遥かに仰ぎ、麗しの SS ~あしながおじさんのゆめ~ (3)

一年ぶりに続きを書くってどうかと思う気がしないでもないですが第3話です。

みやびの話を書くつもりが、なんだか鏡花のお話になりつつありますが。目指す方向は多分いっしょ。もうしばしお付き合いいただければ幸いです。

これまでのお話は以下から。

遥かに仰ぎ、麗しの ~あしながおじさんのゆめ~ (3)

 三嶋の前に示されていた選択肢は、決して多くはなかった。
 けれど、少なくともその選択肢は確かに存在ていたし、その中から彼女は自ら選択したのだ。
 自分が掴み取るべき未来へ繋がる最初の選択を。

「どうぞ、鏡花様」
「ありがとうございます。リーダさん」
「さ、御嬢様と司様も」
「ありがとう、リーダさん。いただきます」
 リーダさんが僕たちの前に出された温かな紅茶の、その甘い香りを楽しんでから口を付ける。相変わらずスキのない絶妙の淹れ方に内心頷きながらもう一口。
「うん、今日も美味しいね」
「ありがとうございます」
 そんな月並みな僕の感想にも、彼女は嬉しそうに柔らかな微笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。
「本当、美味しいですわね」
 三嶋も感嘆の吐息をもらしながら、そう言った。
 みやびはというと、僕と三嶋の様子をちらちらと見ながら、真似をするようにそのままカップを口にする。
 僕の予想通り、紅茶の渋みに少しだけ眉をひそめ、けれど表面上は平静を装って、なんだか良くわからないけれど、うんうんと頷きながら飲んでいる。
 何を張り合っているんだか。普段なら決してストレートでなど飲まないのに。
 そんなみやびをリーダさんは何も言わず、少し困ったかのような苦笑を浮かべつつ見つめていた。
 まぁ、僕が指摘してもどうせ反発して怒鳴られるだけだろうし、たまには大人の味を楽しむのも良いだろうね。そんな風にリーダさんとアイコンタクト。彼女も小さく頷いたので、きっと似たようなことを思ったんだろう。たぶん、この後は口直しに甘いお菓子をねだられるんだろうな。
 余り減らなかった中身をあえて見ないようにしながら、みやびがカップをソーサーに戻してから三嶋に訊いた。
「それで、どうした、三嶋?」
 僕が赴任してきた当時のふたり――顔をあわせては意見をぶつからせ対立していた――の様子からは想像もできないくらいに、みやびと三嶋の関係は良好なものになっていた。それは、みやびが三嶋に救いの手を伸ばしたことがきっかけだったけれど、ふたりの関係は僕から見れば対等なものだ。みやびが三嶋のために自ら拠出した金額というものは決して少ないものではなかったけれど、みやびはそれをもって、三嶋をあごで使うようなことはなかったし、三嶋の方もそれを引け目に感じ、みやびに対して媚びへつらうようなこともなかった。
 ──そう、それはまるで、かつての僕とみやびの関係のようで。
 僕は望んで今の秘書という職を手にした。それは、かなりぎりぎりの方法でもって築いた雇用関係だったけれど、だからこそ僕はその関係を最大限に活用して、みやびを助けることができた。みやびと三嶋の関係も、それに似ているように僕には思える。
 みやびと同年代の三嶋は、ともすると、僕よりずっと近い位置でみやびを助けることができたし、夏の海水浴やキャンプをはじめとして、クラスの皆と連れだって遊びに行くときには、そんな場に不慣れなみやびを仲間の輪に入れようと腐心してくれていたように思う。
 それは、一方的に結ばれた契約じみた関係では決して為し得ることなどできなかっただろうとも思う。
 みやびは気づいているんだろうか?
 僕でも、リーダさんでも、できなかったことを三嶋が成したということに。
 そんなふたりの関係を表す言葉が「友だち」だということに。
 三嶋だけでなく、今や、彼女の周りにはたくさんの友だちがいるということに。
 僕とみやびとリーダさんという、三人だけの世界では、決して手に入れられない大切なものを、自分がもう手にしているということに。
 気づいていないのなら気づいてほしいと願う。
 風祭という特殊な家で、リーダさんとふたり肩を寄せ合い、敵だらけの毎日を送らざるを得なかったみやびにも、当たり前のように接してくれる友人と呼べるひとたちがいるということに。
