雨上がりのある一日

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雨上がりのある一日

side A:Good morning.

「――ん……」
薄暗い室内に差し込み始めた朝日を感じ、オレは目を開けた。
カーテン越しにも感じられる柔らかな朝の陽射し。
昨日の雨が嘘のように晴れ上がっている。
――ちょっと早く目を覚ましちまったな。
ベッドの枕もとにある目覚まし時計を見ながら思う。
――目覚ましが鳴り始める前に目を覚ますなんて、我ながら珍しいもんだ……。
などと、妙なことに感心してしまう。
「――う……ん」
「あかり?」
かすかに声を上げたあかりの顔を覗き見る。
幸せそうな表情を浮かべながら、静かに寝息をたてている。
オレの右腕を枕代わりにしながら眠るあかり。
左手はオレのTシャツをきゅっ、と掴んだままだ。
ホント子供みたいだよな。オレがいなくなるとでも思ってんのか?
ま、こんなんで安心できるんだったら、いくらやってくれても構わないけどな。
空いている左の手であかりの顔にかかった前髪をそっと払う。
さらりとしたあかりの髪。そのまま軽く髪を梳く。
その髪からはリンスの甘い香りと、そしてあかり自身のふわりとした優しい香りがした。
――もうちょっと眠るか……。
まだ起きなきゃいけない時間までしばらくあるし……。
そう思い再び瞼を閉じるオレ。
腕に感じるあかりの暖かな温もり。
近くにあかりを感じるだけで安らぐ心。
――オレもあかりと一緒なんだな……。
『一緒にいるだけで十分だよ』
いつかあかりがオレに言った台詞。
その言葉に、安上がりなヤツだ、と苦笑したオレ。
――安上がりなのはオレも同じか……。
苦笑しながらそう思う。
「――どうしたの、ひろゆきちゃん?」
突然のあかりの声に驚いてぱちりと目を開ける。
「あ、あかり……。起きてたのか?」
「ううん、今、起きたばかりだけど……」
まだ寝ぼけているのだろうか、眠そうに目をこすりながらあかりが言った。
「そっか、オレが起こしちまったみたいで悪ぃな」
「ふふふ……。そんなことないよ。私はいつもこれくらいの時間に起きてるからね」
「あ、そうだったか?」
目覚ましに手を伸ばしスイッチを切る。
「毎日お弁当作ってるからね」
身体をくるりと90度倒してオレの方を向くあかり。
薄い毛布を隔ててうっすらと浮かび上がる身体のラインにどぎまぎする。
「そうだったな」
内心の動揺をあかりに気付かれないように努めて冷静に言う。
「うん。浩之ちゃん、私のお弁当、ホントに美味しそうに食べてくれるから、私、頑張って作ってるんだよ? お母さんにも『熱心に頑張ってるわね』って言われちゃった」
照れ臭そうにあかりが言う。
「まぁ、あかりの作る弁当はホントに美味いからな。つまらない学校の中で、お前の弁当だけが唯一の楽しみだぜ」
オレは心からそう思う。
退屈な授業を乗り越えてから食べるあかりの弁当は文句無しで美味いからな。
「え、そうかな? そんなこと言われると照れちゃうな……」
えへへ……、と変わらぬ笑いを浮かべるあかり。
「いつも、ありがとな」
「……うん」
あかりはオレの言葉に短くそう答え、そのままオレの胸に自分の顔を埋めた。
自然に密着するオレとあかり。
「あ、あかり……」
「浩之ちゃん、あったかい……」
胸元にかかるあかりの吐息。
――ま、まずい。このままじゃ、理性が……。
「あ、あのなぁ……」
「どうしたの?」
ふっ、と顔を上げオレの顔を覗き込む。
何も分かっちゃいないな……。
「オレだって男なんだぜ?」
「うん」
「朝っぱらからこんなことされたらどうなるか分かってんのか?」
「……え?」
オレの台詞に凍り付くあかり。
どうやらオレの言おうとしていることがやっと分かったようだな……。
ついでにちょっとからかってやるか。
――ちょっとだけだぞ。本気になるなよ、オレ。
「分かんないなら教えてやろうかなぁ?」
にやりと笑いながら言うオレ。
ぎこちない笑みを浮かべたままおろおろするあかり。
「え? え? ちょ、ちょっと浩之ちゃん……」
慌ててオレから逃げようとするあかりの身体。
オレは両手をあかりの背に回し、きゅっと抱きしめる。
「あっ!」
軽く背に這わせたオレの指にあかりが声を上げる。
「ひ、浩之ちゃぁん」
2度、3度……。華奢な背をオレの指がなぞるたびに、あかりの押し殺した声がオレの耳に届く。
「……んっ。ひ、浩之ちゃ……ん。も、もう起きないと……」
オレの腕を掴むあかりの小さな手に力がこもる。
あかりはきゅっと目を閉じたままオレの指の動きに耐えている。
そんなあかりの切なそうな表情を見ていると、オレの方までたまらなくなってくる。
――ここら辺にしとくか……。
「――なんてな」
あかりを一気に抱きしめたくなる衝動をなんとか抑え、オレは不意に力を抜く。
「え?」
固く閉ざしていた目をぱっちりと開き、何が起きたか分からないような、きょとんとした表情でオレを伺うあかり。
「ちょっとは感じたか?」
ようやくオレが本気でなかったことに気付いたのか、あかりは真っ赤になりながら、
「も、もう! からかったんだね? ひどいよ、浩之ちゃん」
抗議の声を上げる。
「ははは……悪ぃ悪ぃ。でもな、本気になったらお前だって困るだろ?」
「――う、それはそうだけど……」
「それとも、もっとして欲しかった?」
オレの言葉にますます赤くなるあかり。
「もう、ホントに意地悪なんだから……」
「そうか?」
とぼけた口調で訊く。
「そうだよぉ」
恥ずかしさのためか消え入りそうなあかりの言葉。
耳まで紅く染めたあかりの頭を軽く撫で、
「ほら、そろそろ起きようぜ?」
言ってからあかりの頬に軽く口付ける。
「あっ?」
不意打ち気味のオレのキスに、思わず頬に手を当てて驚きの表情を浮かべるあかり。
「じゃ、オレ先に行ってパンでも焼いとくから。着替えてから来いよ?」
「……うん」
ちゃんと聞こえてんのか?
いまだぽーっとしたままのあかりを残して一足早く部屋を出た。
少し高鳴った心臓の鼓動を感じながら階段を下りる。
――ふー、やべぇやべぇ。あれ以上続けてたらオレの方が我慢できなくなっちまってたな。
とんとんとん、と階段を駆け下りリビングへ向かう。
前日にセットしておいたトースターのスイッチを入れ、焼き上がるのを待つ。
冷蔵庫の中から牛乳とマーガリンを取り出してテーブルの上に置く。
――ふたりで朝食食べるのも結構久し振りか?
いつもは一人で食ってるし、面倒くさくて朝食抜くこともよくあるしな。
たまにはこんなのんびりとした朝もいいもんだ。
「おっと……」
焼き上がったトーストを取りもう1枚セット。スイッチを入れて再び待つ。
とりあえず、自分の分のトーストにマーガリンを軽く付ける。
焼きたてのトーストと、その上でゆっくりと溶けていくマーガリンの香りが漂う。
続いてできたあかりの分もオレと同じようにして一段落。
あとは昨日の夕食のおかずの残りでも出しとけば大丈夫だろう。
――やっぱ、あかりに作ってもらった方がよかったかな?
余りに素っ気ないと言えば素っ気ないテーブルの上を見ながら、オレは少しだけ後悔した。
こっちの準備はこれでいいとして、あかり……、まだ寝てんのか?
