FORTUNE ARTERIAL ~さよならから始めよう~

桐葉ルート後、いつか訪れるかもしれない展開を書いてみました。やや重めの展開なので、甘めのお話がお好みの方はご覧にならないことをおすすめします。

さよならから始めよう

 遠い昔にここから眺めた風景は変わっていなかった。
 再び、この場所に立って、この風景を眺める日が来るとは思っていなかった。
 恋した人、いとおしい人、愛した人の面影を探して見回すけれど、風に優しく揺れる草たちの姿だけ。
 今は、ひとり。
 いつか訪れると分かっていた旅の終わり。
 その日が訪れた、それだけのことなのに。
 青く澄み渡っていた空、暖かかった空気、全てが色づいていた世界、そんなありふれたものの美しさを、感じることができなくなっている自分が無性に悲しかった。

 永遠にも等しい時間を持ち、けれど無為に過ごしてきた私にとって、彼と過ごした時間は、決して長いとは言えないものだった。しかし、それは空っぽだったかつての私に意味を与えてくれた、代え難いものだった。
 私の主である伽耶の戯れで繰り返された鬼ごっこ。得て、失い、また得て、また失う。そんなことの、何度目か忘れてしまった繰り返しの中で出会ってしまったひとがいた。
 最初から分かっていた、生きる世界が違いすぎるという厳然たる事実。
 ひとはひととしか生きられないし、眷属はその主の庇護の元で密やかに生きるか、あるいは私が繰り返したように、街から街へ立ち止まることなく流れていくことしかできない。──できないはずだったのに。
 私は知ってしまった。
 そんな生き方を外れても、得られるものがあるのだと。有限だけれど、ともに歩む道さえ見つけることができるのだと。
 彼が教えてくれたのだ。
 寒々しい世界でただじっと佇み、陽の光を浴び、冷たい風に吹きさらされ、ゆっくりと朽ちていくはずだった私に。
 悔いはない。
 私の選択も、彼の選択も。
 永遠を共に歩む──。それは甘美で抗いがたい誘惑に思えて、しかし、それはいつか苦しみに変わる地獄への道程だ。
 私と伽耶がそうであったように、いつか、私と彼との繋がりが変わっていくことに恐れなければいけないなんて、それを想像するだけで心が砕けそうになった。
 彼を嫌いになどなりたくない。彼を憎むことでしか自分を保つことができない自分になどなりたくない。
 彼が悩み、私が苦しみ、何度となく間違えそうになりながら、たどり着いた今日という日が正しいかどうかは分からないけれど。胸の内にぽっかりと空いた大きな空白も、彼がいないこれからの毎日を思う悲しみも、消えることがないかもしれないけれど。彼が私に与えてくれた時間の意味を、私は否定しない。誰にも否定などさせはしない。
 小さなため息がこぼれる。初めて失ったものが、私にとってはあまりに大きすぎて、まるで心が冷たく凍り付いてしまったかのよう。
 改めて思う。もう、この世界の何処にも彼はいないのだ。
 彼と出会った頃、一緒に見上げた空の色は、今も変わらない。青から茜へ。空が夜の色を連れてくる直前の色だ。
 もう二度とこうして同じ空を見ることが叶わないのだと、今さらながらに思い知らされる。
 じわりと滲み、歪んでいく雲の形と空の色。
 抗いがたい脱力感が私を包み、意識を刈り取る眠りへの衝動が静かに忍び寄ってきている。
 この手を握り返してくれた彼の手の大きさを思い、右手を空へ伸ばすけれど、手のひらをすり抜けていくのは冷たく透き通った風の流れだけ。
 だから、夢の中だけでも彼に会いたいと願う。せめて、それくらいは許してほしいと、祈るべき神など私にはいないけれど、そう、誰かに願わずにはいられなかった。

