遥かに仰ぎ、麗しの SS ~あしながおじさんのゆめ~ (2)

2008年3月9日

ちょっと時間が空いてしまいましたが、第2話です。

ネタバレ分多めです。未読の方は第1話をご覧の後にお読みいただければ。

鏡花さん絡みのお話です。みやびとのお話は、この次で。

遥かに仰ぎ、麗しの ~あしながおじさんのゆめ~ (2)

 数日前。
 林道を抜けた向こうにある高台には、良い風が吹く。
 そこで、僕は彼女と言葉を交わした。

 三嶋鏡花の身に起きた、あの初夏の日の出来事を思い出すと、今でも暗澹とした気持ちが僕の心を満たす。
 両親の失踪、世界にひとり残されるという孤独と絶望、明るく開けていたはずの未来が、突然閉ざされたことへの不安。
 どれもが僕自身の過去と鮮明に重なり、そんな事実を認めたくなくて、我を忘れたように随分と無茶なことを口にしていたこともはっきりと覚えている。
「なんて、今でもまだまだ未熟な僕が言っても、恥ずかしいだけかもしれないけどね」
 新任教師だったあのころから一年に満たない時間。胸を張って一端の教師と誇れるようになるには、まだまだ先は長い長い。
「ご謙遜なさることなどありませんわ。教職に就いていた時間の長短など、その方の本質に関係などないと、何より先生自身が私に教えてくださいました。教えを請う立場として、何人もの方からご指導いただきましたけれど、司先生ほどの方はいらっしゃいませんでしたよ? 先生はもう少しご自身の信念と、私たち生徒からの信頼に対して、誇りを持っていただきたいですわ」
 苦笑気味に三嶋が言う。少しだけ大人びた、けれど彼女らしい穏やかで上品な苦笑で。
「そうかな。三嶋にそう言ってもらえるなら」
 教師としての滝沢司の教師生活一年目は、及第点をあげても良いのかもしれない。
「ええ。おかげさまで、私もなんとかこの学院での生活を最後まで全うすることができました。この一点に限ってさえも、私から先生や風祭さんに対して、どれだけお礼の言葉を重ねても足りないくらいですのに」
「だから、あれは理事長の……」
「ええ、風祭さんの独断によるヘッドハント、でしたわね?」
 くすくすと、口元に手を当てながら笑い声をこぼし、三嶋は目を細めた。
「私と風祭さんの関係がこんな風になるなんて、きっと一年前の私には想像なんてできていませんでした」
「それは、そうだろうね」
 就任当初のみやびと三嶋の確執は一目見てそれと分かるくらいの険悪さを誇り、随分と頭を痛めたものだった。
「あの日までは、結局私も風祭さん……いえ、風祭という家に固執していたのだと思います。名門の学院分校生徒という肩書き付きの体のいい人質、借金のカタとしての私の価値と、風祭家次女としての彼女の価値を天秤にかけて。家柄で及ばないのなら、せめて人間としては彼女に負けたくたくない、いえ、勝っていると思い込むことで三嶋の娘としての誇りを守ろうとしていたのかもしれません」
 ──そんなのただの幻想だったっていうのに。
 小さくつぶやいた彼女の言葉は、けれど風にかき消されることなく僕の耳に届く。
「私も子どもだったんです。態度やもの言いはどれだけ大人の方の真似ができたとしても、私には経験も、自分を支えるための信念も呆れるくらいに足りなかったんですね」
「そんなことはないだろう。君は自分の役目を十分に果たしていたと僕は思う。君が精一杯に頑張っていたから、皆も君の努力に応えてくれたんだろう? 逆にそうでなければ、君だってここまでは頑張ってこれなかったんじゃないかい?」
「先生は、いつもそうやって元気づけてくださいますから。えぇ。感謝しております。先生はもちろん、風祭さんにも、学院生の皆さんにも、教職員の皆さんにも」
「そうか。ならいいよ。それとあんまり自分を卑下するもんじゃないぞ。自分だけじゃなく、君を思ってくれている人たちの気持ちまで貶めてしまう」
「はい。肝に銘じておきますわ」
「……他の生徒も君くらい聞き分けが良ければ助かるんだけれどね」
「あら、司先生がそう思ってらっしゃる方は一人しかいらっしゃらないんじゃなくて?」