「おーい、あかり~。まだ寝てんのか?」
廊下に出て2階のオレの部屋に向かって声を上げる。
「あ、浩之ちゃん。今行くから~」
すぐにあかりの返事が返ってくる。
どうやら寝てたって訳じゃないようだな。
ほどなくドアの開く音がして、制服に着替えたあかりが下りてきた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「別に気にすんな。それよりパン焼いといたから先に食べててくれ。オレも着替えてくるから」
「ありがとう、浩之ちゃん」
「お前の料理とは月とスッポンだけどな」
苦笑いを浮かべながら言うオレに、
「ふふふ、じゃ先にいただきます」
あかりはそう言ってリビングに向かって行った。
「ああ」
あかりが席に着いたのを見てから、オレは階段を1段飛ばしで一気に駆け上がる。
部屋に入ると、あかりがカーテンを開けたのだろう、窓から眩しいくらいの陽射しが差し込んできていた。
窓を開け早朝の空気を迎え入れる。
昨日の名残なのか部屋に流れ込む新鮮な空気には、雨の匂いが少しだけ混じっているような気がした。
それからオレはハンガーに掛けてあるワイシャツの袖に腕を通し、制服を身に付ける。
鏡を覗いて寝癖のチェック。
どうやら今日はそれほど寝癖は付いていないようだ。簡単にブラッシングをして髪を整えると、机の上に放り出してある鞄を手に取って、再び階段を駆け下りた。
「あ、浩之ちゃん、早かったね」
リビングに現われたオレの姿を確認するやあかりが言った。
「まぁ、男の身だしなみなんてこんなもんだからな」
答えながらテーブル越しにあかりの向かいに腰掛ける。
「あんまり簡単であきれただろ?」
オレの言葉に苦笑がちに答えるあかり。
「私は朝はそんなに食べないからこれくらいでもちょうどいいけど」
「ん?」
「浩之ちゃんは、これじゃ全然足りないんじゃないの?」
「まぁな」
トーストをかじりながら答えるオレ。
「でも、いつもは時間がなくて急いでるからな。朝飯なんて食べてる暇ないんだよなぁ」
「ちゃんと食べないとダメだよ?」
「はいはい」
いつもの『しょうがないなぁ』といった目でオレを見ながら言うあかりと、軽く受け流すオレ。
「――で? お前どうするんだ?」
簡単な朝食を終え、コップに注がれた牛乳を飲み干してからオレは口を開いた。
「え?」
「学校行くにしても、今日の授業の教科書とか準備してないだろ? 大体お前の鞄、自分の家に置いてきただろ」
「うん」
さらりと答えるあかり。
「『うん』て……。どうするつもりなんだ?」
「やっぱり1度家に戻ろうかと思って」
「大丈夫なのか? お袋さんとかに訊かれたらなんて答えるんだよ」
あかりに嘘をつかせた手前、さすがにオレも後ろめたい。
あかりもお袋さんにはまだオレたちのこと何も話してないだろうし……。
「多分、大丈夫だと思うよ? お母さん、あんまり細かいことまで訊かない性格だし」
本気で言ってんのか、あかり?
「いや、細かくないだろ、これは……」
「まだ、時間あるよね?」
「ん? ああ。珍しく今日は余裕があるな」
「じゃあ、急いで行ってくるから待っててくれる?」
言いながら席を立ち、食器を流し台に持って行こうとするあかり。
「あかり、後片付けはオレがやっておくから、お前はとっとと家に行ってこいよ」
「う、うん。じゃ、お願いするね」
「ああ、オレは家の前で待ってるからな。別に急がなくてもいいぜ?」
「うん、分かった。それじゃ行ってくるね」
ぱたぱたと軽い音を立てながらあかりが玄関へ向かって駆けてゆく。
「浩之ちゃん、行ってくるね。先に行っちゃやだよ~?」
あかりは玄関でもう一度そう言ってから外へ出ていった。
玄関のドアが閉まる音を聞いてから、席を立ちふたり分の食器を持って流し台に立つ。
かちゃかちゃと軽い音を立てながら食器を洗い、簡単に布で拭いてから食器棚に戻す。
適当に洗っちまったが、ま、いいだろ。
後片付けはこれでよしと。
さて、オレもそろそろ家を出るかな。少し早いがここにいてもしょうがないし。
鞄を手に取り玄関に向かう。靴を履いて外に出る。
ふぅ、今日は昨日と違って雨は降りそうにないな。
玄関に鍵を掛け雲一つない青空を見上げ思う。
――天気予報、今日も見忘れたけど……。
道端に昨夜の雨の名残。
所々に残った水たまりには青い空。そして登り始めた陽の光できらきらと輝いている。
木々の葉には小さな朝露の珠。時折枝を揺らす風。風に揺れる葉から煌めき落ちる雫。
初夏とはいえ、まだ少しひんやりとした空気の中、あかりを待つ。
家の前の塀に背をもたれながら、あかりの家の方向をぼんやりと眺める。
おいおい、そろそろ出ないとヤバいぜ。
左腕にした時計の針を見ながらそんなことを考える。
「浩之ちゃ~ん」
と、聞き慣れた声に顔を上げ、あかりの姿を見付ける。
だから『ちゃん』付けで大声で呼ぶなって言ってるだろ。
駆け足でやってくるあかり。
「はぁ、はぁ……」
急いで来たのだろう、肩で息をしながら苦しそうに言う。
「ご、ごめん、浩之ちゃん……」
「いいから。まずは、落ち着けって」
「う、うん……」
あかりは胸に手を当てて、乱れた息を整えようとする。
「どーだ? 落ち着いたか?」
「うん」
何とか呼吸を整え、顔を上げる。
「ほらほら、のんびりしてると遅刻しちまうぞ?」
「あ、そうだね」
「まだ歩いても間に合う時間で良かったな」
「うん」
オレの言葉に苦笑がちに頷くあかり。
「ぼさっとしてないで行こうぜ?」
言って歩き出すいつもの通学路。
今日もまた変わらない1日が始まろうとしていた。

side B:Good afternoon.

キーンコーン……
校内に授業終了を告げるチャイムの音が鳴り響いた。
それではこれまで、という言葉と共に教壇を降りた先生を合図に一斉に席を立つオレたち。
待ちに待った昼休み。
オレたちにとっては一秒たりとも無駄に出来ない貴重な時間だ。
今日は特にな。
いつもならあかりの弁当をのんびりと屋上ででも堪能しているのだが……。
さすがに今日は用意できなかったハズだ。
なんせ、俺ん家に泊まって行ったんだから……。
「よっしゃ、雅史。久し振りに学食にでも行くか?」
廊下へ出る途中、雅史に声を掛ける。
「え? 浩之、今日はお弁当じゃないの?」
不思議そうな顔で訊く雅史。
「ああ、今日はちょっとな……」
言葉を濁すオレ。
いくら雅史にでもホントのことは言えないからな……。
しかし、雅史は済まなそうに、
「ごめん、浩之。今日は僕がお弁当なんだ」
「あ、そうなのか?」
「うん、ごめん」
もう一度謝る雅史に、
「いや、気にしないでくれ。いつもはオレの方が弁当食ってるんだしな」
「でも、あかりちゃん、今日もお弁当みたいだったけど?」
「何?」
「さっきちらっと見ただけだけど、いつもの袋を出してたから……」
あかりのヤツ、そんなこと一言も言ってなかったぞ?
「あ、浩之ちゃん。雅史ちゃんも一緒にお弁当?」
考え込むオレにあかりが声を掛けてくる。
「あかり、今日の昼飯だけど……?」
「え? ほら、ちゃんと用意してきたよ。浩之ちゃん、『量が少ない』って言ってたから今日は大盛りだよ!」
にこにこ顔で嬉しそうにあかりが答える。
「浩之、良かったね」
雅史も笑顔で言う。
「あ、ああ」
思わぬ展開に間の抜けた声で答える。
「久し振りに雅史ちゃんもお弁当一緒にどうかな?」
そんなオレに気付かないのか、あかりは雅史と話している。
「ありがとう、あかりちゃん。でも、今日はサッカー部の友達と食べる約束してたから……」
「あ、そうなんだ。それじゃダメだね」
「うん、ごめんね。僕、そろそろ行くね」
言って弁当箱を手に持って雅史が席を立つ。
「うん、それじゃ」
「お、おう、またな」
教室を出る雅史に思い思いの言葉を掛けるオレたち。
笑顔で見送るあかりと、やや釈然としない思いを残したままのオレ。
「浩之ちゃん、私たちもそろそろ行こ?」
オレを促すように廊下へ出るあかり。
オレもつられて廊下へ出る。
「ねぇ、たまには中庭で食べよっか?」
「まぁ、オレはどっちでもいいけど……」
「それじゃ決まりだね」
「――それはそうと、何で今日も弁当作って来られたんだ? そんな暇なかったじゃねーか」
歩きながら思っていた疑問をあかりに訊ねる。
「えへへ……、驚いた?」
「そりゃ、まぁな」
曖昧な答え方をするオレ。
「浩之ちゃんを驚かせようと思って黙ってたの。ごめんね」
「やっぱり、朝、家に帰った時か? 鞄取りに行っただけにしては時間かかってると思ったら、弁当作ってたんだな」
「うん」
そして、少し恥ずかしそうに、
「……ホントはね、今日のお弁当、お母さんが作ってくれたの。お母さん、私が毎日浩之ちゃんのお弁当作っているの知ってたから、浩之ちゃんの分まで用意していてくれたの」
大事そうに両手で持った弁当袋を見ながら言う。
「そりゃまた……。用意がいいな~」
感心したように言うオレ。
「私もびっくりしちゃった」
うーん、やっぱりあかりのお袋さん、薄々気付いてるんじゃあ……?