 外気の冷たさも人並みに感じない身体はこういうとき少しだけありがたいと思う。意識を取り戻した私は、そんなつまらない思考に苦笑しつつ、身を起こした。
 夜露に濡れて、服は湿っていたけれど、この身体の重さは、それが理由なのか、あるいは別の理由なのか、そこまで考えるは面倒くさく思う。
 空に浮かんで皎々と地を照らす月を眺め、時間の経過を把握した。深夜を少し過ぎたくらいの時間だと、私は当たりを付けて、周囲に誰もいないことを確認──。
「ようやく目が覚めたか」
 唐突に響いた声に視線をやれば。
 彼女の言葉を伝え目となる、ただそれだけの道具──漆黒の猫が闇の中でその目だけを光らせ佇んでいた。
「久しぶり、といったところか? 桐葉よ」
 その言葉からは感情の一片も読み取ることができない。
 伽耶ではなく、彼を選んだ私を、彼女がどう思っているかなど考えるまでもない。
 壊れた玩具が簡単に捨てられるように、彼女にとって不要な道具となれば、私であろうと彼女は容赦なく捨てるだろう。
「──伽耶」
 その可能性は十分以上にあるのに、私はこの地を訪れることを選んだ。

 この選択は眷属にすり込まれている主への帰巣本能なのかもしれない。あるいは、伽耶が私に下した令の残滓なのかもしれない。
 けれど、これだけは確かなのだ。
 彼女はどうしようもなく私の主であり、私はどうしようもなく彼女の眷属である。
 私と伽耶の繋がりは、事実、その一語の上に成り立つ契約じみた関係でしかないのだ。
 例え、私の中に残っている人間であった部分が、彼女をどう見ていようとも、彼女はそれを理解できないだろうから。
「ええ、久しぶりね、伽耶」
「ふん、言うことはそれだけか」
「そうね、私からあなたに何か言うべきことがあるとも思えない」
「殊勝な心がけよの……」
 くつくつと笑う伽耶をなぞるかのように黒猫が笑みを浮かべたように見えた。
「番の片割れが死んだ途端に出戻りか。お前もよくよく人でなしよの」
 嘲りの色を隠さない伽耶の言葉に私は沈黙する。
「それでこそ、このあたしの眷属よ」
「ええ、そうかもしれないわね」
 彼女の言葉は自分以外のすべてを斬りつける刃だ。
 誰かを守るためでもなく、他者を傷つけることでしか自身の実存を確認できない、力に呪われ力を振るうことしかできなくなってしまった悲しい子だ。
 そんな伽耶の気持ちを理解できていても、私には私の気持ちを伽耶に伝えることができない。自分以外の誰もが敵だとしか思えない哀れな吸血鬼に。
 我が子をすらその手に抱くこともできず、互いに傷つけ合うことしかできなかった彼女は、寒さに凍えるヤマアラシのようで。だからこそ、私は伽耶が向けてくる言葉と悪意の針を受け止め、抱きしめようと手を伸ばすのだ。私は簡単に壊れない、簡単に死なない、彼女の眷属なのだから。
「ふん、つまらんの」
「……」
「所詮、人間と眷属が結ばれることなどない。当たり前のことを理解できずに私の元から去ったお前が、どれだけ絶望して戻ってくるかと楽しみにしていたが」
「お生憎様ね。私は後悔も絶望もしてはいないわ」
 そんなことはしない。できるわけがない。それは、彼の想いへの冒涜だから。私を残して逝くことを詫びつつも、最期は笑って「幸せだった」と言ってくれた彼の想いを穢すことだから。
「だから、つまらんのだ。あれも、余程の物好きだったということか……」
「いい加減にしたら? 彼のことをどう言おうと、私はあなたの思うようにはならない」
「……ふん」
 私から興味をなくしたかのように鼻を鳴らし、黒猫が背を向け歩き出した。
「付いてこい」
「?」
「どうせ、これが最後なのだ。お前の記憶を消す前に、せめて顔を見せてやろう」
「……そう」
 やはり、彼女はまだ続けるつもりなのだ。
 飽くに任せ、私の記憶を封じ、自分を探させるためだけの戯れを。
「つまらぬ命令などさせるなよ」
 黒猫は私を振り返ることなく歩いていく。
 私が彼女の後を追うことに一片の疑いもないように、私が彼女から離れることができないことが自明であるかのように。
 私は立ち上がり、伽耶の後を追う。
 天頂を過ぎていた白月は地平を目指し落ち始めている。
 かつての記憶と変わらぬ道をたどり、私は彼女の屋敷を目指した。