 相変わらず気持ちの切り替えの早い子だ。感情を上手く御する術を知っている。この辺、みやびも見習ってもらいたいものなんだけれど、あの子は三嶋と比較されるの嫌がるからなぁ。
「その辺はあまり深く訊かないでいてくれると助かるんだけどな」
「ええ、そのようで」
 いたずらな笑みを浮かべたまま、三嶋は何かに納得しているかのように小さく頷いた。
 ──そう。
 風祭みやびはこの学院の理事長代理にして、志藤財閥の次期後継者たる志藤由の婚約者。
 そして、僕はこの学院のいち教職員。みやびの秘書なんてこともやっているけれど、そのいずれも正当な雇用契約に基づいているものだ。
 だから、公には僕とみやびを結びつける線というものは、雇用者と被雇用者という、ただそれだけのものであるはずなのだ。僕とみやびの関係が決定的な一線を越えてしまったときからも、みやびの、そして由の立場を考え、周囲に疑念を抱かせぬよう、そのように振る舞ってきている。
「私とて女ですから、その誰かさんの気持ちも分からなくはないですわ。他言はいたしませんのでご安心くださいな」
 おまけに敏い。やはり彼女が味方に付いてくれているのは心強いね。
「もの分かりが良くて助かるよ」
 制服姿の、三嶋の帽子越しに、彼女の頭を撫でる。艶やかな黒髪がほんの少しだけ流れた。
「も、もう。先生、私までおからかいになるのは止めてください」
 頬をわずかに赤く染めて、困ったような表情で、僕の行為を咎める。
 う~ん、お気に召さなかったかな?
「先生の行動は悪意がない分、質が悪いと思いますわ」
 溜息混じりに三嶋が言う。
「そ、そうか。君がそう言うならあんまりこういうことはやらない方がいいかもしれないな。確かに年頃の娘さんの頭を軽々しく撫でたりしたら、場所が場所なら通報されそうだ」
「もう、相変わらずご自分のことに関してはとんと鈍感なんですね」
「?」
「いえ、こちらの話です。先生は誤解されやすい性格をなさっているということを再確認しただけですわ」
「はぁ……。昔、恩師にも似たことを言われたよ」
 そう言えば、暁さんには『いつか刺されるぞ』とか妙な脅しをかけられたな。暁さんじゃあるまいし、僕に限ってそんなことあるわけないじゃないかと一笑に付したけれど。
「先生の先生ですか。尊敬なさっているんですよね?」
「まぁね。猿辺教授っていうんだけどね。あの人のおかげで歴史が好きになったし、この学院へ推薦してくれたおかげで夢だった教職にも就けた。数少ない僕の恩人かな」
 三嶋から視線を外し、凪いだ海の向こうの水平線を遠く眺める。
 陽の光で眩しいくらいにきらめく水面。まだ少し肌寒い初春の風は、けれど優しく僕たちの間を吹き抜けていく。
 恩師絡みのエピソードは語り出すとキリがないし、あまり大声で話せないような恥ずかしい過去もあるので、何を語ろうか思いあぐねる僕。
「正直な話、大学に進学するまでは、決して褒められたような学生さんじゃなかったからね、僕は。だから、大学での生活で、いろんな人と出会ったり、渡辺教授みたいな、尊敬できる人に師事できたのは幸運だと思ってる。人と人との出会いは、一期一会って言うけど、アレ本当だからな? 良い意味でも悪い意味でもね。その出会いをどういう風に人生の糧とするかは自分次第だっていうことには、後になってようやく気付くものだから」
 そう。良い出会いに恵まれた反面、僕の魂の根底に巣くう、僕を捨てたあの実の親たちへの大きな憎しみは、決して消えることはないのだろう。
 でも、だからこそこの子には僕のような黒い憎しみを抱えてほしくないと、思う。
 この学院が、たとえ彼女たちにとっての監獄であったとしても、彼女たちが籠の中の小鳥だったとしても。
 いつか、昔を振り返ったとき、この学院で過ごした時間というものが、悔いのあるものでなかったと、そう思ってもらえるのなら、僕にとってもこの上なく嬉しく思えるから。
 三嶋の、今は良く笑えるようなった彼女の、陰の消えた横顔を見つつ、そう思う。