 自分に向けられる好意の形に。僕やリーダさんがみやびに与えることができた、家族や男女としての愛情の他にも、親愛や友愛といった暖かさもあるということに。
「三嶋?」
 先ほどのみやびの問いに、三嶋はしばし沈黙していた。
 それは、伝えたいことを言い出せない躊躇いに見えて、言葉にすることすら恐れているように見えた。
 視線を微かに揺らし、決意をするかのように瞳を閉じて、小さく息を吐く三嶋。その心中を推し量ることは僕にはできないけれど、再び瞼を上げて僕らを見た三嶋の視線には、確かな決意を窺わせる光をたたえていた。
「……風祭さん」
「うん?」
「何度かいただいていたあのお話、お断りさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……なっ!?」
 三嶋のこの言葉をみやびは予想していなかったのかもしれない。
 僕とて、あの日あの場所での彼女との会話がなければ、きっとみやびと同じように驚き、言葉を失くしたことだろう。
 選択肢の一つとしてないわけではなかった。けれど、あえて選ぶ必要などない道だと思っていた。それは彼女にとっても容易ならざる道だから。
「三嶋、なぜだ?」
 みやびにとっては理解しがたい選択なのだろう。その表情からは困惑と小さな苛立ちが見て取れる。
 それはそうだろう。三嶋とてかつてはいくつもの企業を統べていた良家の令嬢だ。そんな彼女が両親や家そのものの後ろ盾もなく、社会に出て何ができるというのか。
 みやびも自らの未熟さをこの一年で嫌というほど学ばされた。たかだか二〇年にも満たない人生経験などでは、大人たちの世界で生きていくのは、あまりに厳しく苦痛にまみれることだと。だからこそ、みやびには三嶋の言葉の意味が理解できない、いや、理解したくないのかもしれない。
「風祭さん。あなたからの申し出、本当にありがたいことだと思っています。あれから半年、私はあなたに与えてもらった千載一遇の好機を無にせぬよう、自らを磨き高めることができました」
「だ、だったら……」
「ええ、あなたの元にとどまり、この学院のために尽力する未来。それは、私にとっても望外のものですわ」
 そう。
 みやびも僕も、三嶋の才能をこれまでと変わらず欲しているのだ。
 未だ周囲に敵だらけの現状において、僕らには有能な人材はのどから手が出るほど欲しい。学院に在籍していた間の彼女の働きは、僕らの期待に十分以上に応えたものだったから。
「ですが、こうも思うのです」
 三嶋が言葉を続ける。
「私は今のままの私でいて良いものなのかと」
 揺れない言葉で。
「きっと、いつか、私は自分を許せなくなる。そう、そんな確信があるのです」
 揺るがない心で。
「もちろん、これは私の自己満足な我が儘であることも承知しています。この身ひとつで何ができるのか、私に残されたものなどほとんどありはしませんから」
 三嶋自身の、この学院に持ち込んでいる私物を処分したところで、その対価として得られるものなどたかがしれているのだろう。
「けれど、許されるなら」
 まっすぐに、みやびを見つめ。
「私は世界を見てみたいと願います。私の知らない世界を知り、学び、そこで得たものをあなたのために使いたいと願います」
 それは、気の長い、けれど、だからこそ純粋な願いだと思った。
 僕たちに残された時間を思えば、彼女の想いが無駄になる可能性は低くない。そして、最悪の可能性が現実となったとき、彼女はどう思うのか? 再びあの絶望を味わうのではないか? ならば、その時まで共に支え合う道を選ぶのは間違いではないのではないか?
「三嶋、お前はあたしたちの……いや、この学院の現況をどう思っているのだ?」
 みやびも、三嶋の視線を受け止める。
 三嶋は逃げないと決めた。ならば、みやびも彼女の真剣さに真正面から向き合うしかない。
 謎かけにも似たみやびの問いに三嶋は答える。
「風祭さんのおかげで、この学院はずいぶんと風通しが良くなったように思います。学院生たちの笑顔も増えましたし、昔のような息のつまる雰囲気はずいぶん薄れてきていると思いますわ」
 ですが、と彼女は続ける。
「風祭さん自身は、何かに焦っているようにも見えます。それがあなた自身の内面の問題なのか、それともこの学院の未来に関することなのか、そこまでは判断できませんけれど」
