというため息が込められた彼の言葉には、けれど嫌悪の感情は見られなかった。
「また、そんなこと言って」
「だって理不尽だと思わないか、殿子? 理事長、自分が今度の球技大会で優勝するための練習時間は譲れないって、そんな私的な理由で仕事を僕に振ってくるんだぞ」
「それは司がみやびに信用されてる証拠。だいたいみやびの無茶を放っておけないって言って、自分から今の仕事を選んだのに。私、泣き言は聞かないよ?」
 ひとりでこの学院を支えようと必死に努力している風祭みやびを、司は裏方役として補佐することも選んでいた。
 普通ならこんなお人好しさ加減に呆れ果てるところだと思う。
 けれど、滝沢司というひとが何を望んでいるのか、何を志しているのか、知ってしまった私としては彼の選択を否定することなどできはしない。そして、これからもすることはないのだと思う。
「殿子は厳しいな~」
 こんな風に、私にだけ甘えてくれる彼の姿が見られるのなら、みやびの手助けをすることくらい、大目に見てあげようという気持ちもないこともないわけで。
「そんなことない。普通。それにみやびが出て行くと収まるものも収まらなくなる可能性が高いし、口八丁な司にはデスクワークより向いてるんじゃない?」
「殿子、君は僕をどんな風に見ているんだ……」
「そんなの言うまでもないでしょう?」
「とほほ……」
 軽口のコミュニケーション。
 毎晩のように彼の自室を訪れてはたわいもない会話をしたりする。
 最近は主に司の愚痴を聞かされる側に回っているけれど、なんだかんだ言いながら、彼は言われたことはやり遂げるし、それ以上の成果を出すことも珍しくない。
 他人──というより自分以外──に厳しいみやびが彼を楽しそうに罵倒しながら無茶を言うのも、彼女なりの司への信頼の不器用な表現に見えてしまうのは私の買いかぶりなんだろうか。
「というわけでだ、数日学院を空けることになるけど」
「私としては司が自分の講義を休講にするのを承諾したことの方が意外なのだけれど」
「まぁ、僕としてもそういう事態は避けたかったんだけどね」
 私と会話をしながら自習用の課題の準備を進め、
「一方的に話していても、聞く方はつまらないだろうし、そもそもここの学院生て基本的に理解力あるから手間がかからないのは幸いだったかな。
 僕も教師としてはまだ二年生になったばかりだし、いろいろと工夫しないといけないって思ってるし、こういう自習用の課題を考えるのもたまには良いかなと思うようにするよ」
「そう」
「そういうことなのです」
「でも、せんせの講義は面白いから、気にすることないと思うな」
「ありがたいお言葉だけどね。いつも同じ事をやってたら、きっと遠くないうちに飽きが来る。人間は慣れる生き物だから、常に創意工夫を絶やさないように。それが例えカリキュラム通りの講義だとしても、ね」
「それ、誰かの受け売り?」
「ばれたか」
「司はそんな格好いいことをすらすらと言えないもん」
「さらりとひどいこと言うな、この子は」
 振り返って苦笑を浮かべて司が言った。
 彼のベッドでごろごろとしていた私は、きっと少しだけ意地悪な笑顔をしていたと思う。
「別に。私は思ったことを言っただけだから」
「まぁ、いいけどね。殿子はそもそも僕の講義受けてないんだから。……でも、たまに当然のように教室に居座るの止めない? 他の子たちが不審に思ってるぞ。それと僕も居心地が悪い。いろいろな意味で」
「まだまだだね、司」
「いや、僕が言ってるのは……」
「司の講義は楽しいよ? それと教師としての司は格好いいから他のひとにだけ見せるのはもったいない」
「まるで普段の僕はまるで格好良くないみたいな言い方だな」
「う~ん……。格好良くないこともない?」
「二重否定の上に疑問系!? 殿子の物言いは最近どんどん遠慮がなくなってお父さんは悲しいよ」
「それはほら、反抗期?」
「年がら年中反抗しまくってた子が今さら何を言うかなあ。それにそんな嬉しそうな顔で言っても僕は騙されないからな」
「そか。残念」
「何でそんなに残念がるかな。……良し、こんなもんかな」
 ため息一つ。大きく両手を挙げて伸びをして、肩の凝りをほぐすようにゆっくりと首を回した。
「お疲れさま」
「うん」
 司の仕事の邪魔をしない。
 司との時間は大切だけれど、不必要に彼の負担にならないように決めた私だけのルール。
 司は私を優先してくれることが多いけれど、気を遣われすぎるのは嫌だし、私はできる限り彼と対等の関係でありたいと思っているから。
「それじゃそろそろ寝ようか」
「……」
 ……ただ、度が過ぎるくらいの朴念仁ぶりはなんとかしてほしいと思う。
 夜半、私が司の部屋を訪れて、あまつさえベッドで横になっているようなこの状況で何も感じないのだろうか、このひとは。
 清廉で誠実な性格は美徳だとは思うけれど、こういうふたりだけの時間では、もう少し、その察してほしいと思う。
 私を大切に思ってくれるのは嬉しいのだけれど、お互いが望んでいることをするのに躊躇ってほしくはない。
 少しだけ気まずい沈黙。ばつの悪そうな彼の言葉は、私の予想通りのいつもの言葉。
「あー、その、シャワー浴びてくる」
「うん」
 そんな言葉に私の鼓動は少し鳴りを早め、それを悟られまいとうつ伏せて視界を塞ぐ。
 彼の匂いを感じながら、聴覚は彼の動向を否が応でも追ってしまう。
 足音も、扉の開閉の音も、衣擦れの音も、シャワーの音も。どれもが私の緊張を高め、比例するように期待の度も高める。
 ──結局、私は彼に抱かれるのがどうしようもなく心地好いと思っているのだ。
 彼に触れられれば身体は素直に反応して熱くなるし、彼の言葉は脳髄を蕩かす。
 あられもない言葉で私は司を求めるし、司も私を貪るように求めてくれる。
 彼の指も唇も髪も腕も、私の中に沈む彼自身も、全てが自分のものだと思える、独占欲が満たされる最高で至高の時間を、私と司のふたりで過ごすことができるということが、怖いくらいに幸せなのだ。
 彼に飽きるなどということは考えられないし、考えたくない。もっと、もっと、彼と深く深く一つに溶けてしまうまで交わりたいと思っているのだから。
 気付けばシャワーの音は止み、ほんのひとときの静寂が降りる。浴室の扉が再び開く音が聞こえれば、私は身を起こして彼を待つ。
 そして、私は司に告げるのだ。
 彼に愛してもらうための、私からの愛の言葉を。
 無言で、優しく微笑む彼の表情に、私の中の何かがぞくりと蠢く。
 そう、今日も、これから、ふたりだけの時間がようやく始まるのだ。
 期待に早鐘を打ち鳴らす胸の音を少しだけうるさく感じながら、私は彼の求めに応じて唇を差し出した。