「でも、お母さんの作ったお弁当だからきっと美味しいと思うよ」
「ま、それでもオレはやっぱりあかりの弁当の方が好きだけどな」
「――え? で、でも私のお料理なんてお母さんに教えてもらったものばっかりだよ? それにお母さんみたいに上手に作れないし……」
「そう言う意味じゃねーよ」
やれやれ、と溜め息を1つ。
「確かにお前のお袋さんの料理は文句無しに美味い!」だけどなぁ、オレにとっちゃ、あかりが一生懸命作ってくれた料理の方が好きなんだよ」
「浩之ちゃん……」
「オレのために頑張ってくれてるんだろ? 毎日」
オレの言葉にあかりは顔をほころばせ、
「うんっ! ありがとう、浩之ちゃん」
にっこりと微笑んだ。
「ほら、のんびりしゃべってないでとっとと外に出ようぜ。腹減ってしょうがねーんだからな」
「ふふふ、浩之ちゃんらしいね」
「――ったく、何だよそれ?」
たわいない会話を交わしながら靴を履き替え中庭へと向かう。
照り付ける太陽の陽射しがやけに眩しい。
「あ、浩之ちゃん。あれ、来栖川先輩じゃない?」
あかりの指差した方向に目をやると、確かに来栖川先輩がベンチに腰掛けていた。
相変わらずぼーっとしてんだなぁ。
「よっ! センパイ!」
軽く右手を上げて先輩に声を掛ける。
木漏れ日を受けて、輝くような長く艶やかな黒髪が風に揺れる。
先輩は澄み切った青空を眺めていた視線を、ゆっくりとした動作でオレたちの方に向ける。
やっぱりお嬢様だな~。こんな自然な動作がむちゃくちゃ絵になってる。
「…………」
「こんにちは、来栖川先輩」
こんにちは、と言った先輩にあかりがぺこりと丁寧におじぎをして答える。
「オレたちこれから昼飯なんだけど、先輩も一緒にどう? まだ弁当食べてないんだろ?」
先輩の座っているベンチの上に置かれた、怪しげな漆黒のハードカバーの本。
その上にある小さな弁当箱に気付いたオレが先輩に訊いた。
「…………」
こくん、と頷く先輩。
「はい、ぜひご一緒させて下さい、か。あかりもいいだろ?」
「うん。みんなで食べれば楽しいしね」
「それじゃ、オレたちも座るか。――あ、先輩、悪ぃな」
どうぞ、と席を空けてくれた先輩に礼を言って腰を下ろす。
「はい、浩之ちゃん」
同じように腰を下ろしたあかりから弁当を受け取る。
「お、さんきゅ」
あかりのそれよりも一回り以上大きい弁当箱の蓋を開ける。
「いただきまーす」
「いただきます」
「…………」
見事にハモった合掌の言葉の後、オレは箸を手に取り一気に食べ始めた。
「うん、やっぱり美味いな」
一口食べてから率直な感想を言う。
オレの好みにぴったりあった料理を作るあかりとは少し違うが、その弁当はそこらのレストランなどで食べる料理よりもよほど美味しく感じられた。
「そうでしょう?」
「ああ。でも、このおかずってオレの好物ばっかりじゃないか? 味付けはさすがにちょっと違うみたいだけど……」
「お母さん、わざわざ浩之ちゃんの好きなおかずを作ってくれたんだよ。浩之ちゃんの好きな料理なら何だって、私もお母さんも作れるんだから」
「あかり、またお前が色んなことしゃべってんじゃないだろうな……?」
「え? えへへ……」
――ったく。しょーがねーなぁ。
となりで黙々とおかずを口に運ぶ先輩。
普段から無口だけど、食事の時はさらに無口になるんだな……。
「センパイ、ちゃんと食べてるか?」
「…………」
「食べてます、ね。よろしいよろしい」
うんうんと頷くオレ。
「センパイの弁当ってやっぱり一流のシェフかなんかが作ってんだよな? 毎日美味いもん食べられて羨ましいぜ。と言ってもオレも昼の弁当はあかりが作ってくれてるんだけどな」
先輩はオレたちの弁当にちらりと視線を落とし、
「…………」
「え? 美味しそうですね? ああ、あかりの料理だって凄く美味いんだぜ。センパイの弁当にだってきっと負けないぜ。――もっとも今日のはあかりのお袋さんが作ってくれたんだけど」
「もう、浩之ちゃんてば……」
慌ててあかりが口を挟む。
「そんなことないですよ、来栖川先輩。やっぱりプロの人の作ったお料理にはかないませんよね」
「…………」
「え、愛情はどんなものにも勝る魔法の調味料です?」
先輩の言葉をおうむ返しに口にするあかり。
――あなたが浩之さんを想った分だけ、あなたの料理も美味しくなるんです。
あかりの言葉に続いて先輩がさらに続けた。
いつもと変わらぬ小さな声で。
そして、優しさに満ちた声で。
「せ、先輩」
顔を赤くして俯いてしまうあかり。
「…………」
きっと浩之さんが言うようにとても美味しいんでしょうね、か。
「良かったなあかり」
あかりの頭にぽんと手をのせて言う。
オレの言葉に素直に頷くあかり。
「うん」
そう言って顔を上げ来栖川先輩を見る。
「ありがとうございます。来栖川先輩」
嬉しそうにあかりが先輩にお礼を言った。
変わらぬ表情を湛えた先輩。しかし、オレには先輩が嬉しそうに微笑んでいるように見えた。
――ざぁ……っ
暖かな匂いを乗せ吹き抜ける一陣の風。
葉擦れのかすかな音を聞きながら、ゆっくりと流れる時間を感じる。
南の空に高く昇った太陽から降り注ぐ眩しい陽射しが、オレたちを優しく包み込んでいた。
「……ふう、ごちそうさん」
「ふふふ、はい、浩之ちゃん」
「おお、さんきゅ」
言いながらあかりが差し出したお茶を受け取り喉に流し込む。
ようやく昼飯を終えたオレたち。
いつもならもっと早く食べ終わったいるが、先輩やあかりと色々話していたおかげでずいぶんのんびりとした昼食になってしまった。
午後の授業ももうすぐ始まる時間だ。
「あかり、そろそろ教室に戻ろうか?」
「あ? もうそんな時間なんだ?」
あかりは弁当箱を片付け、袋に戻す。
「うーん、やっぱ天気がいいと気持ちいいな~」
オレは立ち上がり背筋を伸ばして深呼吸。
「それじゃ、センパイ。オレたち教室戻るから。センパイも午後の授業遅れないようにそろそろ戻りなよ?」
「…………」
「え? 今日は楽しかったです。ありがとうございました?」
立ち上がったオレを見上げながら先輩が言う。
「いいって。オレたちも楽しかったしな。――そうだ! 今度あかりの料理、センパイにも食べさせてやるよ。いいだろ、あかり?」
「ええっ?」
突然話を振られて慌てるあかり。
「…………」
「ぜひお願いします、だってさ。あかり、こりゃ頑張って作らないとな~」
「もう……。あ、あの、来栖川先輩もあんまり期待しないで下さいね」
しぶしぶ承諾するあかり。
「…………」
「楽しみにしてます、って。来栖川先輩まで……」
「あかりはああ言ってるけどな、期待して損はないぜセンパイ。楽しみにしていてくれよな」
困った顔をしているが、やはり嬉しいのだろう。オレは微笑みを浮かべながら言ったあかりの言葉をフォローする。
こくりと頷く先輩。
「それじゃ、センパイ、またな」
「失礼します」
「…………(こくん)」
頷く先輩に軽く手を振り、オレたちは中庭を後にした。
授業の始まる約10分前。
校庭で汗を流していた生徒たちもそろそろ戻る準備を始めたようだ。
オレたちは急ぐこともなく昇降口で靴を再び履き替え校内に戻る。
2階へと上る階段。
「浩之ちゃん……」
「ん?」
「私のお料理、美味しいって言ってくれるのは凄く嬉しいけど……」
「けど、何だよ?」