 数十年ぶりに訪れた千堂の屋敷は、荒れるに任せ最低限の手入れすら行き届いていないように見えた。私の先を行った黒猫は、役目を終えたのかその姿は見えなくなっている。
 私は人の気配の絶えた豪奢な洋館に足を踏み入れ、迷うことなく屋敷の奧を目指す。離れへ続く扉を開き、雑草を踏み分け作られた申し訳程度の道を歩む。
 誰も彼もを拒絶するかのように閉ざされた観音扉は、私が手をかけると音もなく開き、夜気に混じって香の香りが屋内から漏れ漂ってきた。
 かつて訪れたときは下ろされ伽耶と私を断絶させていた御簾はすでに上げられ、彼女は私を待ちわびていたかのように、微かに表情を崩した。
 金糸の髪に紅玉の瞳。ひととしての形を持ちながら、優に三百年を超える時を生き、その姿を幼い少女のままで止めた私の主。
「来たか」
「ええ、こうして見えるのは何時以来かしらね」
「戯けたことを。あの出来損ない共の手引きで、お前が来た日のことを忘れるなどするものか」
「そう」
「あの出来損ない共といい、お前といい、よくよくあたしの機嫌を損ねるのが好きと見える」
「あなたが望んだことでしょう?」
「知った風な口を利く」
「たった一度、自分の意に適わぬ結果が出たからといって、あなたはそれまでの時間を全て否定する。私が過ごした孤独も、私と関わったひとたちの思いも、私と歩むことを選んでくれた彼の愛も」
 伽耶にはきっと理解できていない。私が告げる言葉は、彼女の耳に届いても、その深意が彼女の心に届かない。孤独に倦み、戯れに弄び、家族と友人と情愛の意味を長い時間の中で埋もれさせ忘れてしまった彼女には。
「何がいけない? お前はあたしの眷属であろう。眷属は主の命に従うだけの存在だ。そんな人形が何かを得るなどあっていいはずがない」
 ああ、彼女は何も変わっていない。私が生きた時間は、私を変えてくれたけれど、その対価として彼女に支払わせてしまった孤独な時間というものは、彼女の心を凍らせ続けただけだったのだ。
「では逆に問うわ。あなたは今までに何を得て何を失ったの?」
「……」
 この気持ちをどう伝えればいい?
 頑なに他者を拒み続ける彼女が望んでいるものは、きっと手を伸ばせば届く距離にあるものなのに、彼女にはそれが見えていない。届くことのない天の月を、唯一無二の美しいものと信じ、いつか手に届くと信じ、寂莫と広がり続ける平野を歩き続けているのだ。
「教えてあげる。伽耶。あなたは何も得ることなどできていない。今のあなたを見れば分かる。……いいえ。あのときにはっきりと私が告げるべきだった。あなたは自分を求めさせる、ただそれだけのことを望み、その理由を理解していないのだから」
 彼女の憎しみは寂しさの裏返しだ。
 彼女と共に歩んでいくことのできる誰かを絶えず求め続けているのに、彼女は自分の手でそれを壊す。
「だから、あなたの隣には誰もいない」
「黙れ」
 私は彼に救われた。誰かと寄り添うことの暖かさを知った。ひとりが寂しいことを知った。そして、誰かを愛するということは、自らが愛されるということであると知ったのだ。
 私には分かる。伽耶と私の違いは、それに気付けたかどうか。そんな些細な一点でしかないのだと。
「あなたは私に何を望んでいたの? 私にあなたを捜させ、それを繰り返して、何を求めていたの? ひとりになるのが恐ろしかったのでしょう? 孤独に自分が沈んでいくことが恐ろしかったのでしょう?」
「黙れと言っている!」
 伽耶とてそれに気付かないわけがない。
 そして、私を本気で黙らせたいのなら、そう命じればいい。
 しかし、今の彼女は私の言葉に耳をふさげない。それは私の言葉を肯定することに等しい行為だから。
「まだ続けるの? この無意味な鬼ごっこを?」
「決まっておろう」
 彼女の凍った心を今すぐ溶かすことなど出来はしないだろう。
 怒りと苦悩の入り交じった彼女の表情と、苛立ち混じりの口調。私でなければ、あるいは最初に口答えをした時点で命さえなかったかもしれない。
「……そう」
 でも、だからこそ、これは私にしかできない。
 最も昔の伽耶の姿を知り、彼女と同じ時間を過ごし、歩むことを決めたのは私なのだから。忘却していたこの気持ちを取り戻した今の私にしか。
 彼ならどう言うのだろう。彼が私にくれた言葉の一つ一つは私の宝物だ。彼が私を救ってくれたように、私が伽耶を救いたいと思うのは傲慢なのだろうか?
「下らないことを話した。まだ言い足りないことはあるか?」
 だから。
「……一つ」
 これは賭け。
「一つだけお願いを」
 とても分の悪い賭け。
 伽耶が無言で私の言葉の続き促す。
「あなたの遊びに乗りましょう。ただ、私が誰を捜すかまでは命じないで」
「な……?」
「あなたは私の記憶を消すだけ。私は誰とも分からぬひとを捜す。たまにはこんな余興も良いでしょう?」
「……お前は、それで良いのか?」
「ええ、構わないわ」
「……」
 彼女の令は私の芯まで縛らない。彼女が自分が求められることを望んでいるから、いつか自分のことを思い出し、自分の元を訪れることを期待しているから。
 私はそれを利用する。
 伽耶に自分が一人でないと信させるにはそれくらいの荒療治をしてやらないといけない。
 分は悪い、けれど私は自分がその賭けに負けるなどと微塵も疑いはしていない。
 伽耶を幸せにしたいと願う私の思い。私を幸せにしたいと願ってくれた彼の思い。
 たとえ伽耶が命じても、この記憶を完全に失くすことなど出来はしない、きっといつか思い出す。
「心配しないで、きっといつかあなたに会いに行くから」
 ただ、また少し、あなたをひとりにすることが、心残りではあるけれど。
「心配などしておらぬ」
 大切な誰かを捜す、その先で再びこの記憶を取り戻し、彼がいないことに悲しんでも、決して私の選択に後悔も絶望もしないと誓おう。この幸せな記憶を抱いて旅立つのだから。
「ただ、また退屈な時間が続くと思うてな」
「そうね。でもそれが、あなたの決めた遊び」
「……分かっておる」
 伽耶が私に歩み寄ってくる。
 私の記憶を消すために。しばしの別れを告げるために。
 その姿は、私の知る主としての毅然とした彼女とは程遠く、泣くことを無理矢理押さえつけている子どものよう。
 ああ、私は、こんなにも彼女のことを見ていなかったのか。
 今になって、ようやく、私は繰り返してきたこの儀式に伽耶自身が身を裂かれていたと気付くなんて。