 正解だ。彼女の分析は当を得ている。
 みやびと由の婚約関係の維持はこれから一年が限界だ。
 それは、この学院の未来を作っていくためには、どうしても乗り越えなければならない障害だ。その間に僕たちに何ができるのか。それを思えば、未だ少女といっても差し支えのないようなみやびが焦燥を感じるのも無理からぬことだろう。
「だが、それでもお前は自分の選択を変える気はないと?」
「はい」
 ふ、と。
「あなた方を信じていますので」
 三嶋は微笑みを浮かべた。
「風祭さん。あなただけではないですよ。司先生も、リーダさんも。この学院を作り、導いて行く皆さまを、です」
「ふぅ……。三嶋。あたしはお前もその一員になってくれるのだと思っていたのだがな」
 みやびは苦笑を返す。
「ええ、ありがとうございます。……でも、だからこそ、私は私を恥じたくないと思います。私を今まで支え、守り、導いてくださった方のようになりたいと、そう思うのはいけないことではないでしょう? そうなるためには、今のままでは足りないのです。何が足りないのかも分からない、そんな未熟者が暖かい場所での安寧を望むなど、他の誰よりも私自身が許せませんから」
「……まったく、頑固者だな」
「ふふ、誰かさんのおかげですわ」
「誰に似たのやら?」
「誰にでしょうね?」
 ふたりの間の緊張はいつの間にか解けていた。
 って、なんだかふたり分の視線が僕に集中しているように思えるけど。僕?
「まぁ、いい。三嶋。確かにお前との約束の期限はお前の卒院をもって過ぎている」
「はい」
「そして、お前にこれからもあたしのために尽力して欲しいという思いにも変わりはない。それも分かるな?」
「はい」
「それが分かっているならば良い。お前があたしたちを信じてくれたように、あたしもお前を信じよう」
 三嶋の言葉を、みやびは信じる。
 そして、みやびが信じるものを僕が信じないはずはない。
 何より、三嶋は僕の教え子だ。教え子を信じない教師などいるはずがない。
「三嶋」
「はい、先生」
 ならば、僕がすべきことは、彼女の選択を肯定し、祝福してあげることだ。
「君は君の望むように、君が正しいと思うことをすると良い。僕は三嶋の選択を、君の歩く道行きを正しいものだと信じるから」
 信頼には信頼を。
 これは彼女からもらった言葉だけれど、僕から彼女に贈る言葉にこれ以上ふさわしいものは、思いつかなかったから。
「ええ、ありがとうございます。先生の教え子であること、それは私の誇りです。きっとあなたの信頼に応えてみせますわ」
 さらりと告げた彼女の言葉は、僕にとっては重いものだ。けれど、そこから逃げることなど決してしない。これは僕の選んだ道だ。ならば、彼女たちの想いを背負うことを苦しいなどと思うものか。
「けどな、三嶋。辛いこと、どうしようもないことは世の中に間違いなくある。そんな時は僕たちに頼ることは弱さでも恥でもない。それだけは忘れないでくれ」
「はい。頼りにさせていただきますわ」
「うん」
 僕はかつての三嶋を救うことができなかった。けれど、みやびにはできた。
 そして、みやびが三嶋のために、彼女が贈ることのできる未来を提示したことも。三嶋がみやびのために、いつか力になると約束したことも。
 そう、僕たちの手に掴むことができるものの大きさは、それぞれが違うのだ。
 だからこそ、互いの手を取り合うことを、僕は美しいと思う。
「お茶のおかわりはいかがですか、皆さま?」
 僕たちの話が途切れたタイミングを見計らったかのように、リーダさんが暖かい琥珀色で満たされた茶器を差し出してきた。
「ありがとう、リーダさん」
「さ、鏡花様も」
「ええ、いただきます」
 優しいまなざしで三嶋を見つめているリーダさん。
 みやびを妹のように慈しんでいる彼女は、三嶋の選択をどう思ったのだろうか。
 いや、そんなこと、疑問に思うまでもない。
「鏡花様」
「はい?」
「また、いつでもおいで下さい。その時は……」
 リーダさんはにこりと微笑んで。
「お茶菓子もご用意しておもてなしさせていただきますので」
 深く頭を下げたのだった。

 ……それぞれが、それぞれの目指すものへ向かって歩いていく。
 彼女たちのために、僕は、何ができるだろう。これから何をしていけるのだろう。
 そんなことを、思った。

(つづく)