「あんまり他の人にあんな風に話されると恥ずかしいよ」
「いいじゃねーか、別に。ホントのことなんだし」
階段を上がりきり教室へ向かう。
「だって……」
口ごもるあかり。
――そんなに恥ずかしがることもないと思うんだけどな~。
「分かった分かった。オレが悪かったよ」
「え?」
「オレも調子に乗ってペラペラとしゃべり過ぎたみたいだしな」
「あ、ゴメン。そんな意味で言ったんじゃないけど」
「ま、それだけお前の料理が美味いってことだよ。もっと自分に自身持てよな、あかり」
「……うん」
「あとな、明日はお前の弁当が食いたいな、オレは」
「え?」
思わず立ち止まるあかり。
――やれやれ。
オレは振り返りながらもう一度言う。
「明日はちゃんと弁当作ってくれよ、あかり」
「うん!」
あかりは嬉しそうに元気よく頷いた。
そして、にっこりと笑いながら、
「それじゃ、今日の晩ご飯も頑張って作ろうかな?」
「いや、昨日も作ってもらったし無理しなくていいぜ?」
「ううん、今日は私の家に食べに来て欲しいの」
「何ぃ!?」
思わず声を上げ訊き返す。
「昨日、本屋さんで読んだ本に書いてあった料理、作ってみようかなと思って。それに浩之ちゃん、食べに来てくれるって言ったよね?」
そりゃ確かに言ったけど……。
言葉に詰まるオレを見て無言の肯定と受け取ったのか、あかりは勝手に話をまとめる。
「それじゃ、今日の帰りにスーパーに寄って行こうね」
――あ、あのなぁ。
こんな笑顔見せられたら『嫌だ』なんて言える訳ないだろ。
始業を告げるチャイムが鳴る。
オレたちの一日は、まだまだこれからのようだな……。
その音を聞きながらオレはふとそんなことを思った。

side C:Good evening.
『あ、じゃあ私とお母さんが作るから、今度、私の家に食べに来てよ』
『――は?』
間の抜けた声で訊き返す。
『いいでしょ?』
『わ、分かったよ……』
しぶしぶ頷く。
『ホント!?』
オレの返事を聞いた途端に目を輝かせて訊き返すあかり。
『ああ、そのうちな』
――確かにそう言った。そう言ったけどなぁ……。
普通、泊まりに行った次の日に誘うか?
「あ、浩之ちゃん!」
ぼんやりと昨日の会話を思い出していたオレにあかりが声を掛けてきた。
「――何だ、あかりか……」
気のない返事に苦笑しながら、
「何かぼんやりしてたから……。どうかしたの?」
他の連中にとっては気がつかないような小さなことでも、やっぱりあかりには分かってしまうようだ。
「いいや、別に。大したことないから気にすんな」
「お昼の約束覚えてる?」
う、いきなり核心を突いてくるな。
屈託のない笑顔そのままにあかりが訊いてきた。
「お、おう。忘れる訳ないだろ?」
「あ! もしかして忘れてたの?」
「な、何言ってるんだよ?」
「ふふふ……。どもってるよ、浩之ちゃん」
「忘れてねーって。今日はお前ん家に夕食食べに行くから、帰りに買いもの付き合えってんだろ?」
「――え、そうだったっけ?」
…………。
「あかり……」
「ひ、浩之ちゃん……?」
オレの言葉にただならぬものを感じたのか、あかりは慌てて両手で頭をかばおうとしたが……。
ぺしっ!
「あっ!」
それよりも早くオレの手があかりのおでこを軽く小突いていた。
「痛ったぁ~い」
「何度も言ってるだろ、お前のギャグは寒すぎるんだよ……」
何とも言えない脱力感にみまわれながらも言葉を絞り出す。
ったく、久しぶりのあかりギャグがこれかよ……。一気に疲れが出ちまったじゃねーか。
「もう、ひどいよ、浩之ちゃん」
おでこを抑えながら涙目でオレを見るあかりに、
「だったらくだらねーギャグなんて言わないでおくんだな」
「面白くなかったかな……?」
――はぁ……。
でもまぁ、あかりらしいと言えばあかりらしいか。面白かったらあかりギャグじゃないしな。
「もう、いい……」
一気に重くなった腰を上げ、席を立つ。
「いい加減に行くか……。これ以上お前のギャグには付き合ってられねーよ」
鞄に荷物を放り込みながらあかりに言った。
「……それにしても、何で今日なんだよ? だいたい昨日の話だぜ?」
玄関へ向かう途中、オレはあかりに聞いてみた。
そりゃ、夕飯作ってくれるのはありがたいし、あかりと一緒にいられる時間が増えるのも悪くはない。
しかし、今回ばかりは今までとは違うからなぁ。あかりのお袋さんともしばらく会ってないし……。
「浩之ちゃん、ホントは迷惑だった?」
少し不安げな表情でオレを見るあかり。
「いや、迷惑とかそういうのじゃないけどな……。お前のお袋さんになんて言ったらいいかと思ってな」
「え?」
不思議そうにオレの顔を見るあかり。
「あかりだって、お袋さんにまだ何も言ってないんだろ? いつも通りのつもりでお邪魔しても、ちっとばかり緊張しちまうぜ」
「大丈夫だよ、いつも通りにしてれば。お母さんだって……」
そこまで言って言葉に詰まるあかり。
「『だって』の続きは?」
「えへへ……」
曖昧な笑顔であかりがごまかそうとする。う~ん、怪しい、絶対何か隠してるな。
「続きは?」
「え、えっとね……」
困った顔であれこれ考えるあかりに詰め寄る。
「ね~ね~、話すって何を?」
いきなり話に割り込んできた能天気な声に思わず声を上げるオレたち。
「どわっ!?」
「えっ!あ、志保?」
志保はオレたちの顔を交互に見てから、
「さてはヒロ、またあかりを困らせてたわね? あかりもあかりよ。面倒見がいいのも程々にしときなさいよ?」
「し、志保。お前はなぁ、いつもいきなりどっからわいてくんだよ? 驚いたじゃねーか!」
オレの言葉にも少しも動じない志保。
「甘いわね、ヒロ。この志保ちゃん、特ダネのある所には誰よりも早く参上するんだから。ああ、今回も大ニュースの予感……。さぁ、きりきり話してもらいましょーか」
やけに自信たっぷりの仕草でぺらぺらと喋る志保。
「やかましい! ガセネタばかり仕入れるようなヤツに話すことなんてねーよ。だいたいオレたちの話をどこから聞いてたんだよ?」
しかし、志保はオレの嫌味に少しも耳を傾けず、
「アンタ、さてはあたしの情報収拾能力に嫉妬してるわね? ま、世の中の動きに疎いアンタが情報の最先端を行くあたしにコンプレックスを抱くのも無理ないわね」
「いや、あのな……」
すっかり自分にひたって遠い目をした志保に話し掛けるが聞こえてないようだ。全く……自信過剰もいい所だぜ。
「し、志保……?」
「はっ? あたしったらつい……。そうそう、アンタたちの話ね? 確かヒロがあかりに『何も言ってないんだろ』とかなんとか話してた辺りからよ。何やら面白そうな話だったんでチェックさせてもらったわよ」
げ、ほとんど全部聞かれてたんじゃねーか。
「それで結局何の話? 聞いててもさっぱり分かんなかったから直接訊くことにしたのよ」
オレに訊いても何も話さないと分かったか、矛先をあかりに向ける志保。
「うん、あのね、今日浩之ちゃんが私の家にお夕飯食べに来るの」
「――それだけ? 他になんかないの?」
「これだけだよ」
「なぁんだ、そんなのいつものことじゃない。面倒くさがりなヒロのために食事まで作ってあげてるなんて、ホントいい奥さんね?」
しれっと言ってのける志保の言葉に顔を赤くするあかり。
「し、志保ぉ……」
「もういいだろ、志保? 用がそれだけならとっとと行った行った」