 ──孝平。
 ごめんなさい。私の我が儘のために、あなたを忘れてしまう私を許して。
 でも、必ず思い出す。
 私があなたを愛した気持ちは決して嘘ではないから。あなたが愛してくれた時間を、私は嘘にしないから。
 これまで私を愛してくれてありがとう。
 あなたにもらった想いを、私は伽耶に伝えたいと思う。
 胸の中に灯っている、この暖かな光を、彼女の凍てついた心を温めることに使いたいと思う。
 そして、いつか、私がすべてを思い出したとき。
 あなたにもらった言葉を、私は伽耶に伝えたいと思う。
 主と眷属としてではなく、伽耶と私が振り出しに戻って最初からやりなおすために。いつか見た、あの日々をもう一度過ごすために。
「伽耶……」
 一歩、また一歩、伽耶が近づいて、ふたりの距離は零になって。
「桐葉」
 そして、何かをこらえるよう、うつむいたままの伽耶が、私の眼前に小さな手のひらをかざした。
「では、な」
「ええ。またね、伽耶」
 私と彼女は何度目かの別れを迎える。いつか再び、見える日の時のための儀式。
 私は今は告げることのできない、大切な言葉を胸に刻みつけて、目を閉じた。
 ──私と、家族になりましょう。
 その言葉を伝えるためのさよならを、薄れていく意識の中で呟いた。
 遠い昔の、優しい伽耶の言葉が聞こえた気がした。