 どこまでも羽ばたき、望む場所へ飛んでいける強さを、きっと彼女は手に入れたのだから。
「だからな、三嶋。君にとってこの学院の生活は決してただ楽しいというものではなかったと思う。僕が来る以前の君の苦労は、きっと僕が想像しても及ばないほどのものだったろうし」
 言葉を切る。
 しかし、僕は言葉を継がなくてはならない。彼女のこの一年の頑張りを無にしないために。彼女を肯定してあげるために。彼女がここから悔いなく巣立っていくために。見守ることを、支えることを自らに化した僕の、これがきっと最後の励ましになると信じて。
「君は卒院まで、本当によく頑張ってくれた。学院生としても、理事長代理のサポート役としてもだ。だから、僕は君の先生であったことを誇りに思うし、君が無事にここまでたどり着けたことを何よりも嬉しいと思う」
 そして。
「ありがとう」
 挫けないでいてくれて。世界に負けないでいてくれて。僕らを信じていてくれて。
 ……笑顔を絶やさないでいてくれて。
「あ……」
 驚いた表情で三嶋鏡花は僕を見る。
 きっと、この思いは自己満足。僕にできたことといえば、あのとき、あの場所ではほとんど何もなかったのだから。
 だから、彼女が今こうしていてくれるのは、彼女自身の力。僕らはほんの少しだけ、彼女が羽を休めることのできる場所を守っただけなのだ。
「お、お礼を言う順番が違いますわ、先生」
 少しだけ上擦った声音。視線を僕から切り、地面を見つめ彼女は言う。
「私からしてみれば、あなた方のご助力がなければ今日までここで過ごすことなどできませんでした。あのとき、両親に捨てられた私を、最後まで見捨てずにいてくれた先生と風祭さんにこそ、私は万言を費やしても言い尽くせない感謝の言葉がありますのに!」
「三嶋……」
「いえ、私も先生や風祭さんのように自らの行いでこそ、この感謝をお返しすべきだと思います。いつか、私は必ずあなた方のお力になることを、ここでもう一度誓いますわ」
「いいんだ。僕は君が幸せになってくれるなら、僕の事なんて忘れてくれたって一向に構わないのに」
「いいえ、受けたご恩は必ずお返しします。他ならぬ先生のお言葉でも、それだけは聞いてあげるわけには参りませんわ」
 いたずらな微笑みを僕に返し、三嶋ははっきりと言い切った。
 彼女の瞳の端に浮かぶ水の玉が、ひとつ、ふたつと地面に落る。
 それでも彼女は僕から視線を逸らさない。意志に満ちた強い瞳はそれだけで彼女の言葉に一片の嘘もないことをはっきりと語る。
「そうか。なら僕はもう何も言わないよ。もう君は僕の手から離れているんだ。自由に、自分の夢を掴むといい。君にはその資格も、力も、きっと十分に備わっている」
「はい」
「うん、いい返事だ」
 もう、大丈夫。
「なぁ、三嶋?」
「はい、なんでしょう?」
「こんな僕の生徒でいてくれてありがとう」
 君が少しでも僕に救われたと言ってくれるなら、教師としての滝沢司にとって、何物にも代え難い宝物だ。
「先生」
 少し赤くなった瞳が僕を見つめる。
「私は先生のお言葉を忘れません。今この場で交わした会話も。この一年で先生から教えていただいた様々なことも。きっと、私がまた弱くなってしまったとき、この学院での生活を、先生のお言葉を思い出します。他ならぬ先生、あなたはこの三嶋鏡花の恩師なのです。先生は先生の望むまま、先生の正しいと思うままをこのままなさってくだされば、きっと間違いなどないと私は信じますわ」
 深々と頭を下げ、三嶋は言った。
「先生。……本当にありがとうございました」
「うん」
 表情の見えない三嶋の頭を、僕はもう一度撫でた。
 今度は三嶋は何も言わなかった。
 ただ、小さく聞こえてくる彼女の嗚咽が収まるまでの短い時間、僕と三嶋はここで優しい風に抱かれていた。

 きっとこのとき。
 三嶋は学院を飛び立ち、自らの未来へと羽ばたくことを決めたのだと、そう思う。

(つづく)


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