内心ひやひやしていたが、どうやら志保も納得したらしい。オレは手を振って志保を追い払おうとした。
「何よヒロ、随分ね? どうせアンタたちもこれから帰りなんでしょ? あたしも一緒に帰ったっていいじゃない」
「でも、これからお夕飯の材料買いに行かなくちゃだから……」
申し訳なさそうに志保に言うあかり。
「う~ん、そっか……。分かったわ、今日の所はおとなしく帰ってあげるわよ」
「ゴメンね、志保……」
志保は軽く手を振って、
「気にしないでいいわよ、あかり。それじゃね、お熱いのも程々にしときなさいよ、おふたりさん」
「なっ!?」
「…………」
その言葉に絶句したオレたちの返事を待たず駆け出した。廊下を走るなよ、志保……。
「ったく、なんなんだ一体……?」
「う、うん……」
立ち尽くしたまま思い思いの言葉を口にするオレたち。
「オ、オレたちも行くか……」
「そ、そうだね……」
オレたちがそう言って再び歩き出したのは、志保の背中が見えなくなってからのことだった。
***
「あかり、他に買い忘れはないか?」
あかりから手渡された材料を買い物かごに放り込みながらオレは訊いた。
「え~と……。うん!大丈夫、全部揃ってるよ」
かごの中を材料を一通り見てからあかりが答えた。
「そっか、それじゃ会計済ませてくるぜ」
「あ、お金は?」
言って財布から金を取り出そうとするあかりの言葉を遮って、
「いいって、オレが出しといてやるよ」
「そんな、悪いよ」
「何言ってんだよ? オレが作ってもらうんだから、これくらい出させろよ。オレに出せない金額じゃないんだからな」
「ありがとう、浩之ちゃん」
「礼なんて言われるほどのことじゃねーって。その代わり美味いもん食わせてくれよ?」
「うん!」
元気よく返事をしたあかりを一瞥してから、オレはレジに向かった。
夕食の買い物をする客で活気づく店内。会計を済ませるために、一番短い列を探してその後ろに並ぶ。短いといっても、すでに数人の客が並んでいるのでもう少しかかりそうだ。
手持ちぶさたになったオレは、何気なく店内を見回す。ふと見ると、あかりがレジの向こう側で壁にもたれながら待っていた。
オレが見ているのに気付いたのか、あかりはこちらを見てにっこりと微笑む。――ったく場所を考えろよな……。あかりの笑顔に苦笑で返すオレ。
オレの前に並んでいた年配のおばさんが、かご一杯に詰め込んだ商品をレジに並べた。慣れた手つきで一つ一つ商品を取りレジに打ち込んでいく店員。
待つことしばし。そのおばさんが会計を済ませると、オレは手に持ったかごをレジに置いた。
「いらっしゃいませ」
事務的な口調でそう言うと、同じようにレジに打ち込んでいく。そのたびに聞こえるピッピッという電子音が軽快なリズムで流れる。
「ありがとうございました」
支払いを済ませたオレに掛けられた言葉を背に受けレジを後にすると、あかりが声を掛けてきた。
「ご苦労様、浩之ちゃん」
「おう、ホラ」
オレからかごを受け取ると、あかりはてきぱきと品物を一緒に貰ったビニール袋に詰め込み始めた。
キャベツ、じゃがいも、にんじん、チリビーンズの缶詰とあとは調味料が少しか……。
料理に疎いオレにはあかりが何を作るつもりなのかさっぱり分からない。当のあかりにしても昨日見た本で知ったらしいから、ちょっとは変わった料理なんだろうけど……。
「お待たせ~」
「もういいのか?」
「うん」
あかりは言って袋をオレに見せた。
そんなに買い込んだわけではないが、やっぱりあかりに荷物を持たせるのは悪い気がする。
「あかり、荷物持ってやるよ。よこしな」
「ありがとう、何だか悪いね? いろいろしてもらっちゃって」
「何言ってんだか……」
あかりの手から袋を受け取りながら、
「いっつも飯、作ってもらってるんだからな。これくらいの事、いくらでもしてやるぜ」
並んで出口へ向かって歩くオレたち。自動ドアの前に立つとわずかな間を置いてから静かな音を立ててドアが開いていく。
見慣れた商店街の街並をのんびりと歩きながら家路を辿るオレたち。
「ふう、ようやく帰れるな……」
「ゴメンね、浩之ちゃん。やっぱり私だけで買いに行った方が良かったかなぁ?」
ぽつりと漏らしたオレの言葉にあかりが申し訳なさそうに答える。
「ん? いや、オレだって荷物持ちくらいはできるからな、別に嫌じゃねーよ。ただな……」
「ただ?」
「やっぱり、制服のまんまだとちょっとな……」
言って苦笑いを浮かべるオレ。
「高校生のふたりが制服で買い物なんて、いかにもって感じだよな?」
「――うん、ちょっと恥ずかしいね……」
制服のまま買い物に行くこと自体は別に変じゃないけど……。
あかりと一緒だと妙に意識しちまって気恥ずかしい感じがするな。
ま、でも――。
「お前とだから別にいいんだけどな」
「うん、私も……」
頭にぽんと手をのせて言った言葉に、静かに答えるあかり。
「しっかし、オレたちの買い物ってこんなのばっかりだな」
「え?」
「他の買い物って一緒に行ったことないんじゃねーか?」
言いながら記憶を辿ってみる。あかりと買い物に行ったことは何回もあるけど、だいたいがこんな買い出しみたいなのだからな……。洋服とかそんなの買いに行ったことないような気がするぜ。
「ふふふ……そう言えばそうかもしれないね」
「洋服とかお前ひとりで買いに行ってんのか? 寂しいヤツだなぁ」
意地悪っぽく言ったオレに、あかりは少しだけ頬をふくらませ、
「ひどいなぁ、浩之ちゃん。ひとりでなんて行ってないよぉ」
「ははは、冗談だって。やっぱ志保とかと行ってんだろ?」
「うん、あとはやっぱりお母さんと行くのが一番多いかな?」
「ふ~ん。でも考えてみればオレと一緒に行ったって参考になんてならないだろうからな~」
気のない返事をかえすオレ。
「前に志保と三人で行った時も、浩之ちゃん退屈そうにしてたもんね」
「そんなことあったか?」
とぼけるオレに、あかりは微笑みを返した。
「浩之ちゃん、私たちが『どうかな?』って訊いても曖昧な返事しかしないんだもん」
「そんなこと言ったってしょーがねーだろ? オレには女物の服の善し悪しなんてよく分からねーんだから」
あん時は志保があんまりぎゃーぎゃーやかましかったから面倒くさくなって適当に答えてただけなんだけどな。
「似合うかどうかだけでも言ってくれればいいのに……」
「あかりが着るんだったら何でも似合うって」
「え?」
しれっと言ってのけたオレの言葉にあかりは顔を紅く染め、
「も、もう!浩之ちゃんたら、ごまかさないでよ」
聞こえるか聞こえないかの小さな声でそった呟いた。
「――でも、嬉しいな……」
オレは何も言わずあかりの手を握る。オレの手を握り返すあかりの小さな手。
そのまま顔を上げ天を仰ぐ。
見上げた空に広がる澄み切った青。夏の気配を感じさせる強い陽射しは少しだけ翳りを見せ始めていたが、夕暮れまでまだまだ時間はかかりそうだった。
***
「それじゃ、着替えてから行くからな」
オレは自分の家の前であかりに言った。
いつも以上にゆっくりと歩いたせいで、家に着くまでにかなり時間がかかってしまった。
「うん、私はお夕飯の準備してるから」
あかりに買い物袋を渡してから、オレは鞄の中から家の鍵を取り出し玄関の鍵を上げた。
「頑張って作れよ。楽しみにしてるんだからな?」
ドアを開けてから一度振り向いてあかりにそう言うと、
「うん、まかせて!」
あかりはにっこりと微笑んで手を振った。
「またあとでな」
「うん、ばいばい」
オレも軽く手を上げあかりを見送ってから家に入って行った。
玄関で靴を脱ぎ家に上がる。そのまま階段を上って自分の部屋に入り、ほとんど使っていない机の上に鞄を放り投げる。
そのまま窓を開いて外の空気を招き入れる。オレは新鮮で爽やかな空気が部屋に流れ込むのを感じながらベッドに寝転んだ。
――ふう……。
やっぱり自分の部屋は落ち着くなぁ。少し固めのベッドの上でごろごろしながら少し気怠い体を休める。
夕暮れ時を告げる涼しさの混じり始めたそよ風が心地いい。
このまま一眠り……。っと、まずいまずい、寝過ごしたらせっかく夕飯を作ってくれるあかりに悪い。慌ててベッドから跳ね起き、頭を軽く左右に振って睡魔から逃れる。
制服の上着を脱いでハンガーに掛ける。
着替えを用意してタオルを持ち、オレはシャワーを浴びるために階段を下りてバスルームへ向かった。
シャワーの温度を適当に調節して頭から一気に浴びる。やや熱めにしたお湯が汗を洗い流していく。一日の疲れも一緒に流れていくようだぜ。
簡単にシャワーを浴びたあと、タオルで体に付いたお湯を拭き取って着替えを身に着ける。
シャワーでぼさぼさになった頭も簡単に拭いてからブラッシングで髪を整える。最近は夜でもあまり気温が下がらないようになってきたから、このまま放っておいても風邪なんて引かないだろう。
制服のズボンとシャツを持って、オレはバスルームを出た。そのままリビングへ向かい制服をソファの背に掛ける。
七時ちょっと前か……。時計に視線を走らせながら考える。
そろそろ行くか。
オレはリビングの照明のスイッチを切ると、玄関で靴を履き外へ出た。ドアの鍵を下ろし、ポケットに鍵をしまい込み、オレはあかりの家へ向かって歩き出した。
既に陽は落ち薄暗い闇が辺りに落ち始める。西の空に低くかかる焦げるような茜色のグラデーション。鮮やかな青をたたえていた大空は、夜の訪れを告げる深い蒼へと変わろうとしていた。
太陽の代わりに夜道を照らす月の光を浴び長い影が地面に落ちる。皓々と輝く月の光は明るく、冷たげで、そして静かに夜の街並を照らし出していた。
人気の引いた道をひとり歩く。歩を進めるたびに響く乾いた足音を聞きながら、やや早足にあかりの家を目指す。
ほどなく見えてくる見慣れたあかりの家。
オレはあかりの家の前に立ち、玄関のドアの脇に付いている呼び鈴のスイッチに指を伸ばした。軽くスイッチを押すと聞き慣れた鐘の音がドアの向こうで響くのが分かった。
…………。
かちゃり
少しだけ待つと扉の鍵が外される音がしたあと、ドアが開けられた。
オレを迎えたのは変わらぬ微笑みを浮かべたあかりだった。
「こんばんは、浩之ちゃん」
「おう、ちょっと遅かったか?」
私服に着替えたあかりに招かれ、オレは玄関に足を踏み入れる。
「ううん、私の方もちょうどお夕飯の準備ができた所だから、もう少しで食べられるよ。お腹空いてるよね?」
「ああ、お前がせっかく作ってくれるんだからな。家でも何も口にしないで来たから腹ペコだぜ」
オレがそう言うとあかりは嬉しそうに目を細めながら、
「えへへ……。何だかそう言ってもらえると嬉しいな」
「あら、浩之くん、いらっしゃい」
あかりがそう言うのとほとんど同時に、家の奥から顔を出したあかりのお袋さんが柔らかな笑顔でオレを迎えながらそう言った。その仕草や表情はやっぱりあかりによく似ている。さすが親子だな。
「ども、こんばんは」
軽く頭を下げて挨拶するオレに、
「いいのよ、固い挨拶なんて。それにしても浩之くんが家に来るのなんて久しぶりね? 今日はあかりがお夕飯作ってくれるって言うから何かあるのかと思ったけど……そういうことだったのね」
「ちょ、ちょっと、お母さん……」
ちらりとあかりを見ながら言ったお袋さんの言葉に、慌ててあかりが口を挟む。あらかじめ話しておけば良かったのに、何してたんだよ、あかり。
「浩之くんもそんな所に立ってないで上がってちょうだい」
「あ、ゴメン、浩之ちゃん。上がって」
「ああ。それじゃ、お邪魔します」
靴を揃えて脱いで家に上がる。
「浩之ちゃん、もう少しでお夕飯できるから、もうちょっとだけ待ってね」
「おう」
あかりはそう言い残すと再びキッチンへ姿を消した。
「それじゃ、浩之くんはこちらね」
あかりのお袋さんにリビングに通され、オレは適当な場所に腰を下ろした。
「ちょっと待っててね」
そう言って彼女も姿を消す。たぶんあかりの手伝いにでもいったんだろうけど……。
何となく落ち着かないな、ひとりで待つってのは。
「浩之くん、コーヒーでも飲む?」
「あ、どうも。ありがとうございます」
コーヒーカップを持って現われた彼女の言葉に礼を言う。
「そんなにかしこまらなくてもいいわよ。遠慮しないでちょうだい」
そう言いながらオレの向かいのソファに腰を下ろすあかりのお袋さん。
「あの、あかりは?」
「今、料理の盛り付けしてるわ。今日はあの娘ひとりで作りたいって言ったから、今日は楽させてもらってるの」
ふふふ、と笑ってカップに口を付ける。
「どうせなら毎日浩之くんが来てくれればいいのにねぇ。そうすれば私も家事が減って助かるんだけど」
「ははは……」
苦笑するオレを見て,彼女はくすりと笑いながら、
「まあ、これは冗談だけどね。でも、いつでも来てっていうのは本当よ。その方があかりも喜ぶわ」
やっぱり気付いてるよなぁ、こんなこと言うんだから……。それでも変わらない様子で話せるなんて、さすが母親だな。
「オレとあかりのこと……」
意を決して口にした言葉を言い終わる前に、彼女は静かに口を開いた。
「あの娘は何も言わないけどね、分かってるわよ。母親ですもの」
「そうですか」
「あかりが毎日浩之くんのためにお弁当作る所も見てるし。それに浩之くんの話をするとき、すごく幸せそうな顔で話すのよ」
「あかりは、すぐ顔に気持ちが出ますからね」
「ふふふ、そうね。やっぱり浩之くん、あかりのことよく分かってるわ」
お袋さんは嬉しそうににっこりと微笑む。
「すみません、黙ってて。オレがあかりに口止めしてたんですけど……」
「そんなこと気にしないでいいわよ。あの娘見てればすぐに分かることだし。それに相手が浩之くんだったら安心だわ。小さい頃からあかりと一緒に見てるから、あなたのこともあかりと同じくらい分かってるつもりよ」
ふと、廊下から聞こえるあかりの足音。
「どうやら準備ができたようね」
「お待たせ~、お夕飯できたよ」
あかりが笑顔で言った。
「おう、待ちかねたぜ」
「それじゃ、ご飯盛っておくからすぐ来てね?」
そう言い残してあかりがぱたぱたとキッチンへ駆けて行った。
「それじゃ、私たちも行きましょうか?」
「はい」
少し冷たくなったコーヒーを一気に喉に流し込み腰を上げる。
「浩之くん」
「はい?」
先に廊下へ向かったあかりのお袋さんがオレの方を振り返って言った。
「あかりのこと、よろしくお願いね」
その言葉の意味を、重みをオレは噛み締めながら、
「……はい」
短く、けれどはっきりとオレはそう言った。
にっこりと頷いた彼女の表情は、あかりの笑顔にとてもよく似ていた。
オレにしか見せない、とびきりの幸せそうな笑顔に。
***
「ふう、ごっそさん!」
そう言ってオレは箸をテーブルの上に置いた。
「ごちそうさま」
同じように箸を置いて言ったあかりのお袋さんの言葉を聞いてから、
「おそまつさまでした」
嬉しそうにあかりがそう言った。
「お茶、淹れるわね」
お袋さんはそう言って席を立つ。お茶の葉を取り出し急須に入れポットから熱いお湯を注ぐ。並べた三人分の湯呑みにこぽこぽと淹れたてのお茶が注がれる。
「はい、どうぞ」
差し出された湯呑みを受け取るオレたち。
「あ、ども」
「ありがとう、お母さん」
再び腰を下ろした彼女に、オレたちは口々に礼を言った。
「ふふふ、どういたしまして」
オレは湯呑みにそっと口を付け、お茶をすする。
「今日の料理はなかなか美味かったぜ、あかり」
一口すすってから、あかりに今日の夕食の感想を言う。あかり一人で作っただけのことはあって、味付けとかはモロにオレの好みに合わせてあった。多分、お袋さんもいつもの味付けと違うことに気付いてるんだろうな……。
「えへへ……、そうかなぁ?」
照れ臭そうにあかりが笑う。
「なかなか上手にできたんじゃない? 初めて作ったんでしょ?」
「うん。そんなに難しいお料理じゃなかったからね」
お袋さんの言葉にあかりが答える。
今日一緒に買ってきた材料で作ったのは、『キャベツと豆のスープ煮込み』という料理らしい。簡単なスープ料理だがこれが結構美味い。
一口サイズに細かく切ったキャベツをスープで煮込んだものに、じゃがいも、にんじんを加えてさらに煮込む。じゃがいもとにんじんが柔らかくなっ たらチリビーンズを入れて、チリパウダーと胡椒、味を見て塩を加える。器に盛ってパセリのみじん切りを上から散らせて出来上がり……。
食事中に聞いた作り方だけじゃ、オレにはさっぱりだが、『煮込んでいる間ににじみ出るキャベツの甘味がポイント』と付け加えたあかりの言葉はよく分かった。なるほど、確かにスープと他の材料に染み込んだキャベツの甘みと、アクセントで加えられた調味料の加減は絶妙だ。
「やるなぁ、あかり。初めて作ったとは思えない美味さだったぜ?」
そう、昨日の今日で作った料理とはとても思えない。オレは素直にあかりの料理を賞賛した。
「そ、そう? でも、そんなに褒められるとちょっと恥ずかしいな……」
「いや、マジで美味かったぜ。次も期待できそうだな?」
「えっ? また食べに来てくれるの、浩之ちゃん?」
ぱっと目を輝かせてオレの言葉に反応するあかり。
「ま、また今度な……」
あかりの勢いに多少気圧されながらも言う。
「そうそう、浩之くんが来てくれると私も助かるから、また来てちょうだいね」
「お、おばさんまで……」
思わず苦笑する。
「だってそうすればあかりが頑張ってくれるもの。ね、あかり?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら言ったお袋さんの言葉にかっと顔を染め小さな声で呟いた。
「お、お母さん……」
「あら、ホントでしょ?」
「も、もう!」
「ま、まあ、そのうちまたお邪魔します……」
とりあえずあかりに助け船を出す。このままだんまりだとこっちまで保たないからな。
「あかり、また何か新しい料理覚えたら食わせてくれよ?」
「うん」
まだ少し赤みの残る顔を上げ、あかりが頷いた。
「――っと、それじゃご馳走になったことだし、そろそろ帰ろうかな?」
「あら、もうお帰り?」
「ええ」
言ってオレは席を立った。
「あ、私も」
オレにつられて席を立つあかり。
「また来てね、浩之くん」
「はい、今日はお邪魔しました」
お袋さんに軽く頭を下げ、オレは玄関へ向かった。
「別に送ってもらわなくてもいいぜ?」
靴を履きながらあかりに言う。だいたい女の子に送ってもらうなんて……普通逆だろ?
「うん、でもせっかくだから家の前まででも……」
「まぁ、それならいいけどな……」
立ち上がり爪先でとんとんと床を叩いて足を靴に押し込む。そのままオレは玄関のドアを開け外に出た。
外はすっかり暗くなっていた。時刻も八時を過ぎれば当然か……。星星の瞬く大空は、黒に溶け込むような限りなく深い蒼。高く上った皓い月が変わらず静かにオレたちを照らし出していた。
「今日はありがとな。なんのかんの言ってもやっぱり嬉しかったぜ、あかりの料理が食えて」
「私は浩之ちゃんに喜んでもらえれば、それが一番嬉しいから……」
あかりがオレを見ながら言う。
「そっか、いつも悪ぃな、あかり」
「ううん、そんなこと……! 浩之ちゃんに喜んでほしいから、私、頑張ってるんだよ?」
「ああ、お袋さんもそう言ってたな」
お袋さんにからかわれたあかりの反応が面白くて、つい意地悪を言ってしまう。あかりは少し困ったような、嬉しいような複雑な表情を浮かべながら、
「お母さん、いきなりあんなこと言うんだもん。びっくりしちゃった」
「オレが毎日来たら、あかりが全部作らなけりゃならなくなるんだよな?」
「う……」
思わず言葉を詰まらせるあかり。
「気にすんな、冗談だよ」
「もう、浩之ちゃんまで……。ホント、意地悪なんだから……」
でも、と付け加えたあかりがオレの服の袖を掴む。
「また来てくれるのはホントだよね?」
「ああ、すぐにってのはちょっと勘弁だけど、たまになら、な」
「――ありがとう」
言いながらオレの胸にあかりが顔を埋める。ほのかに香るあかりの優しい匂い。オレはあかりの頭をそっと包み込むように抱きしめ、さらさらの髪をそっと撫でた。
「あかり……」
オレの呼び掛けに顔を上げるあかり。心なしか潤みを帯び揺れる瞳。
「浩之ちゃん……」
あかりはそう言いながら静かにその瞳を閉じた。
ほんのりと頬に差す朱が白い肌に映える。オレはあかりの頬にそっと手を添え唇を近付けた。
「――ん……」
そっと唇が触れる。あかりが小さな吐息を漏らし、か細いその両腕がオレの背中に回された。
オレは唇を重ねたまま両手であかりを抱きしめあかりに応えた。
どちらからともなく離れる唇。あかりが、はぁ……、と熱を帯びた溜め息をついた。
オレはもう一度あかりを抱きしめ、耳元で囁く。
「それじゃ、またな……」
「……うん」
かすれるような小さな声。
しばらくきゅっとあかりを抱きしめたあと、オレは両手をあかりの背から離した。名残惜しそうにオレの背に添えられていたあかりの手も、それからほどなく離れた。
「お休みなさい、浩之ちゃん」
まだ潤んだままの瞳でオレを見つめながらあかりが言った。
「ああ、お休み。また明日な」
「うん、ばいばい」
そう言ってあかりは玄関のドアを開け、家の中に戻って行った。
家に戻るあかりにオレは軽く手を上げ挨拶の代わりにしてから、家に向かって歩き始めた。
初夏とはいえ、木々の枝を揺らす風にはまだ少しだけ肌寒さが感じらる。
そんな風に吹かれながらも、オレの頬は熱く、唇にはあかりの温もりが残っていた。

side D or Epilogue:Good night my Darlin’…
――ふぅ……。
ドアの扉を後ろ手に閉めて大きく息を吐いた。
まだ熱を帯びたままの頬。
まだ唇に微かに残る浩之ちゃんの温もり。私はそっと指で触れてみる。
…………。
熱の引きかけた頬に再び熱さが戻ってくる
――や、やだ……、私ったら何してるんだろ?
ちょっと変だよね……?
さて、と……。お夕飯の後片付けを済ませなくちゃね!
「――あかり?」
突然私を呼ぶ声。お母さんだ。
「え?あ、な、何!?」
びっくりして思わず大きな声で返事をしてしまう。ダイニングの入り口から顔を覗かせたお母さんが不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたの? ぼうっとして」
「う、ううん。なんでもないよ。それよりも後片付けしなくちゃ……」
慌てて靴を脱いで家に上がろうとする私を、お母さんは笑いながら、
「後片付けだったら私が済ませちゃったわよ?」
「え?」
「だって、あんまり遅いんですもの、てっきり浩之くん家まで一緒に行ったのかと思って。だから今日はもういいわよ。ご苦労様」
「あ、ご、ごめん……。ちょっと家の前で話してただけなんだけど……」
「ふふふ、いいから早く上がりなさいね?」
くすくすと笑いながらお母さんが顔を引っ込めた。
――もう、何がおかしいんだろう?
私もお母さんに続いて、ダイニングに入る。
お母さんの言った通り、テーブルの上に並べられていた食器はきれいに片付けられ、食器棚の中の同じ場所に整然と並んでいた。室内を照らす照明の白い光がガラスの食器をきらきらと輝かせる。
とりあえず、私は椅子に腰を下ろした。
「はい、あかり」
言いながら、お母さんが私のマグカップに注がれた入れたてのコーヒーを私の前に置いた。
「あ、ありがとう」
お母さんは私のちょうど向かい、さっきまでは浩之ちゃんが座っていた場所に腰を下ろす。
「それにしても、今日はがんばったわね~」
「……え?」
「浩之くんが来るってだけで、あんなに一生懸命になれるんだから……」
「もう、その話しならさっきしたでしょ?」
私の言葉にも耳を貸さずにどんどんと話しを進めるお母さん。
「――やっぱり毎日来てくれた方が、私も助かるんだけどね~」
言いながら私を見て、意味ありげな笑顔を浮かべる。
「ひ、浩之ちゃんが迷惑がるよ……」
何もかも分かったような顔で話すお母さんを見ていると、私の想いまで見透かされているように思える。お母さんが私たちのこと気にかけてくれるのは嬉しいけど、やっぱり恥ずかしいな……。
「あらあら、あかりまでそんなこと言ってたら、浩之くんまた当分来てくれないんじゃない? 今日だって誘ったのはあかりなんでしょう?」
「う、うん……」
「それに浩之くんもまんざらじゃなさそうだったじゃない。やっぱりあかりの料理が好きなのよね」
『好き』……その一言で胸が高鳴る。
「す、好きって……」
「何、真っ赤な顔してるのよ?」
「あ、り、料理の話だったよね」
もう一度くすりと笑って、
「まぁ、あかりのこと『も』好きなんでしょうけどね……」
「……お、お母さん」
いたずらっぽい笑みを浮かべたまま言ったお母さんの言葉に、私は真っ赤になって俯いてしまう。視線を落とした先のマグカップの中でコーヒーがゆらゆらとゆるやかな波を打つ。
「やっぱり……分かっちゃうよね?」
「浩之くんと同じこと言うのね」
「え?」
顔を上げお母さんを見る。
「浩之くんもああ見えて意外に照れ屋だから、なかなかはっきりとは言ってくれないけどね。あかりのこと十分過ぎるくらい想ってくれてるじゃない」
コーヒーカップに口を付け一呼吸置いてから、
「あの子にだったら私も安心してあなたを任せられるわね」
「お母さん」
「大切にしてもらいなさいね?」
「うん……」
「大丈夫よ、浩之くんもちゃんと言ってくれたから」
「え!? 浩之ちゃん、何て?」
お母さんは笑いながら首を横に振って、
「ふふふ、それは内緒だけどね」
「お母さん、ずるい。教えてよぉ!」
「そんなに言うんだったら浩之くんに直接聞いてみればいいでしょ?」
「……浩之ちゃんが教えてくれる訳ないでしょう?」
「そうかもね」
くすくすと笑みを絶やさずに私の抗議の言葉も軽く受け流す。
「はい、それじゃ、この話はここまでね」
ぽん、と両手を合わせてお母さんが一方的に話しを打ち切った。
――もぉ、私だって訊きたいこといろいろあるのに……。
「あかり、明日もお弁当作るんでしょ? 準備しておかないと明日つらいわよ?」
「う、うん……」
言って席を立ち、ほとんど口を付けなかったマグカップを持って、キッチンに向かう。水道の蛇口をひねり、勢いよく流れ出した水でカップを洗い流す。水を切って布巾で水気を拭き取って食器棚に戻す。
「それじゃ、私は先に休ませてもらうから……」
「あ、うん。お休みなさい、お母さん」
ダイニングを後にするお母さんに挨拶をする。
私も明日の準備を早く済ませなくちゃね。
明日のお弁当のおかずは何にしようかな? 冷蔵庫の扉を開けて材料の確認。 一品一品手に取りながら献立を頭の中で思いめぐらす。
……うん、これにしようかな?
簡単に明日のメニューを考え、使う食材をひとまとめにして冷蔵庫に戻す。 最近はもう日課になっちゃってるね……。でも、浩之ちゃんの嬉しそうな笑顔を思うと、大変だなんて考えもどこかへ行っちゃうみたい。
それじゃ、私もそろそろお風呂入って休まなきゃ。
照明のスイッチをパチリと下ろして、私はダイニングを後にした。
***
――ふぅ、気持ち良かったぁ……。
濡れた髪を乾かしブラシで髪を整える。
私はそのままベッドに身体を投げ出し、くるりと半回転して部屋の天井を眺めた。
窓の外には満天の星空。変わらぬ静けさを湛えたままの月。
――今日はいろんなことがあったなぁ……。
お風呂上がり特有の、気怠さ混じりの心地好さに包まれながら今日の出来事を思い返してみる。
昨晩は久しぶりに浩之ちゃんの家で一緒に過ごせて楽しかったなぁ……。お料理も美味しいって言ってくれたし。でも、あんまり『ここが悪い』と かって言ってくれないんだよね。もっとおいしいお料理作りたいからいろいろ言ってほしいんだけど……。今度、浩之ちゃんに訊いてみようかな?
お昼の時の浩之ちゃんの驚いた顔、唖然としてたっけ。ふふふ、私もちょっと意地悪だったかな? でも、浩之ちゃんも私に意地悪なこと言うからおあいこだよね?
来栖川先輩にも褒められて嬉しかったなぁ。結局浩之ちゃんに押し切られて、先輩の分もお弁当作ることになっちゃったけど、こうなったら頑張って先輩も『美味しい』って言ってくれるようなお弁当作らなくちゃね!
でも、先輩ってどんなお料理が好きなんだろう? 今度あったら訊いてみないとね。
放課後、志保ったら私のこと浩之ちゃんの『奥さん』だなんて……。私たちそんな風に見えてたのかなぁ?
浩之ちゃんも困ってたから、志保には後でお願いしておこうかな……?
でも――恥ずかしかったけど、嬉しかったな。
いつかホントに浩之ちゃんの奥さんになれたらいいな……なんて、ちょっと気が早いかなぁ?
飛躍しすぎな考えに苦笑しながら目を閉じる。
目を閉じれば浮かんでくる浩之ちゃんの笑顔。ぶっきらぼうで素っ気ない振りしてるけど、すごく優しいこと知ってるんだから。
『大切にしてもらいなさいね?』
さっき聞いたお母さんの言葉がふと頭をよぎる。
大丈夫だよ、お母さん。浩之ちゃん、これまでだって、私をずっと大切にしてくれてたんだから。多分、お母さんが思ってるより、ずっとずっと大切にしてくれてるよ。
だから、心配しないでね。私、すごく幸せだから……。
昨日より今日、今日よりも明日。毎日どんどん好きになる。
明日もいい一日にしようね。
私にとっては浩之ちゃんと過ごす毎日が一番の宝物だから……。
快い眠気が訪れる。身体がふわふわと浮かぶような感覚。段々と意識が遠のいていく。私は逆らわずにその感覚に身を任せた。
お休みなさい、浩之ちゃん。
明日も、明後日も、これからも、ずっと一緒にいようね……。
大好きだよ。

――了――

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